嘘と狼3
「は? キモ。離せよ!」
思ってもいない言葉に驚いて、私はイスの手を振り払った。
こいつは私なんかに大金を払うような変わり者だ。機嫌を損ねないように様子見をしようとしていたのに、何故か分からないけれど思ったことが口から勝手に出てきた。
緊張が解けて気が緩んでいるからか? イスに殴られる覚悟をして歯を食いしばっていたけれど、こいつは私を殴ろうとするどころか、持ち上げた手の甲で私の頬をそっと撫でた。
「安心しろ。君と
フッと息を漏らすように笑うと、イスの黒い毛皮が小さく揺れる。
夜の色よりも更に暗い毛皮に覆われた手を差し出され、私はもう一度彼の手を取る。
キモいとは思ったが、クソ親父やさっきの人買いみたいに節操なくまぐわろうとしたり、気に入らないことをしたらすぐに殴ってくるようなやつではなさそうだ。
「つがいってなんだよ?」
「子作りをする間柄のことだ。君とはまだそうなろうだなんて思っていない。安心しろ」
イスは、私が手を握り返すのを見て目を細めると、牙の並んでいる口を開いて言葉を続ける。
「俺が人を食うと噂を広めるバカな魔女共がうるさいんだ。形式的にでも人間の妻を迎えれば、うるさいやつらも黙るだろうと思ってな」
こいつに食われたり殺されたりするかもしれないと思っていたが、声色がさっきまでと違って柔らかくて、少しだけいいやつなのかもしれないと思いそうになる。
少なくとも、私の前では私の体や状態を考えているような振る舞いをしてくれるのは、今まで出会ったほとんどのやつらよりもいいやつだと思える気がした。
「なんで私なんだよ」
「……初恋の人に似ているから……とでも言ったら絆されてくれるか?」
「ちっ! 気障なセリフを言えば小娘を楽に手懐けられると思ってるんだろ」
もう手を振り払おうとは思わない。さっきまで人買い共を脅していた恐ろしいやつだと思ったけど、冗談なんて言うんだなと思いながら、手を引かれるまま森を進んでいく。
「嘘をついたつもりはないんだがな。まあ、人間を買いに行くのが省けただけだということにしておこう」
クククと喉を鳴らすように笑うイスの声が夜の森によく響く。
暗い森の中でも少しだけ目が慣れてきたところで、開けた場所に辿り着いた。イスが、私の手首を握っていない方の手をふわりと動かすと何もなかった場所に急に石を積み上げて作られた塀が現れた。
暗い色をした石塀には苔が生えていて、真新しいものでないことがわかる。塀に沿って歩いて行った先には珍しい黒い金属があしらわれた門があった。
「ここは?」
「俺たちの家だ」
馬車が通れそうなくらい大きな門は、イスが手を伸ばすと触れる前に鈍い音を立てながらゆっくりと開いた。
驚いて立ち止まりそうだったけれど、イスが軽く手を引っ張るので仕方なく歩いて行く。
玄関まで続く間にある庭はよく見えないけれど、花の甘い香りがして広々としていることだけはわかる。
門から続く敷石の小道を進んでいくと、暗がりでも豪華だとわかる立派な屋敷が見えてきた。
近付いていくと、柱や梁などの骨組が外に露出していて、その間に煉瓦が敷き詰められていた。昔、遠くから見たことがある
「俺が君に求めることは、来客を招いた時だけ隣にいてくれることだ。それ以外の時間は
そう言いながら、イスは扉を開く。
屋敷の中は小さなランタンが壁に飾られていて、火ではなく魔石を使っている証の白い光で明るさが保たれていた。
自由にしてくれて構わないという言葉にどう返せばいいのかわからないまま、イスに手を引かれて、広間の奥にある階段を上っていく。
藁葺き屋根と土壁の粗末な自分の家とはなにもかもがちがう。
ヒビ一つ入っていない壁、よく磨かれている柱、棚に控えめに並べられた調度品たちを通り過ぎ、黒塗りの両開きの扉の前へ辿り着いた。
私の手を離したイスは、両手を扉に当ててゆっくりと押し開いた。
「お入り」
部屋に入ったイスに手招きされて、その空間に足を踏み入れる。
部屋の中は紙を束ねたものが詰められている棚で囲まれていて、部屋の中央には鞣された革が敷かれた長椅子が置いてある。近くまでいったはいいが、どこに腰掛けていいのかわからずに立ち止まった私の指先を、イスが優しく握って軽く引く。
目線を落とした先……イスの隣に私は仕方なく腰を下ろした。
「妻としての責務や、館の女主人として立ち回ることは求めない。来客がない間は好きに過ごすといい」
「好きにって言われても、私が好きなことなんてわからねえよ」
言うつもりがなかった言葉が、勝手に口から零れてくる。
好きなことなんてわからない。
ずっと家の仕事をさせられて、殴られていた間に好きなものなんて出来るか?
