住人たち
古い廊下を歩くギシギシという音が近づいてくる。
「今日もがんばって働いた~! マジで疲れた~! お腹ぺこぺこだし死ぬよホントに!」
一番乗りで帰宅してきた
労働に疲弊し死に瀕していると主張する割に、彼からくたびれた気配は微塵も感じない。今朝、元気に出勤して行ったのと同じテンションで帰宅したように見える。
「あ、やった! 今日は甘い卵焼きの日じゃん。これはご飯軽く三杯はいけそう!」
陽汰はよく食べる。若さゆえだろう。どれだけ食べても太る気配はない。入社一年目の23歳。いつも元気で食欲旺盛だった。ちなみに彼が杉野館の「卵焼き甘い派」だ。
「おかえりなさい」
台所の奥から陽汰に声をかけると、「千影さん、ただいま!」と満面の笑みになった。
「ところでさ、このあら煮ってなんの魚? えっと、魚へんに……師匠の師? って、なんて読むの?」
ホワイトボードを指さしながら陽汰が言う。
「ばか、ブリだよ」
千影が答えるより先に、
「ばかとか言わないでくださいよ。あ、もしかして卵焼きが甘い日だから機嫌悪いんですか?」
陽汰が勝ち誇った顔で貫井を見る。貫井は「しょっぱい派」だ。
「ばか。そんなことで機嫌が左右されてたまるか。子供じゃないんだぞ」
眼鏡の奥の切れ長の目を細めながら、入社八年目の貫井がため息を吐く。若干のくたびれ感が漂うのは、最近彼が昇進したせいだろう。気苦労が多いらしい。
「何回もばかって言うほうが子供だと思いまーす!」
陽汰が軽口を叩きながら、自分の茶碗に土鍋から白米をよそう。白米とみそ汁は自分でよそうのが杉野館のルールだ。千影は鰤のあら煮と卵焼き、それから赤かぶ漬けを皿に盛ってトレーに乗せ、配膳台の上に置いた。
「照りっ照りだなー! うまそ~!」
陽汰が鰤のあら煮を見て目を輝かせる。「いただきまーす!」と手を合わせてから、がつがつと旺盛な食べっぷりを見せた。
「あら煮がほろほろで美味い~! 濃いめの味だからご飯が進み過ぎてやばい」
白米とあら煮を交互に口に放り込みながら陽汰が、さっそくおかわりの気配を見せる。ご飯はいつも多めに炊いているので問題はない。二杯目のご飯に突入してから卵焼きに箸を付け、「ん~~」と唸る。
「甘さがしみるなぁ」
もぐもぐと咀嚼しながら、陽汰が幸せそうな顔をする。
「美味いのは分かるけど、白飯と合わないだろ」
向かいに座った貫井が口を挟んだ。
「あいますよ」
むっとした顔をしながら陽汰が言い返す。
「子供舌だな」
「俺が子供舌なら貫井さんは年寄り舌ですね」
「俺はまだ三十だぞ」
「さんじゅういち、でしょ。厳密に言えば」
ちらりと向かいの貫井を見ながら、ズズ、と春キャベツの味噌汁をすする。
口喧嘩のような応酬はいつものことだ。仲が悪そうに見える二人だが決してそうではない。食堂にはゆったりとしたスペースがある。にもかかわらず、向かいに座って食事をしているのがその証拠だった。
彼らのやり取りを耳にしながら作業台を拭き清めていると、玄関のほうから「ただいま」と柔らかい声がした。
入社五年目になる、
「いい匂いだね」
線の細い結野が、スーツの上着を脱ぎながら配膳台を覗き込む。
「ホワイトボードに今日は『あら煮』って書いてあったけど、タイミングが良くてびっくりしたよ」
おっとりした口調で結野が笑う。
「タイミングって、なにがですか」
千影が問うと、結野が配膳台に酒瓶を置いた。貼られているラベルは、飛騨高山で有名な酒蔵のものだ。
「酒の肴にぴったりでしょ」
結野が土鍋からご飯をよそいながら笑う。
「え、新酒? 買ってきてくれたんですか? 今日が金曜日で良かったぁ。マジで結野さん最高だな~!」
陽汰がうれしそうに純米大吟醸を手にする。
「子供舌で新酒も何もないだろう」
そうは言いつつ、自分より先に陽汰のぐい呑みに新酒をそそいでやっている。
「いただきます~!」
陽汰が一気にあおった。
「うぅ~、にがい。日本酒の味だ」
顔を顰める陽汰に、なんだその感想、と貫井と結野が笑う。
「通りの酒林を見たら、あ、もうこの時期なんだな、新酒を飲まないとって思ったんです。なんか、こういうのって、すごく飛騨高山の人間っぽくないですか?」
涼やかな硝子製のお猪口に新酒をそそぎ、ゆっくりと味わいながら結野が笑う。彼の地元は遠方だと聞いたことがある。
「まぁ、それは確かに」
貫井があら煮に箸をつけながら頷く。
「酒林ってなんですか?」
すでに赤い顔をした陽汰が二人に訊ねる。その瞬間、「え?」と貫井と結野が声をあげた。
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