終章 神さまの隣
神話のおわりに
「小春、一緒にお昼食べようよ」
「え……?」
週が明けて、月曜日。
昼休みに入ってすぐ、教室はひどい緊張感に包まれた。
「ねえ、いいでしょう?」
教室中の生徒たちから凝視されていても、まったく気にする様子はなく、由希斗は小春の席までやってくる。
小春は、危うく自分の弁当箱を取り落とすところだった。
「えっ……ちょっと、え……?」
戸惑う小春に、由希斗がきょとんとする。
「だめ?」
「え……だめ、とかじゃ、なくて……」
教室が、しん、と静まり返った。
呆気に取られていた小春は、周りを見渡してふと我に返り、自分の弁当箱を左手に、右手で由希斗の腕を掴んで、最大速度で教室を飛び出した。
「えっ、どうしたの、小春?」
「それはこっちの台詞よ!」
廊下も走り抜けて、たどり着いたのは屋上だった。ひと気のない場所を目指していたら、そこしか思い浮かばなかったのだ。
重い扉を体当たりに近い勢いで押し開け、そこが無人であることを確かめて、深く息を吐く。隣の由希斗はたいして息を乱していないのが、微妙に悔しい。
ここまで走っているあいだに、小春も何となく何が起こったかわかってきた。
絵里奈の記憶を消さず、これからも友だちでいることにした件を、小春は、絵里奈や、以前神域に来た杏、祐実、佐々良あたりまでの仲に留めるものと思っていたのに対し、由希斗は、すべての街の住人と見なしたようだ。
コミュニケーション不足が招いた悲劇――もしかしたら、喜劇――である。
「小春、だめだった……?」
小春の様子を見て、由希斗も何事か齟齬があったのに気づいたのだろう。しょんぼりされると、小春は強く出られない。
それに、今日は急で驚きはしたけれど、もし事前に相談されていたら、べつにかまわないと答えていた。
「ちょっと、心構えができていなかっただけよ」
「ごめんね。僕、小春が僕のお嫁さんだってこと、本当は、ずっとみんなに言いたくて。だから記憶を消さずにいることにしたとき、これからは小春と恋人っぽいこと、できるかなって……」
「ええそうね。……えっ!? 恋人っぽいこと!?」
小春は飛び上がりそうになった。もう動きを止めて久しい心臓が、三センチは上に跳ねたような気がした。
「本当は夫婦だけど、恋人っぽいことも、まだ全然してないし……」
由希斗はマイペースに、のんびりと言った。小春の情緒が大荒れになっていることには、気づいていないらしい。
小春にとって、由希斗の恋人っぽいことをしたい発言は、まさに晴天の霹靂である。
急激に体が熱くなって、頬が火照る。血の代わりの霊力の巡りが、千々に乱れそうだ。
縋るものがほかになく、小春は無意味に弁当箱を抱きしめた。
「なっ、急に、えっ?」
「どうして驚くの?」
「だってユキ、今までそんなそぶり、少しも……」
ぱち、と瞬きをし、由希斗は少しむっとしたように目を細めて唇を曲げた。そうして一歩、小春に近づくものだから、小春はつい後ずさってしまう。それがまた気に入らないようで、小春が下がったぶんだけ距離を詰められ、ついに小春の背は屋上の外周に張られたフェンスについた。
「どうして逃げるの?」
「逃げたわけじゃないのだけれど……」
間近に迫る由希斗に、小春がいつになく緊張していると、由希斗は小春の腕から弁当箱を取り上げ、ご丁寧にハンカチを引いて彼のものとあわせて地面に下ろし、そしてまた小春を見下ろした。
小春には、陽光をさえぎった由希斗の影が落ちる。
「今までは、我慢してたの」
「えっ?」
「小春を、僕のわがままでお嫁さんにしたでしょう。だから、これ以上は我慢しようって、思っていたんだよ」
「お嫁さんって、わたしはあのころまだ十三、四だったでしょう? それを……?」
当時の感覚からすれば、そこまで早いわけではない。だが、すっかり現代の価値観に染まった小春は、やや困惑して由希斗を見上げた。
小春の言いように、由希斗は眉を寄せる。
「違うよ。小春をお嫁さんにしたのは、生かすために咄嗟にほかに手段がなかったからで、僕は人の歳の数そのものはどうでもいいけれど、何もわかっていないような子どもに手を出す趣味はない」
「言っていること、矛盾していないかしら」
「してない。初めは、小春にそばにいてほしいだけだったよ。でもそのうち、それだけじゃなくなっていっただけ」
由希斗は、子どものようだった拗ねた顔を、急におとなびて、切なげな表情へと変えた。そのくせに、小春が納得していないからなのか、フェンスまで追い詰めておきながら、まだ触れてこようとはしない。
「僕、小春が好きだよ。小春はもう僕のお嫁さんだけれど、お嫁さんにしたいくらい好きなのは、小春だけだよ」
