第41話:気遣いと本心

 頭を押さえられたまま、トビの上目遣いがあたしを見た。歯噛みして、素直に謝ろうなんて気持ちがないのは明らかだ。


 何を言われるんだろう。何をされるんだろう。

 膝に載せたリュックを、お腹へ引き寄せる。中でキバドラが低く唸っている気がした。


「だって私、ずっと好きなんだよ。育手先輩のこと」


 幾ばくかの沈黙から、トビは呟く。カモの手をそっと外し、口を尖らせて起き上がる。


「でも先輩は、何かっていうと『明が、明が』って。大学へ居るうちに結婚してもおかしくないと思ってた。だけど実際は私が卒業した後だったって聞いて、譲ってなきゃチャンスもあったのかなと思った」


 これは、あたしに関する説明なのか?

 トビの目は、明さんとあたしとの間を睨んで動かなくなった。ではカモはというと、膝上で自分の手を揉み合わせて神妙な面持ち。

 そのせいか明さんも、話を止める素振りがない。


地元こっちへ戻って、諦めてた。信じなくていいけど、本当に。それが一年前? カモがカフェを見つけてきた」


 相棒へ問うのに、トビは俯いた。首肯があるとため息で、また上目遣い。


「まあ自分の店かも分かんないし、挨拶だけしとこうって。それで二人で行った。そしたら四人で始めた喫茶店とは似ても似つかなくて。ただ居るだけで、先輩を褒めるお客の声が聞こえて」


 投げ捨てるように、トビは声を途切れさせた。それから大きく、胸を張って深呼吸でもするかに息を吸う。


「腹が立った」


 一度に吐いた盛大な息とはうらはらに、かすれて小さな声。しかし聞き間違えてはいないはず。


「でもやっぱり好きだなと思って、話し好きそうなお客を捕まえた。夫婦揃ってるところは、あんまり見ないって聞いた」


 何であたしに聞かせるんだ。当の本人が居るじゃないか。

 その店長を見ると、落ちた眉尻の下で眼を見開いていた。


「何度も通って、店員の子とも仲良くなって、先輩と明は仲が悪いって分かった。じゃあ私が先輩を貰ってもいいし、そうなったらあの店も見なくて良くなるし一石二鳥になる」


 うちのカフェを見たくもない。潰したら一石二鳥。

 そこまで嫌う意味が、あたしには分からない。同時に、あたしが口を出すところでもない。盗み見た明さんが舌打ちをして、そう思った。


「後は先輩の話した通り、嘘を吐いて何度も連絡した。だけどなかなか店の外まで来てくれなくて、何でよって思ってたら気がついた。今の先輩は『明が、明が』じゃなかった。ふた言目に出てくるのは『ハシイさん』だった」


 そう言って、トビはソファーの背もたれに体重を預ける。さっき吐ききれなかった息を残らず追い出すみたいに、天井へ息を噴く。


「仲良くなった店員の男の子も、店長とハシイさんは怪しいって言ってて。おまけに育手先輩に逃げられて、追いかけたらそこに居たって言うし」


 重い空気の端から挿し入れる感じで、カモが付け加える。

 なるほど、あたしを嫌う理由はよく分かった。問題は、何もかも勘違いってこと。

 言われるほど、店長から話しかけられた記憶はない。あたしと店長が怪しいとか、その男の子とやらは何を見ているんだ。


「だってさ、穂花ちゃん。店員の男の子は後回しにするとして、どうする?」

「ど、どうって?」

「いやいや。謝れとか、慰謝料寄越せとかあるでしょ。ペンも壊されたんだよね」


 なぜか急に、明さんは腕組みも脚組みも解いた。代わりに両の手を頭の後ろへ、南国のバカンスですかという雰囲気でソファーにもたれる。


「謝るとか、お金とか――」


 反対にあたしは、背中を丸めた。明さんに振り返る視線をゆっくり、膝上のリュックへ動かす。


 ごめんなさいと言ってもらったら。仮に心からの言葉だったとして、あたしは満足するだろうか。

 プレミア価格を、いやその何倍もを弁償してもらったとして、あたしは許せるだろうか。


「凄く大事な物なんだから。穂花ちゃんが何を要求しても、欲張りすぎってことは無いよ」


 あたしの憧れた、お兄さんみたいなお姉さんがグッと親指を立てて見せる。場違いにイイ笑みで、白い歯が光ったようにさえ感じた。


「私より、明さんは? 店長とこの人達のこと、どう――」

「私?」


 気遣いのつもりだった。あたしより明さんのほうが深刻だから、先に決めるのは僭越だと。

 だけどきっと、自分で考える幅を減らそうとしただけだ。


「いえ、ズルいですね。すみません、自分で決めます」

「ズルくも、すまなくもないよ。うん、穂花ちゃん自身のことだけ考えて」


 少し、時間をください。言ったつもりだが、声に出さなかったかもしれない。しばらく、リュックを開き、中のサインペンを見つめた。

 青いマスキングテープの端が捲れ、放っておけば剥がれてしまいそう。ずっと、ずっと、あたしは何度でも貼り替えて持ち続ける。


 それなら。


 言ってみて、それはやめてと明さんが言うなら引き下がってもいい。でも、あたしの気持ちだけを考えるなら他の選択肢は無かった。


「私、夜のシフトなんです。その時間には、もう来ないでください。だけどできれば、カフェには来てください。たった二人でも、売上げには大事なお客様なので」

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