第6話

 茉莉花を見た瞬間に、欲しい、と思った。

 茉莉花。まつりか。ジャスミン。

 美しい見た目と、甘い香りを漂わせる白い花と同じその名前も気に入った。

 周囲の人間が茉莉花に引き寄せられていくのとは反対に、私は茉莉花から距離を取った。


――花を美しく咲かせるには、種まき、肥料、水やり、剪定、そのすべてを正しいタイミングで行うこと。これが一番大切なの。


 魔法のように美しい花を咲かせる母が、私に教えてくれたこと。

 茉莉花は花だ。手に入れるなら、一番美しく咲かせてあげなくちゃ。

 私は「正しいタイミング」を見極めるべく、茉莉花の周囲を観察し続けた。

 男子が茉莉花の気を引こうとしてギスギスしていること。女子がトイレで茉莉花の陰口を言っていること。ブタ岡が茉莉花を舐めるような目で見ていること。

 そして、みんなの中心で女王ぜんとして微笑んでいる茉莉花が、無残に摘み取られてなるものかと、いつも神経を尖らせていることに気が付いた。

 ついに訪れた「正しいタイミング」は、茉莉花とブタ岡が付き合っている噂が流れたあのときだった。

 その噂はあまりにも荒唐無稽すぎて誰も信じていなかった。だからその日の放課後にはもう治まりつつあった――が、私はトイレの手洗い場で友達にぽろりと零した。


「なんか聞いちゃったんだけど、白木さんが転校してきたのって男関係のせいらしいよ」


 隣でメイク直しをしていた結子と莉奈が顔を見合わせて、にたりと笑ったのが視界の端に映った。

 私が撒いた一粒のタネは、茉莉花への妬みと悪意を抱えた人たちの心にあっという間に根を張り、ぐんぐん成長して、色とりどりの醜い花をたくさん咲かせた。

 すごく簡単だった。本物の花を咲かせるより、ずっとずっと簡単だった。

 美しい茉莉花は一人になった。強がっていても内心は震えているのが手に取るように分かった。植物はタフでも、花は存外もろいのだ。

 私に近付いてきた茉莉花が「花を食べたい」と言ったことには、かすかな運命を感じた。

 私も、かつて花を食べたことがあったから。

 あれは十歳になったころだった。体調を崩した母に代わって水やりをするため、早朝に庭に出た私は、パーゴラに春咲きの黄色いバラがひとつ咲いているのを見た。

 美しかった。

 朝露に濡れてキラキラ光るそれは、まるで砂糖菓子みたいだった。

 私のものにしたくてたまらなくなり、導かれるように手を伸ばした。花びらのしっとりと濡れたような感触に身体が震えた。

 我慢できずに花びらをむしり、口に含んだ。舌の上を滑らせて、こくりと飲み込むと喉が上下した。花びらが落ちていくその感覚が消えたとき、私の中で花が咲いたような気がした。

 そこからもう一枚、もう一枚と口に入れた。目の前のバラは小さくなり、私の中で花が大きくなる。美しい花が、完全に自分のものになっていく喜びと快感が膨れ上がっていく。

 視線を感じて顔を上げると、窓越しに母と目が合った。

 私は目を合わせたまま、唇にくわえていた花びらをゆっくりと飲み込んだ。


――杏子。花を愛して咲かせ続けなさい。そうすればずっと美しくいられるから。醜いものになんか絶対に負けないから。


 私の強欲さを知ってしまった母は、死に際に私の手を握って何度もそう繰り返した。

 必死の訴えにうなずきながらも、内心では反発していた。

 あなただって花の美しさに魅せられた人じゃないか、と。


****


 茉莉花は、自分の右胸に咲いた花を、愛おしそうに指先でなぞっている。


「きれいね」


 茉莉花が私の胸元の花に唇を落とした。思わず、ふっ、と短く息が漏れる。


――私が食べたいのは、自分が食べられるなんて想像もしてないやつ。そいつを頭からむしゃむしゃ食べてやりたいの。


 ハシバミ色の目で見上げられた瞬間、甘い香りが急激に身体に流れ込んできた。

 くらくらする。

 花に惑わされたのは。花を手に入れたのは。本当に、花を喰らうのは。

 ……そんなの、もうどうでもいいか。


【了】

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花喰らい ロジィ @rozy-novel

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