生まれる昼 Ⅳ

 意外だと感じるのも無礼なことだが、それでも意外だと感じてしまったことを許していただきたい。

 マイアに続き聖堂に入ると、これまでの奇妙な体験とは真逆で、内観はあまりにも普通という印象を受けた。

 入口から奥まで遮るものは何もない。マイアの髪より明るい真紅のカーペットが真っ直ぐに敷かれ、会衆席に並ぶ木製の長椅子を左右に分断して内陣までの一本道となっている。

 聖堂内の四方には扉がそれぞれ一つずつ。左奥が私の部屋なら、他の扉は告解室を設けたスペースや子供の生活部屋などに繋がっているのだろうと予測できる。

 しかし、それら諸共を覆い包み、この空間を聖堂として成立させるのが最奥の内陣と、その壁面に貼られた色鮮やかなステンドグラス。そして、掲げられた巨大な十字架なのだ。

 内陣とは、我々が会衆席に集まった者たちへ神の言葉を代弁する際に立つ壇上のことを主に言い、入口から見て右手にはそのための説教台が置かれている。今日から私がそこに立つのだ。

 中央には神が眠るとされる祭壇が置かれており、ステンドグラスにもある葡萄や林檎などの果実や白百合の花束などがここに捧げられる。

 十字架の下の窪みには、誰であれ抱えて持てるサイズの箱があり、これは聖櫃という。

 祭壇と聖櫃は聖堂に欠かせない物であり、どの教会にも必ず置かれている。

 あと、これはある聖堂とない聖堂それぞれだが、ここでは左奥の扉の隣にパイプオルガンが設置されている。淡いパールピンクの石造はステンドグラスと比べて目に優しく、私にはその素朴さの方が好ましく思える。

「どうだ神父。感想。ほら」

 聖堂を一望する私は気付くと入口を離れ、レッドカーペットを行進していた。その様を観察していたマイアが私の尻に膝蹴りを入れてきたのだ。遂に手を出してきたな、この見てくれシスター……。

「基本に忠実なデザインですよ。安心できます」

「良く言えばな。つまり目新しい物はなかったんだろ?」

「聖堂に目新しさなど不要でしょう。文明の更新は我々の役目ではないですし」

「ふぅん」

 私の置きに行く感想に、つまらん等と吐き捨てて不機嫌になるかと案じたが、マイアは私を深く探るように目を細めていた。

 その様子が気になって問い質そうとした時、彼女は唐突に内陣の方へ向けて大声を発した。

「おーい、オルカ! 司教さまが来たぞー! 喜べ、前のおっさんと違って都会のイケメンだぞー! 神父と呼んでほしいとか、いきなりこだわり見せてくるめんどくさい男だぞー!」

 やはり気性の激しいシスターなどあり得ないし、何か障害を抱えているのかもしれない。

 聖職者として最適な対応は何かと考えるも、どうやら私の方が見落としていただけで、最前席には確かに声を届けるべき相手が存在していた。

 マイアと同じネイビーの修道服を着た女性の聖職者が。

 巨大な十字架へ祈りを捧げる姿はまるで彫像のように普遍的で、そこにいると気付けなかったほどまで自然的だった。

 初見というのに常日頃からあのように神の従者を全うされているのだと確信できる。彼女はシスターとして既に完成しているのだ。

「あいつの凄みが分かるか?」

「ええ。プロ中のプロですね」

「惚れた? 惚れたか?」

「馬鹿を仰る」

 こっちのシスターも彼女の敬虔さには一目置いているようで、私も思わずファン目線でその姿を追ってしまう。

 これと違ってちゃんとウィンプルを被っており、そこから溢れる銀色の長髪が彼女の清廉さをより物語る。私ともあろう者が、その麗しさに思わず異性を意識してしまった。

 彼女はゆっくり腰を上げると、優雅な歩みでこちらへ来てくれた。所作の一つ一つがどれも上品で、彼女を育てた環境が如何に上質だったのかと感激する。

「神父様とお呼びすればよろしいでしょうか? 私はオルカ。この通りシスターであり、大いなる我らが主と、神官たる貴方様の威光にひれ伏す下僕にございます」

 まるでピアノの音色がそのまま声帯になっているかのよう。シスター・オルカの声音は私の耳に優しく浸り、癒される。その喉からこのように弁えた言葉を並べられるものだから、同じ聖職者として見習わねばと、片隅に芽生える異端性を恥じた。

