第19話 閑話
それからは特に理解しづらい会話もなく、雑談もそこそこに俺は佐藤(と真彩さん)を家まで送り届けた。
不意な出会いはあったものの、ようやく肩の荷が降りた気分だ。
グループで唯一の男ということもあってずっと気を張っていたが、誰も怪我とかせずに買い物を終えられたことで緊張が少し切れる。
「……本当に良かった」
そもそもの女性経験の無さもあるが、今日俺がここまで気を張っていたのは出かける前にもしっかりと胸に誓った通り、佐藤と美羽を守るためだ。特に佐藤は、万が一にも何かあったら笑い話にすらならないことは言うまでもないだろう。
例えば、蜂に刺されるのは一度目よりも二度目の方が危険だと言われるように、一度痴漢の被害に遭ってしまっている佐藤は二度目があった時にどうなってしまうか分からない。それこそ二度目の方が不安や恐怖を強く感じてしまい、二度と電車に乗れなくなってしまう可能性がある。さらに最悪の場合、俺を含めた男全員を受け付けなくなるということも、可能性としては十分考えられる。
……でも、そんなのは嫌だ。
せっかく仲良くなった友達をそんな経緯で失うのは、絶対に御免だ。
だからこそ、少なくとも俺がそばにいる時は、絶対に、誰にも佐藤を傷つけさせない。
それは毎日の通学帰宅でも同じことだけど。
「あーごめん、ちょっと待ってー」
考えに耽っていると、背中から声をかけられる。
ハァ、ハァと肩を上下させながら俺の真横を通り過ぎ、声の主は行手を阻むように立ち塞がった。
「いやぁ、やっぱり筋肉痛で走るのはやめておいた方がいいねー。足パンパンだよー」
「真彩さん……?」
数分前に別れたばっかりなんだが、真彩さんはどうやら俺の後を追ってきたらしい。片膝に手をつきながら、疲れた様子でもう片方の手をひらひらと揺らす。
「やっほー、日向くん」
「ど、どうも」
一応会釈を返すと、彼女は愉快そうに笑う。
「なんでここにいるんだって顔してるね」
「それはそうですよ。……なんでここにいるんですか?」
繰り返すが、真彩さんとはさっき家で別れたばっかりだ。
「ちょっと駅に忘れ物しちゃって」
「あぁ、なるほど」
そういうことなら納得……と思ったが、それだと走ってきたことと今こうして話していることに矛盾が生じる。
大切な物なら俺を気にしてないで駅まで走っていくべきだし、それほどでもない物なら最初から走る必要がない。筋肉痛だというのなら尚更。
「……っていうのは、家を出てくる時に彩音ちゃんに言った建前。本当は君ともう少しお話がしたかったんだー」
「俺と?」
「うん。他の目的なんて何にもない、ただ君とお話ししたいだけ」
そう言われても、そこまで興味を持たれてる理由に心当たりがない。共通の知り合いも話題も佐藤くらいなものだろう。
「とりあえず、歩きながら話そっか。妹さんが家で待ってるでしょ?」
「助かります」
美羽のことだし大丈夫だとは思うが、家に着くなり寝てるようならあんまり遅くならないうちに起こしてお風呂に入れないといけない。
ここはお言葉に甘えさせてもらう。
「いいよ車道側歩かなくて」
「いや、そういうわけには」
「優しいねー日向くんは。でも君の方が子供なんだから、そういう気遣いは不要だよ。ほら、寄って寄って」
ぐいぐいっと肩を押されて一歩ずれると、空いたスペースに真彩さんが入り込み当たり前のように腕を組んでくる。
佐藤が「近すぎ」と注意した距離感だ。
否応なしに意識しちゃいけない柔らかさが俺の上腕を包み込む。
「……酔ってます?」
「いやだなぁー、あたしまだ十九だよ?」
前に佐藤から聞いたことがあったので知ってはいたが、酔ってないのにこの距離感はなんというか……
「あーでも、お仕事の終わり側にお酒の入ったチョコはいくつか食べさせられたから、それかな? あ、もしかしてあたしお酒くさい?」
