第10話

 随分昔のことだ。

 まだ元気だったあの子は、急に動けなくなってしまった。

 ぼんやりと突っ立っている私の裾を引いて、だからこう言っていた。

 「お父さん、平気?」

 「…ああ。」

 私は呑気に、そんな言葉を伝えている、馬鹿じゃないのか、病気の息子に向かって、そんなアホらしいこと、私がしっかりしなくてはいけないのに、妻は重い病にかかったのは自分であるかのように、伏せっていて、そして私は逃げだした。

 愛する人と家庭を築く、それが昔からの夢だった。

 男にしてはメルヘンチックで夢見がちっていうか、ちょっとこっ恥ずかしい面もあったけれど、妻は黙って受け入れてくれた。

 なのに、なぜ現実はこうやって、気付けば悪い方へと向かってしまって、ああ、もう取り返しなんかつかない、けれど。

 「なあ、お父さん。ちょっと仕事で遠くに行くから、おばちゃんの言う事、よく聞けよ。」

 「…うん、分かった。」

 息子は笑いながら言った。それは、父親がいなくなることに関して、関わらないようにしようという気持ちの表れなのか、なんなのか、俺は考えないようにした。

 考えたって、迫りくるように時間は過ぎていくのだ。

 私は、金を稼ぐしかない。

 稼いで、息子を救ってやる。


 「分かりました。そういうご事情なんですね、いらっしゃいます、犯罪を犯したことがあるって人、こういう稼業ですからね。」

 私は物分かりのいい人間を演じ、彼女を黙らせた。

 本当は、鳥肌が立つほど嫌だった、悪人でもいいでしょ?と言わんばかりにふんぞり返っている人間を、数多く見てきた。

 心が、壊れそうだと思っていた。

 しかし私には、息子がいる、妻もいる。

 私が何とかしなくては、みんな、共倒れだ。

 苦しい、と思いながら立ち上がり、すぐにその場を後にした。


 呆然としながら、私は目を見開いた。

 その写真には、写っていたのだ。犯行の瞬間が、彼女は確かに人を殺していた。女性だから、その人の妻、なのだろうか。

 無茶苦茶だ、私は吐き気をこらえながら、一目散に洗面所へと向かった。

 なんでこんなこと、呪っても時間は進まない。

 私は懸命に感覚を取り戻し、その屋敷を出た。

 外の風は、冷たかった。

 秋の風は、もの悲しい。

 私はこういう感情の中になどいたくなかったのに、どうして。


 「でもさ、そんなの、分からないでしょ。」

 「言い切るなよ、私はもう疲れた。」

 「あたしだって疲れてる。みんな疲れてる、ていうのは違うかな、だからさ。逃げようよ、あなたの子供は、もっと、別の方法で救えばいい。」

 彼女の瞳は、揺らめいていた。

 その色があまりにもきれいで、私はすうっと、吞み込まれていた。


 

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お子ちゃまの恋 @rabbit090

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