俯いた私の手を、イスが両手で握ってくる。少し硬い毛と肉球の感触にはまだ慣れないが、悪い気はしない。
「本も自由に読んで良いし、家庭教師が必要なら都合を付ける。必要なら剣や弓の修練を出来るようにも整えよう」
選択肢を提示されても、私はうまくうなずけない。ただ、剣や弓の修練はしたいと思った。人買い共に対して何も出来ない自分が情けなかったから。
顔を上げると、イスの枯草色をした瞳と目が合った。
「君が望むなら、魔法を教えることも出来る」
「は?」
色々なことを聞いて、家の中を見てこいつの世話になるのも悪くない。そう思いかけていた。でも、やっぱり違った。
「私は
魔法を教えることも出来るという言葉を聞いた瞬間にカッと頭が熱くなる。握ってくれていた手を振りほどいて、私は長椅子から立ち上がった。
「クソ! 馬鹿にするな!」
「馬鹿にしたつもりはない」
静かな声だった。持ち上げられた手を見て思わず頭を庇うように両手で覆った。でも、私の体に訪れたのは殴られた衝撃でも平手打ちされた場所が痛む熱でもなく、少し硬い毛皮が頬を滑る感覚だった。
両手を下ろしてイスの顔を見ると、さっきまでピンと立ち上がっていた耳はどことなく元気がないように先端が垂れ下がっているし、鋭く切れ長だった目尻は少し垂れ下がっている。
「でも
私はもう一度、自分が魔法を使えないのだと伝えた。
私は魔法を使えない。教わって使えるのなら、私はきっと妹みたいに大切にされていたはずだから。私はもう「良い魔法使いになるよ」なんて言葉を信じてよろこべるほど無知でも無垢でもない。
「すまない。俺の言葉が足りなかった」
手の甲でもう一度頬を撫でられる。それは予想もしてなかった言葉と態度だった。
それから優しく指先をもう片方の手で包まれて、ゆっくりと引かれた。
座れという意味だとわかって、仕方なく私はもう一度イスの隣へと腰を下ろす。
「
ランタンから零れる白い魔石の光を反射させたイスの黒い鉤爪が、私の胸元を指す。
「君のその紋様は、
「は?」
人買い共がちらっと言っていた。
「魔力が多すぎて適切に体を巡らない人間には、こうした模様が浮かび上がることがよくある」
「でもさ、魔力がたくさんあったって、魔法が使えないなら教わっても意味がないだろ?」
赤黒い痣のような色をした模様を自分の指でなぞりながら、私はイスに文句を言った。
でも、イスは私を馬鹿にしたりせずにゆっくり言葉を続けてくれる。
「話は最後まで聞きなさい。詰まっている魔力の流れを整えてやれば、君は誰よりも優秀な魔法使いになれる」
「な……? 嘘じゃないだろうな! 本当に?」
「ああ、俺を魔法使いにしてくれた恩人が言っていた。その人の胸にも君のような紋様があったから間違いない」
「本当に本当だな?」
私を見て目を細めながら、イスは首を縦に振った。
私が魔法使いになれる? 本当に? 嘘みたいだ。
でも、イスはきっとそんなつまらない嘘で私を騙さない。そういう気がしていた。なんの根拠もないけれど。でも、私が魔法使いになるのなら、アレだけ大金を払ったってことにもなんとなく納得が行く気がする。だから、信じることにした。
「それなら、私はあんたの妻になるよ! あんたの言ったことが嘘ならどんな手を使ってでもここから逃げ出してやるけどな!」
思わず口が滑った。逃げ出してやるなんて宣言をするもんじゃない。
今度こそ流石に殴られるだろ。
そう思った瞬間、咄嗟に頭を両腕で覆いながら背中を丸めた。けれど、やっぱり私に訪れたのは頬を撫でるごわごわした毛皮の感覚だけだった。
顔を上げて、枯草色の目を細めているイスを見る。青みを帯びた黒い毛皮は、艶があって、額の間から後ろに伸びるたてがみは、耳の後ろから人間の髪みたいに緩く伸ばされている。
イスは、私の右手を持ち上げて、手の甲に鼻を近付けてきた。
シュッとしていて細い
「実はな、君に嘘を吐けなくする魔法を掛けていたんだ」
すぐに私から顔を離したイスは、私を見ながらそういった。
「は? いつの間に……。今日はやけに口を滑らせることが多かったなと思ってたんだよ」
「君の体を軽く綺麗にしたときにな。今解いたよ」
思わず悪態を吐いた私に謝りながら、イスは手の甲で私の頬に触れてくる。
何度もされているが、これは嫌じゃない。
それに、こいつは私なんかに何度も謝ってくれる。私は買われたんだから、こいつが主人で、だから謝る必要なんてないのに。
「悪かったな。君が真実を言ってくれないと、夫婦の誓いを結べないんだ」
こいつの言うことを信じたくなるのも、何か魔法が掛かっているからなのかもしれないって思ったけど、どうやら違うらしい。嘘を吐いていなければ……だけど。
