帰り道
ふらつく足取りながら、何とか結野は自力で部屋に戻って行った。貫井は顔に出ない
火の元と作業場にある勝手口の戸締りを確認して、千影も帰宅する準備を整える。
アパートへの帰り道、歩きながら「今日も充実した一日だった」と晴れやかな気持ちになった。
少し前までは、反省したり落ち込んだりすることのほうが多かった。
寮に住む社員たちとうまくコミュニケーションをとることができなかったのだ。
去年の晩夏、千影はワカミヤに入社した。勤めていた創作料理店の閉店に伴い、転職活動を始めて真っ先に目に留まったのが社員寮のまかない係の求人だった。
食材の買い付けから調理まで一人で担当すると知ってやりがいを感じた。同時に、杉野館のまかない係は自分ひとりだけという点に安心感を抱いた。
他人と関わることが苦手な自分には合っていると思った。面接では「住人である社員と関わることはほとんどありません」と説明された。
「配膳のときに顔を合わせる程度だと聞いています」
とも言われたが、実際に働いてみると「それなりに関わりがあるな」というのが正直な感想だった。当然といえば当然だった。アレルギーの有無を把握したり、それぞれの好みを聞いたり、残業する際に連絡を受けたり。住人たちと関わる機会は多々あった。
寮で暮らす人たちは、気の良い社員ばかりだった。仕事で遅くなる日は前もって教えてくれたし、嫌いな食べ物や、味の好みはあるかと確認したときも「大丈夫だから」と気を使ってくれた。
「教えていただいた方が助かるんですが」
それなのに、冷ややかな物言いをしてしまった。にこりともせずに真顔で言われたら驚くだろう。イヤな奴がまかない係として来たと思われたに違いない。
皆に安心して美味しいものを食べてもらいたい、という気持ちからだったが、それを上手く伝えられない。
創作料理店で働いていたときもそうだった。料理をすることが好きで、作ったものを褒められることはあったが、接客はいつまで経っても不得手なままだった。
杉野館でつっけんどんな物言いをしたのは勤務初日だった。家に帰ってから泣きたくなるくらい後悔した。真顔になるのは緊張しているからなのだが、そんな千影の事情は住人たちには関係のないことだ。
千影は幼少期、親戚の家を転々とする生活を送っていた。
両親が離婚し、幼い千影を押し付け合った結果だった。物心ついた頃から、自分はよそ者だという感覚があった。家族団欒をしていても、この中で自分だけが「違う」のだと知っていた。
虐げられたり、いじわるをされたり、そういうことがあったわけではない。優しくしてくれた。面倒を見てくれた。どの家に行っても、良いお母さんと、良いお父さんがいた。でもそれは「誰か」のお母さんとお父さんで、自分の本当の家族ではない。
この家族の中で、自分はどんな顔をすればいいのか分からなかった。どんな顔でその中にいればいいのか分からなかった。なるべく手のかからない子でいたかった。優しくされるたびに、申し訳なさを感じた。自分にはないものを持っている他の子供が羨ましかった。当たり前の顔をして、その家族の中にいられる子供になりたかった。
優しい家族に、誕生日を祝ってもらったことがある。
用意されたホールケーキを見て、うれしく思うと同時に胸がチクリと痛んだ。「お母さん」と「お父さん」が買ってくれたケーキは、先月誕生日を迎えた「本当の子」のものより小さいことに、千影は気づいてしまった。
当たり前だ。自分はよそ者なのだ。同じものを要求するなんておこがましい。せっかく準備してもらったのだから、うれしい顔をするべきだ。少しでも可愛げのある子だと思われたい。本当にうれしいと思っている。でも、うれしい顔って、どんな顔だろう。
考えれば考えるほど、どんな顔をすればいいのか、いま自分がどんな顔をしているのか、分からなくなってしまうのだ。
最後は、伯母の家で暮らした。
母に年の離れた姉がいることを千影は知らなかった。長年疎遠だったことを、後になってから聞かされた。
伯母は一人暮らしで、大阪で小さなお好み焼き屋を営んでいた。高校を卒業するまでの十年近くを伯母の元で過ごした。そして創作料理店に就職が決まり、千影は飛騨高山にやって来たのだった。
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