10 Offensichtlich

「病院……救急車……」


 尻ポケットからスマホを取り出し、救急車を呼ぼうとしたその時。俺は、左腕に強く押される感覚を覚えた。痛みさえ伴う激しい圧力だった。


 見ると、類が俺の腕を握っている。

 固く目を閉じ、血を吐き、瀕死の状態であるにもかかわらず、驚くべき力で俺の腕を握っている。

 必死に唇を動かし、俺に何かを伝えようとする。


「なんだ、言ってみろ」


 類の口元へ耳を近づける俺。


「……びょういん、には……いか、ない」


「はぁ!? 行かないってお前――」



 ごぶっ。



 類が、また血を吹き出した。

 大量の血が胸元に吐き出され、白衣をぐちゅぐちゅと染めていく。

 もはや俺の支えなしでは、座っていることもままならなかった。


 それでもなお、類は言葉を紡ぐ。


「ちりょう……くるしい、から」


 左腕への圧力が、ここに来てさらに強まる。

 容態に反比例する力の強さ。

 失われていく体力を補っているのは、類の意志の強さにほかならなかった。


 どうしても医者にかかりたくない類。

 なぜなら、医者にかかれば、苦痛を伴う治療を強いられるから。


 彼の望みは分かった。

 理由もはっきりと分かった。

 沙羅の時とは、まったく違う。


 沙羅が非業の死を遂げて以来、俺はあいつの望みをなんでも叶えなくてはいけないと思ってきた。

 しかし、あいつに何を望んでいるのか尋ねても、言葉が返ってくることはない。だから推し量るしかなかった。

 その時点で、やはり復讐というのは、俺のエゴでしかなかったのだろう。


 ならば今度こそ、俺はエゴを排除しなければならない。

 きちんと他者の望みを尊重しなくてはならない。


「ああくそっ、言う通りにすりゃあいいんだろ?」


 俺は類の身体に手を添えつつ、タオルを手繰り寄せた。

 血で汚れた類の口元を拭いはじめる。


「今回のところは、病院に連れて行かないでおく。その代わり、絶対に死ぬな」


 俺は黒い眼を爛々と光らせて、類を睨みつけた。それは、恐怖の裏返しだった。


 もう、隣にいる誰かを失いたくない。


 苦しげな類の姿を見ていると、このまま死んでしまうんじゃないかと考えてしまう。

 背筋が凍る。喉が張り付く。

 そんな最悪の可能性が、頭にこびりついて振り払えない。


 でも、他者の意志を尊重しなくてはいけない。


 顔を引きつらせながらも、口の端で笑う類。

 交換条件は受け入れたと、自分は決して死にはしないと、そう俺を安心させようとしているのか。

 まるで俺の心を見透かしたような態度だった。


「こんな時にまでムカつく野郎だな、お前は」


 俺は類の身体に両手を添えると、ゆっくりと抱え上げた。

 座っているのもままならない以上、ベッドで横になっている方が楽だろう。

 俺にできるのは、類を安静にさせておくことしかない。


 彼を部屋へと運んでいく最中、改めてその身体に触れ、気付いた。


 眼下には、かすかに震える青白い首筋。

 手のひらには、浮き出たあばら骨の感触。

 こんなに痩せ細ってしまったのは、決して昨日今日の話ではないだろう。

 普段見えていなかっただけで、見ようとしてこなかっただけで、類の身体はずっと異常を訴えていた。



 こいつ、病気だったんだ。



 思い返してみれば、類は時折、食事の時にサプリを飲んでいた。

 気圧のせいかな、などと言って笑い、一日中ベッドから起き出してこないこともあった。


 それは出会った当初からのこと。

 類はずっと、俺の知らないところで病と闘っていたんだ。


 それでも今日、回復の兆しを見せるどころか、血を吐いて生死の狭間をさまよっている。

 彼の病状は、決して芳しくない。


 俺は身体でドアを押し開けた。

 物置き兼類の私室に入る。

 逃がし屋の顧客帳簿と大きなコンピューターが並べられた窮屈な部屋だ。

 それらに埋もれるように、整えられた白いベッドが置いてあった。


 滑らかなシーツの上に、慎重に類を横たえる。

 毛布を掛けてやる前に、深紅に染まった服を脱がす。

 新しい服を適当に見繕って取り替える。

 新しいタオルで口元や手を拭き上げる。


 身体があらかた綺麗になったところで、俺は毛布をかぶせてやった。

 類はようやく人心地ついたようで、穏やかな寝息を立てていた。

 とりあえず吐血は収まった。

 顔色も、先ほどのことを思えば随分良くなっている。

 俺はほっと胸をなでおろした。



 赤黒くなってしまった服を拾い上げ、一度部屋を出る俺。

 これから汚れ物を洗濯して、カウンター席も掃除しなくては。


 ただ、またいつ類の容体が急変するとも分からない。

 しばらくは体調の変化に注意しておかないと。

 いっそ今晩のところは、類に付き添いながら夜を明かすとするか。



 俺はやるべきことを終わらせてから、簡単に寝る準備も整えた。

 類の部屋に戻る。

 枕元に座り直す。

 ベッドの脚に背を預ける。

 双眸を閉じ、さらに意識を集中させる。

 そうすると、規則正しい寝息と心音がよく聞こえた。


 これが聞こえているうちは大丈夫。

 俺も安心して、仮眠を取っていられる。


 そう思ったら、昼間から続いていた緊張が、一気に解けた気がした。

 俺はふっと笑みをこぼすと、そのまま眠りに落ちていった。

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