嘘を吐いていたとしても、ここで魔法を学べるのならそれでもいい。さっき自分で言ったとおり、気に入らなければここから逃げ出せばいい話だ。
「もう夜も更けてきた。さっさと契約を済ませてしまおう」
イスが机の上に羊皮紙を広げて、爪の先で器用に何かを刻んでいるのが見える。それが文字なのかなんなのかは、私には判別が出来ないけれど。
手の動きを止めたイスが軽く机の上を指で叩くと、小さなつむじ風が巻き起こり羊皮紙を霜が覆っていく。
「すごい……本当に魔法だ……」
薄氷が割れるような控えめな音が響き、青白く光る羊皮紙を見つめていたイスが首を傾げながら私の方を見た。
「ここに君の名が記されるはずなんだが……」
イスが私の胸元に手をかざす。それから額、頭、お腹……と触れないようにしながら手を移動させていく。それから「ううむ」と唸って顎を一撫でした後に、ぷかりと空中に浮いたままになっている羊皮紙を私に見せてきた。
光る模様が浮かんでいるそれは、一部がぽっかりと空白になっている。
「ああ、私は親共からアレとか赤いのとしか呼ばれたことしかないからな。名を与えられていないなら、記されないんじゃないか?」
一瞬だけ、イスの目が見開かれて、ぷかりと瞳に浮かんでいる黒い瞳孔がキュッと縮まった。
すぐに元の丸さに戻ったイスの瞳が私をじっと見つめて、それからゆっくりと細められる。
「ああ、それなら、俺が君にふさわしい名を与えよう」
「名前がないと不便なら、それでいい」
まだイスのことはよく知らないが、こうして見ているとこいつは思っているよりも表情がわかりやすいらしい。
私が首を縦に振ると、目尻を下げたイスは浮いている羊皮紙を掴んで机の上へ置き直した。
「魔法使いにとっての名は、重要なものだからな」
そういいながら、腕組みをしたイスは長椅子に座り直して私の顔をじっと見つめ始める。
どうしていいのかわからずに、視線から目を外してしまった。今まで気にしたことなんてなかったけど顔にゴミがついてないかとか、変な部分がないか気になって落ち着かない。
「ユルベル」
パッと顔を上げた瞬間に、イスはそういった。
「ユルベル。死と再生、転機を示す言葉と、炎のように赤い君の髪色からとった名だ」
男達を脅したやつと同一人物とは思えないくらい優しい声だった。
名前をつけてくれるとこいつが言ったとき、どうでもいいと思っていた。
だけど、悪くない。
アレだとか赤いのって呼ばれるより、こいつの声で「ユルベル」と呼ばれた方が心地が良い。
「それでいいよ」
照れくさくて、ありがとうと言えなかった。ぶっきらぼうにそう答えるのと同時に胸の辺りがカッと熱を持つ。あっと言う間にぼうっという何かが燃えるような音がして、胸の部分から発された赤い光が羊皮紙の空白部分へ吸い込まれるように飛んでいく。
「ユルベル、君はこれで俺の妻となった」
イスが見せてきた羊皮紙には、さっき空白だった部分に赤い模様が刻まれていた。多分、それが私の名前なんだと思う。
「なあ、あんたが本当のことを言ってないことくらいはわかってる。裏があるんだろ?」
もう魔法はかかていない。けれど、こういうことは最初から聞いておいた方がいいだろう。そう思って私はイスの鼻先を両手で掴んで自分の方へ引き寄せながら思っていることを口にした。
「それでもさ、魔法が使えるようになるならダマされてやるし、逃げようともしない。だから、せいぜいうまくダマしていてくれよ」
私のそんな反応を想定していなかったのか、イスは困ったように目尻を下げてから、ぐいっと鼻先を此方側へ押しつけてきた。
「承知した」
濡れた鼻が私の鼻に軽く触れたまま、イスと見つめ合う。
「よろしくな」
顔を離して、そのままイスにもたれかかる。少し硬い黒い毛皮は、獣臭いどころか花や森の木々みたいな良い香りがして温かくて心地よい。それに、黒くて艶のある少し硬い毛皮が私の頬を撫でているものだから、どっと疲れが押し寄せてきて、だんだんと意識が薄れていく。
なぜか、昔私を助けるなんて言って消えた男のことが思い浮かんだけれど、顔も覚えていないやつのことなんて今は思い出さなくて良いと、夢と現実の境目の中で思う。
「ようやく約束を果たせるな」
イスの誰に向けてか分からない言葉を耳にしながら、私はまどろみに身を任せた。
面倒を退けるためのお飾りの妻として、しばらくはここにいるのも悪くないと思いながら。
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