「えっ?」
「え?」
由希斗が、鳩が豆鉄砲を食らったかのように目を丸くする。それから、不満そうに唇を尖らせた。
「どうしてそこで驚くの? 僕のお嫁さんは、小春だけなのに」
「だって、あの舞姫さまはどうなの? ユキがお嫁さんにしたのでしょう?」
「違うよ、それは作り話」
「えっ? 舞姫さまはいなかったってこと?」
衝撃の事実に、小春が疑問符を頭のなかでぐるぐる回していると、由希斗は何かを考えるように少し中空に視線をやったあと、「あっ」と声を上げた。
「もしかして、小春もあの子にやきもちをやいていたの?」
「あの子って、誰?」
「神話で『始まりの舞姫』と呼ばれている子。僕の、初めての人間の友だち」
「友だち!?」
「うん」
実にあっさりと由希斗がうなずく。小春にとっては、驚きの連続だった。
神話は、必ずしも真実を伝えない。とはいえ、小春は今日まで、舞姫を見初めた話が真実でないとは、思っていなかったのだ。
金魚さながら口をはくはくさせて、何と言っていいのかわからないでいる小春に、由希斗が言う。
「僕があの子を娶ったっていうのは作り話だよ。仲のいい友だちだったけど、べつに、お嫁さんにしたい気持ちじゃなかったし」
「それ、どうしてわかるの? 好きだったんでしょう、その子のこと」
小春が言うと、由希斗はじっと小春を見つめて「わかるよ」と言った。
「だって、小春に感じる気持ちと、全然違うもの。僕はあの子が結婚して、子どもを授かっても心から喜べたけれど、小春が僕じゃない誰かと結婚するなんて、考えただけでつらい。無理。だめ。絶対に許さないから。小春はもう僕のお嫁さんなんだから」
「そ……そう……」
気圧される小春に、由希斗が力強くうなずいて追い打ちをかける。それから、懐かしげに目を細めた。
その、顔。
彼が小春を通して舞姫を見ているらしき、愛おしげな表情。
それがあるから、小春は誤解したのだ。そんな顔をしておきながら、由希斗は舞姫を愛しているわけではないと言う。どうにも信じられない。
「僕はあの子が結婚して、子どもを授かって、その子や孫に囲まれて、幸せに死ぬまでを見届けたよ。そしてその子孫をずっと見守っていた」
小春の疑惑に気づく様子もなく、由希斗はやはり愛しげに小春を見つめながら言った。
「……今は、小春ひとりだけになってしまったけれど」
「えっ? わたし、舞姫さまの子孫なの?」
驚きで声が高くなる。そんな小春に、由希斗も目をまあるくして、意外そうに首を傾げる。桃色の瞳が陽光をうけて可愛らしくきらめいた。
「そうだよ。……知らなかったの?」
「ちっとも……。事実って、伝わらないものね……」
つまり、由希斗の表情は、小春に向けられたものだったのだ。小春を通して舞姫を思い出しつつ、舞姫から繋がって小春を想い、あんな顔をしていた――のだろう。
小春がひとりでようやく納得できたことにも気づかず、由希斗はさらりと話をまとめた。
「そうだね。神話も、なんとなくは出来事を伝えているけれど、いろいろ違うし」
その『いろいろ違う』ことが小春にとってはかなり重要なのに、彼はあまり気にしていない口ぶりである。
「それより、小春が僕を好きでいてくれたことに気づかなかったの、悔しいな」
由希斗が桃色の瞳を翳らせて、よほど大事のように言う。小春は、それで少し冷静になれた。
「言わなかったもの。わたし、小さいころからずっとずっと、あなたが好きだったの。だからよ、気づかなかったのは」
「まあ、小さい子には僕もそういう興味はないからなあ……」
やけに俗っぽい話をしている。それに気づいて、小春はつい、くすくす笑ってしまった。
永く生きている神さまなのに、心のありようは、人間と少しも変わらない。この国の神話では、人は神さまから生まれてきたとも言われるから、人が神さまに似ている――もとは、同じものだったのかもしれない。
「もしかしたら、気づいていないだけで、言ってこなかったこと、たくさんあるかもしれないわね」
小春は改めて由希斗を見上げ、目を細める。
たとえ、もとが同じだとしても、今はふたつにわかたれた身だ。心も、身体も、それぞれ違うものを持ち、自分たちにとって命のみなもととも言える霊力を共有していてさえ、互いの心のうちを知ることはできない。
言葉にし、耳を傾けるほかには。
「そうかも。……ねえ小春、今まで言えなかったこと、言ってもいい?」
柔和に笑っていた由希斗が、唐突に真剣な声音で尋ねるから、小春の背すじがぴりりとしびれる。小さなため息で緊張を逃がして、「いいわよ」と答えた。