「初めまして。オルカさん。自然なまでの祈祷、感服しました」

 私を見つめるオルカさんの眼差しはとても温かい。きっとこれまでも多くの心を救い、導いてきたに違いない。目を見れば分かるとはこのことか。

「しかし、よろしければ私に対しても対等な振る舞いを。楽な姿勢で以後お付き合いいただければ幸いです。ハハハ」

「まあ、そのように謙遜されるのですね。貴方様はきっと、誰もが敬愛して止まない素晴らしい神官様なのでしょう」

 他者の過去を勝手に印象付ける行為は、たとえポジティブな推測だとしても互いの相性やタイミング次第で後の不和に繋がる恐れがあるもの。

 しかし、彼女の放つ言葉は不思議とどれも世辞ではなく、心からのものだと思えてならない。故に真っ直ぐ褒められるのがむず痒く、顔が熱くなってくる。マイアといい、このオルカさんも中々に特殊なシスターではなかろうか。

「けど、司教様はどうしても司教様と思ってしまいそうなので、慣れるまでに時間が掛かってしまうかもしれませんね。間違えてしまったらごめんなさい、司教さ……いえ、神父様!」

 神父呼びを強要しているわけでもなく、急ぐ必要もないのだが、早速言い間違えてアワワと慌てる様子が微笑ましい。私やマイアより年齢も低いようだし、年相応のわんぱくな一面が見られて安心できるが……。

「あのう、それで……」

「あ……」

 オルカさんも当然、その当たり前に行き着く。初対面のコミュニケーションではまずそれを交わすものなのだから仕方ない。

「えっと……」

「神父様?」

 オルカさんが待っている。私の口から直接それを伝えられる瞬間を。

 だが、私では貴女の期待に応えることができない。

 何せ今の私は、一般常識と聖職者に必要な知識以外、何も思い出せない欠陥状態の只中にあるのだから。

「私は……ですね……」

 気まずくなって目線を逸らしても、私を見る彼女が不安気になっていると分かってしまう。真のシスターたる貴女に苦しい想いなどしてほしくないのだが、それを解決する術も資格も私にはない。

 私はとても申し訳なくて、自分が惨めで、本当にどうしようもなくて……。

「私は――」「もしや――」「そいつ、名前を思い出せないらしいぞ」

 私はここへ来る途中で悪魔に遭遇しまして、そいつに名前を奪われてしまったのですよ。

 と、冗談を言ってオルカさんを喜ばせるつもりだった。

 オルカさんも同じタイミングで何かを言ったようだが、私たちの言葉はこの場で最も声の大きい不良により鎮圧されてしまった。

「マイア……」

「隠してもすぐにバレる」

「……そうですね」

 自分の欠陥は自分から報告しておきたかったが、せっかくだしここはマイアの助け舟に乗っかろう。

 長椅子にどっしりと腰を掛けて「まどろっこしいなぁ」とか愚痴を零しているが、思えば会って間もないこのシスターに私はもう何度も助けられている。

 オルカさんのように健全な聖職者だとは欠片も思わないが、マイアの場合は精神性だけなら確かに聖職者たり得ているのかもしれない。初めて彼女の内側にある善性に気付いた。

「こいつ、私が外で名前を聞いても答えられなかったんだよ。色々よく分かんねぇことになってるみてぇだから、とりあえず疲れてるならベッドインするかって話になったんだ」

「こいつ、いえ、シスター・マイアの言う通りなのです。私はどうにも、ここに来るまでに様々な摩訶不思議を体験しまして、どうしたものかと……」

「大変な思いをされたのですね……。お名前を忘れてしまうとは、私などでは到底お役に立てないことのようですし……」

「だからそのような表情をされないでください。職業柄、他者のネガティブに共感してしまうのは避け難いですが、きっとすぐに思い出せるはずですし」

「では、しばらくの間はただ神父様とお呼びすればよろしいでしょうか? それも何だか寂しい感じがしますね……」

「それは……」

 オルカさんの暗い顔はどうにも駄目だ。まさか一目惚れしたわけでもないだろうが、彼女には常に優しさに溢れた世界で微笑んでいてほしいと願う自分が既にいる。

 よって、私は自身よりオルカさんに安心してもらうため、その場凌ぎの提案をすることにした。

「名前を思い出すまでの間、何か別の仮名を使うことにしましょう。正直な話、すぐに思い出せる確証もありませんのでね。それに、無名のままではメヘルブの皆も困るでしょうから」

「それは善いお考えですね! どのようなお名前にしましょうか?」

 オルカさんの表情が晴れて良かった。

 彼女一人の微笑みを取り戻すために大衆を利用する。神官としてはあまりに自己中心的で悪辣な判断だ。とても告解室でこのような助言はできない。

「名前なら良いのがあるぞ。カイルだ」

「カイル……」

 マイアが何の前触れもなく発した、私を個別化する言葉。

 それを私が自ら口にした途端、目が冴え、私は正に今こそ生まれてきたのではないかというような感電を覚えた。

 単なる銘ではない。私がここに在る証。この体、そしてこの心までもが世界に新しく認定されたような、一生に一度の貴重な体験だった。

 ただし、これは私だけの感動であるため二人のシスターと共有することは叶わない。二人からすれば、この男は天窓から射す陽の光を見据えて何を呆けているのかという状況で、物心がついた状態で人生が始まる、という極上の喜びを誰とも分かち合えないなんて勿体ないと思いつつ、この感覚は内に留めておくことにした。