「そんなことはないと思いますけど」
「本当? もっと近くで嗅いでみてよ」
「え……」
「ほら、あたしの手とか、首とか、口元とか……」
……な、なんなんだこの人は。
腕を組むどころか俺の身体に絡みつこうとしてくるのでさすがにそれは制止するが、車道側を取られているので無理に突き放すこともできない。俺の腕に身体を寄せてくることまでは許容せざるを得ない状況。
やっぱり酔ってるだろこの人……。
それでもお酒の匂いは感じず、代わりにシトラスの香りが俺の鼻腔をくすぐる。
「君、あんまりテレビとか観ないでしょ」
無理矢理な話題転換。
離れる気はないらしい。
「スマホを触ってる時間のほうが長いのは確かですね」
「あはは、何それ遠回しだなー」
なんて楽しそうに笑う真彩さん。
しかし、その真意が見えてこない。
まさかこんな雑談をするために走って追いかけてきたわけじゃないだろう。
「……」
「……」
本題を待つ意味も込めて沈黙を用意すると、真彩さんは不意に立ち止まった。
「……ねぇ」
そして、全身を強張らせたのが腕から伝わってくる。
姉妹だからかなんなのか。
恐る恐ると言った様子で俺を見上げてきた真彩さんの顔を見て、初めて佐藤と会った時のことを思い出す。
「……君だよね。あの子を痴漢から助けてくれたのって」
その一言で、彼女の目的を察する。
わざわざ佐藤がいないタイミングを狙ったであろうこと。
俺を追いかけてきてまで伝えたかったこと。
「なんというか……たまたま近くにいただけですから」
なるべく優しくそう答える。
それにぴくりと反応した真彩さんは、静かに俺から離れ、深く深く頭を下げた。
「……ありがとう。本当に本当に、ありがとうッ」
何度か鼻をすすりながら、真彩さんはありがとうと繰り返した。
気の抜けたような話し声からは想像もできないほど熱のこもった言葉が紡がれ、妹をどれだけ大切に思っているのか伝わってくる。
「俺はただ、たまたま同じ電車に乗ってたクラスメイトを助けただけですよ。犯人と殴り合ったわけでもないし、本当にただ声をかけただけですから」
それに、感謝の言葉なら既に佐藤から嫌というほど貰ってるので、これ以上は過剰摂取になってしまう。
「……っ、でも」
だがそれはあくまでも俺の意見。
うぬぼれるつもりはないが、助けられた側が感謝でいっぱいになってしまうのも理解できる。
「……あたし、普段はいっつも仕事のことで手一杯で……あの子にお姉ちゃんらしいこと、全然してあげられてなかった」
そう言って自分の過去を悔いる。
「……それなのに、お母さんから彩音ちゃんが痴漢にあったって聞かされた時、頭が真っ白になって、何にも考えられなくなったんだ」
未だに頭を下げたまま真彩さんは続ける。
「時間が止まったようだった。『あぁ……終わった』って、それしか考えられなくて。ようやく元気になってきたのに、今後こそあの子は心を閉ざしてしまうって、思って……」
「え……?」
「……」
しまったという表情で顔を上げた真彩さんと目が合う。
しかし、追求を避けるように目が逸れる。
「……えっと、つまりね……、痴漢には遭ったけど、大事に至る前に助けてくれた人がいたって聞いて、あたしは心の底から嬉しく思った。その場で膝から崩れ落ちちゃうくらいにね」
だからお礼を言わせて欲しいと彼女は呟く。
「本当はあたしから君に会いにいくべきだったのに、ごめんね」
「気にしてませんよ。感謝されたくて助けたわけじゃないですから」
「それはそうかもだけど……もぅ、君のそういうところを気に入ったのかな、あの子は」
どこか納得したように吐息を漏らした真彩さん。
しかし、その瞳はまだ少し揺らいでいる。