すると由希斗は、小春と額が触れるほどに顔を寄せて、祈るようにささやいた。
「あのね。小春と、キスがしたい」
――神さまが、何て顔をしているの。
由希斗は、切なさと悲愴さを懸命に混ぜ合わせたような顔で、小春を見つめていた。そういう表情は、何か、もっと重大なことのために取っておくべきだ、と小春は思った。
少なくとも、神が小娘にキスを乞うくらいでするものじゃない。
けれど、そんな情けなさがどうしようもなく愛おしい。
小春は、由希斗の肩のあたりに手のひらを添え、軽く仰いて目を閉じた。
「……どうぞ」
と、そう言ってから、急な恥ずかしさに襲われる。けれど、顔や仕草に出さないよう、必死で押し殺した。こういうことは、恥ずかしがったほうが、なおのこと耐え難いものになるのだ。
小春の羞恥が限界を迎える前に、早く、ひと思いにやってほしい。
そんな小春の内心を知りもせず、由希斗は、すぐには小春に触れてこなかった。
焦れったいほどの優しい遅さで、小春を大事に包むようにして長い両腕をそっと小春の背に回す。互いの体が近づいたぶん、小春も、彼の胸に添えていた手を滑らせて、そろりと由希斗の首の後ろあたりに引っ掛けた。そうやって抱きしめあって、その最後、由希斗はこの空間に封をするように小春の唇に口づけた。
「……小春」
触れ合わせた唇を少し離して、由希斗は小春の名をささやく。小春は薄く目をひらき、どうしたの、と視線で問うた。彼は答えず、また小春の唇に触れる。
「ずっと、こうしていたいけど……」
二度目のキスは、初めてのものよりほんの少しだけ短かった、気がした。由希斗が小さな声でぽつりと呟くのを、小春は少しぼんやりした頭で聞いていた。
「キスもしたいし、小春とお喋りもしたい」
「……欲張りね」
「どうして僕たちには口がひとつしかないんだろう」
あまりの言いように、小春は一瞬ぽかんとし、それから堪えきれなかった笑い声を上げた。
「僕は真剣に言っているのに」
「何かの妖怪みたいになってしまうわ。……ひとつでいいのよ」
むっとする由希斗の頬を撫でてやれば、すぐ心地よさそうに目を細める。桃色が蕩けるようだ。
「お喋りも、……キスも、ゆっくりやればいいの」
由希斗は、頬を撫でていた小春の手を捕まえて、手のひらの、親指の付け根あたりに唇を落とした。
そういうひとつひとつ、確かに感じていたい。
「両方いっぺんになんて、忙しすぎるもの。ユキとお喋りすることも、キスをするのも、ほかのことも、ちゃんと大事にしたいわ、わたし」
「……うん」
あどけなさを感じさせるくらい、無垢にうなずきながらも、由希斗はそっと指先で唇に触れる。その唇を笑みほころばせて、柔く目を細めた。
「小春とキスをするのがこんなに嬉しいなんて、知らなかった」
「……わたしも」
小春は、自分の顔がどれほど紅くなっているか、もうわからなかったけれど、そこになお幸せな気持ちを積み重ねて、心のままに笑みをこぼした。応えるように、由希斗も美しいかんばせをこれ以上ないくらい緩めて、笑い返してくれる。
「ねえ、放課後にはデートをしようね。僕、小春と放課後デートしてみたいんだ」
「高校デビューに憧れる子どもみたいね」
「したことがないあれこれに憧れるってところでは、同じようなものかも」
由希斗は無邪気な様子で、そのくせにきちんと大きな体で、小春をすっぽり腕に収めて抱きしめた。
「小春とやりたいことが、たくさんあるんだ。ずっと、できたらいいなあ、って願っていたの。でも、僕は神さまだから、誰に願えばいいかわからなかった」
小春は由希斗の胸に頬をすり寄せ、ぴたりとくっついて、身体のすべてで彼の存在を感じていた。
違う心と、違う身体を持つ。だからこそ、隣に寄り添い、触れ合って、体温をわかちあうことができる。
彼が願うことを、叶えてあげることもできる。
「わたしのことなら、わたしに言えばいいのよ」
「うん」
由希斗は満ち足りたように笑って、小春に頬を寄せる。
そうしてもう一度軽いキスをしてから、言った。
「僕のお嫁さん。小春、君がずっと大好きです」
「わたしも、ユキが大好きよ」
「もっと言って」
「急に欲張りさんね……」
由希斗は子どものようにくすくすと笑う。
キスをしたいと言いながら、あまりに可愛いのは、どうやら彼の変えようのない性質らしい。
小春には、それが愛しくてたまらなかった。
神さまの隣は、今日も平和で、たくさんの幸せに満ちている。
神さまの隣の街 祟り神さまの願いごと 崎浦和希 @sakiura
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