「あの……神父様?」

「どうしたー? もう死ぬのか?」

 マイアは相変わらず偉そうに座しているが、オルカさんは私の瞳を覗き込むように至近距離まで迫っていた。初めて見た時から麗しいと魅了された美貌が眼前にあり、失礼ながら驚いて後退してしまった。

「死んでません。それは何か由来が?」

「いや、特に。思い付きだよ。フフフ」

 何が愉快なのか、マイアはニヤニヤしながら『カイル』となった私にご満悦の様子。聖堂にいながら大きな溜め息を吐いてしまった。

「分かりましたよ。では、本名を思い出すまではカイルと。オルカさんもそう呼んでください」

「はい。貴方様がそれで善いのなら、それに従いましょう。それでは」

 オルカさんがマイアに目線を送ると、マイアはその意図を把握してウムと頷いた。二人は長くメヘルブの教会を共に守り、お互いのペースをよく分かり合えている間柄なのだろう。性格は正反対だが関係は良好のようだ。

「それでは、私がカイル様をお部屋にお連れしますね。他の場所は一度休息を取られた後で紹介させていただければと思います。

 あっ、そちらから見て左手前が告解室を置いた部屋で、左奥の扉がカイル様のお部屋へ繋がっているのですけど……」

 オルカさんが突然言い淀んだ。

 先程の心配気など容易に越えて、見る間に顔が青ざめていく。だから、そんな顔などしないでほしいというのに……。

「オルカさん? あの、夕刻の鐘にはまだ時間があるはずですし、告解室を利用される方もこれからいらっしゃるのですよね? それなら休む前にそちらを一見しておきたいのですが」

「いいえ、カイル様。実は……」

 オルカさんが何をそれほど躊躇っているのかが読めない。分かるのは告解室に懸念があるというだけで、彼女の心を的確に癒すには、あまりにも彼女との経験が不足している。

「オルカ、告解室の話は後にしろ。そして神父、ワケあって今は告解室を閉鎖している。死んだ前司教の絡む問題だ。オルカの前ではやめろ」

 前司教の事件が告解室に関係している?

 つまり、私がここに至る要因となった事件は、告解室で発生・発見されたことなのだろうか?

 マイアの発言が引っ掛かる。すぐ追及したいところだが、オルカさんが己の失態を恥じるように俯いているのが目に留まり、それは後回しにすべきだと即決した。

「オルカさん、大丈夫ですから。私の部屋の案内をお願いできますか?」

「はい……」

 オルカさんはまだ落ち込んでいる。ミスを引きずってしまう性分なのだろうか?

 聖職者の中には祈りの作法からプライベートに至るまで、完全で完璧な立ち振る舞いをしなければ気が済まず、一つでもミスを犯しては主に合わせる顔がないとストイックに考える者もいる。それは神と人の中間に位置する立場としては理想の在り方と言えよう。

 しかし、そのような完璧主義者ほど実は繊細で、小さな綻びにより取り乱してしまい、やがては人知れず自信を喪失してしまう脆さがある。

 オルカさんは私やマイアよりも若い。聖職者といえど過ちはあり、主もそれを許すために日頃の敬虔な姿勢があるのだと、いつか適切な場面で彼女の心を軽くするアドバイスをしたいものだが……。

「では、参りましょう……」

 今はその時ではない。

 オルカさんはこれまでの後光が射すような微笑みと違い、無理に作り笑いを浮かべて私を左奥の扉へ誘った。

 一方でマイアは……。

「私はここに残る。日中は最低一人ここにいなくちゃいけない決まりでな。お祈りしつつ、客が来たら対応しといてやるよ」

 オルカさんはマイアに会釈してから扉を開いた。アレの態度に不満があるようには見えないが、それでいいのだろうか……。

 私の方は一応アレより立場が上なので、物は試しで釘を刺してみることにした。

「留守をお願いします、シスター・マイア。しっかりと、身も、心も、主へ捧げるようにお祈りなさい」

「ほいほーい」

 ……雑に躱されてしまった。

 主より罰が下ればいいものだが、今まで下ってこなかったからアレはあんなことになってしまったのだろう。やはり神の器量とは底知れぬものだ。

「やれ、主がこの世に干渉された暁には、まず最初に彼女を不幸にされたまえ」

 私がそのような物騒を呟くと、唯一それが耳に届いたオルカさんが笑いを堪えていた。

 私もそれでようやく心の安寧を取り戻した。

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