「日向くんには返しきれない恩がある。それは、これからちょっとずつ返させて欲しい」
必要ないですと答えるのは簡単だったが、恩返しに関しては頑固だった佐藤の例がある。我慢比べをしていたら下手するといつのまにか現金を……なんてことにもならないとは言い切れないので、俺は無言で頷いておくことにした。
「……ありがとう」
「こちらこそ、わざわざ追いかけてきてまで伝えてくれてありがとうございました。……じゃあえっと、俺はこれで……」
気になる言葉はあった。
それでも、きっとそれは佐藤本人のいないところで勝手に聞いてしまっていい話じゃない。後でまた気になるようだったら、佐藤に直接聞けばいい。
「……待って」
話は終わったと思い軽く頭を下げた俺に、真彩さんはまだだと言って再び距離を詰めてきた。
そのまま手を握られる。
歳上といってもわずか三歳分。身体的には余裕で『女の子』な真彩さんの手は、佐藤の手よりも少しだけ大きく、少しだけ汗ばんでいた。
「君はもう、あの子のことを助けてくれた。だから、こんなこと頼める義理じゃないのは分かってる。……それに、今から言うことは多分……姉が妹に言っちゃいけないこと」
握られた手に力が込められる。
慎重に言葉を選んでいるのか、定期的に言葉が途切れる。
できれば言いたくない、そんな苦悩が見て取れる。
それでも覚悟を決めたように真彩さんは口を開く。
「あの子は……彩音ちゃんは、一人では変われない。変わったとしても維持できない。放っておいたら、すぐにまた元に戻っちゃう」
「……どういう意味ですか?」
「……」
聞いてみるが答えは返ってこない。
代わりに今にも消えてしまいそうな儚い笑みを向けられて、俺は無意識に息を呑んだ。
「ごめんね。変なこと言っておいて、ちゃんと説明してあげられなくて」
「……いえ」
「あたしも、どこまで言っていいのか分からない。できることならさっき知り合ったばかりの人には何にも教えたくないっていうのが正直なとこだけど、でも、彩音ちゃんは君のことを信頼してるみたいだったから……」
初対面の人を無闇に信用しないのは悪いことじゃない。
むしろ警戒することで良い結果に繋がることも多いだろう。
なら、なんで話そうとしてくれたのか。
本人の言うように妹への信頼が全てなら、俺を追いかけてくる前に本人に直接確認するか、最初から佐藤も交えて話をすれば良かったのに、そうしなかった。
遠回しにでも伝えておきたいことがあった。
それは分かるが、それ以上は分からない。
「……あの子は、アイドルには向かない」
「アイドル?」
突飛な単語につい聞き返してしまうが、もちろん返事は返ってこない。
佐藤のポテンシャルを知っている身からすれば実はアイドルでしたと言われても驚きはしないが、そういう言い方とは違う。
「……ごめんね。やっぱりこれ以上は言えないや」
苦笑した真彩さんは後ろ手を組みながら二歩三歩と下がっていく。
距離が開き、全身が見える。
細い線。綺麗なシルエット。
どこからともなく吹いた風にショートボブの黒髪が靡き、それを手で押さえた真彩さんはそれこそ雑誌の表紙を飾っていそうなアイドルに見えた。
「……俺はどうしたらいいですか?」
真彩さんが答えやすいように、詳細はいらないから俺にして欲しいことを教えてくれと訊ねる。
「……賢いね、本当に」
どこか安堵した様子で真彩さんは笑った。
そして、ずっとかけていたメガネを外す。
「あの子の隣にいてあげて。それだけで、全部良い方向に行くはずだから」
「分かりました」
言われずとも離れる予定はないが、今はしっかり頷いておく。
予想通りというかなんというか、素顔の真彩さんは疑う余地もなく美人だった。
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