それぞれの夜(続)
「マーサ。ちょっと手を見せてくれないか?」
その日、帰宅するなり、エラリーは赤ん坊の頃から世話をしてくれているマーサに頼んだ。
「はい?坊ちゃま、どうしたんですか?いきなり」
「いいから、手を見せてくれ」
そう言ってエラリーは少し強引にマーサの手を取った。
「…これは、こんなかにガサガサしているのはいつものことなのか?」
「嫌ですよ、坊ちゃまったら。女性に向かって、手がガサガサなんて言ったら嫌われますよ。働き者の手が荒れているのは当然じゃないですか」
フンっと鼻を鳴らして、エラリーの物言いを咎める。遠慮のない態度が許されるのは母代わりにエラリーの世話を焼いてきたマーサだからこそだ。
「き、嫌われる…⁈そうなのか、じゃあ俺は嫌われてしまったのか…⁈」
「まあまあ、どこかのお嬢様に、このばばに言ったのと同じ失礼なことを言ってしまったんですか?」
頭を抱えるエラリーに、マーサが呆れ気味に問いただす。
「『女性にしては手が荒れすぎじゃないか』と言ってしまった…」
「あらあら、それは嫌われましたねえ」
「いや、だってだな、顔とか髪の毛とかは艶々だったんだぞ!唇とかもプルプルで…って、いや、俺は何を言っているんだ!」
「と、とにかく、全体的な見た目に比べて手だけが荒れてたから、不思議に思って聞いただけなんだっ」
「はいはい。思ったことをすぐ口にするのは、坊ちゃまの昔からの悪い癖ですよ。たとえ言う方に悪気がなくても、言われた相手が嫌な気持ちになったら、それは言わなくてもいい余計なことを言ったということだと、何度もお伝えしたじゃありませんか」
「よ、余計なこと…」
マーサは容赦なく、エラリーの痛い所を突いてくる。
「まあ、そのお嬢様にはお詫びの印に保湿剤でもお贈りになっては?可愛らしいお花でも添えて、しっかり謝罪なさいな」
「花と保湿剤だな…よし!」
(今まで騎士になることしか興味のなかった坊ちゃまがねえ。ようやく初恋かしら)
慌ててどこかに向かう、愛しい養い子の背を生暖かく見守るマーサだった。
「で?こんな夜からどうしたの?そんなに慌ててエラリーらしくないね」
お茶の用意をしたメイドに退室するよう目で促すと、ジャンは突然訪ねて来たクラスメイトを問いただした。
これから訪問したい、という先触れが届いたかと思った、その直後にエラリーがドットールー侯爵家を訪れたのだ。
(先触れの意味…)
色々突っ込みたくなったジャンだったが、直情径行のこのクラスメイトが嫌いではないので、ひとまず話を聞いてみることにしたのだった。
「いや、その、何だ、あの、ジャンの所では化粧品の類を取り扱っているんだろ?」
「うん。まだ始めたばかりだから、軌道に乗るのはこれからだけどね。それで、何、エラリーが自分用に欲しいの?」
「な、何をばかなことを!そんなわけないだろうが!女性への贈り物だ!」
「ふーん。女性への贈り物ね」
顔を真っ赤にして、居心地悪そうに大きな身体を縮めているエラリーを見ていると、つい、イタズラ心が湧いてくる。
「それで?贈る相手は誰なの?」
「なっ、そ、そんなの、誰でもいいだろうが!」
「贈る相手も決まってないのにプレゼントだけ用意するの?」
「いや、それは、もちろん、贈りたい相手がいるからで…」
エラリーの声がどんどん尻すぼみになる。その様子を見て、ジャンがいい顔で笑う。
(かわいそうだし、そろそろ真面目にアドバイスしようかな)
「エラリー、真面目な話、贈り物っていうのは、贈る相手のことをちゃんと知ってから贈らないと意味がないんだよ。相手に喜んで欲しいからプレゼントするんだろ?」
「…そうだな。後、謝罪の気持ちを込めて、というか…」
「謝罪のため?それなら尚更贈るものを厳選しないと、逆効果になっちゃうよ」
「っう、そうだな…」
「わざわざ訪ねてきたってことは、僕に一緒に選んで欲しいからだろ。それなら、贈る相手のことを教えてくれないと、僕も判断のしようがないよ」
「じ、実は俺も彼女のことはまだよく知らないんだ。ただ、今日、失礼なことを言って傷つけてしまったから…」
「ああ!クラリスさん?」
クラリスの名前を出した途端に、更に顔が真っ赤になるエラリー。
(ほんと、わかりやすい…悪い奴に騙されないか心配になっちゃうよ)
「彼女なら、『もう怒ってないから気にしないで』って言ってなかった?それに僕が今日保湿クリームをお試しで渡してしまったしね」
「そ、そうなんだが、それでは俺の気がすまないというか…と、とにかく、何か彼女の気にいるような物を贈りたいんだ!」
「そうだねえ。でも、彼女みたいなタイプは、終わったことを蒸し返されるのは好きじゃないんじゃないかなあ」
少し話しただけではあるが、クラリスというあの少女は、どちらかというとサバサバした性格にみえた。
あまり何度も同じことを言い続けると、逆に嫌がられそうな気がする。
「エラリーの気持ちもわかるけどさ。今日のことはもう済んだこととして、これから彼女と親しくなっていく中で、彼女の好きな物とか好きなこととかを知っていったらいいんじゃない。贈り物をするのはそれからでも遅くないよ」
ジャンの言葉を神妙な顔で聞いていたエラリーは、大きく頷くと、さわやかな笑顔を見せた。
「ジャンの言う通りだな。全く、俺はすぐに周りが見えなくなってしまう。今日はこんな遅い時間からすまなかった」
「気にしないで。僕もエラリーの話が聞けて楽しかったし」
「あ!わかっているとは思うが、その、このことは他言無用で…」
「わかってるよ。商売は信用第一だからね。今日のことはここだけの話だよ」
優しく笑うジャンに、エラリーもホッとしたように微笑んだ。
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