第14話 乙女に抱きつかれるように
「い……今、なんと?」
ヒルシェンはまるで予期せず不意に汚泥の中に足を踏み込んでしまったような感覚を受けた。驚愕してキシュクシュの口元から耳を遠ざけたが、キシュクシュは不機嫌そうな顔で再び彼の耳に口を寄せる。
「驚いた顔してるんじゃあないわよ。向こうにバレるでしょうが。あなた無能な上に耳まで遠いのぉ? 『殺せ』って言ったのよ」
やはり聞き間違いではなかった。彼はキシュクシュから「どう負ければよいか」の指示を受けられると思っていたのだが、彼女の指示はまさかの殺害指令だった。
冗談ではない。キシュクシュは一時の感情に任せて殺害を指示して、それでいいかもしれないがヒルシェンの立場はどうなるのか。王子の殺害犯として切り捨てられるのではないのか。
「いい? 落ち着いて聞きなさい。イェレミアスを殺したって、大した問題にはならないわ」
半信半疑ながらもヒルシェンは黙ってキシュクシュの話を聞く。
「確かにイェレミアスは正妻の子で、本来なら長兄ガッツォや次兄アシュベルよりも優先的に王位継承の権利を持つ。でもね、陛下は実はイェレミアスには何も期待してないのよ」
ヒルシェンも公爵令嬢に仕えるものとして、ある程度の王宮の実情は把握してはいるものの、そこまで突っ込んだ内容は知らなかった。ちらりとイェレミアスの方を見ると、あちらはあちらで王子とギアンテが揉めているようであった。無理もあるまい。
「イェレミアスの性格ははっきり言って王には不向きよ。たとえ王別の儀を通ったとしてもね」
言われてみればそうである。王は「優しさ」を見せることはあっても、それを根拠に行動してはならない。非情に実利を追い求める冷徹さが求められる。その点内政だけでなく外交、歴史にも通じて野心家の長兄ガッツォや女好きの欠点はあるものの、貴族間の調整を得意とする次兄アシュベルは側室の子なれども王に向いている上、すでに王別の儀も通っている。
「ぶっちゃけイェレミアスは王別の儀を通らない方がこの国には都合がいいのよ。それどころか生きていれば後々の内紛の元にもならないとは言えない」
王に不適格であるが継承権第一位の弟王子と、適格ながら側室の兄達、歴史上何度も繰り返されたお家騒動の典型である。
「だから、あなたがここで王子を殺しても、表面上叱責したって内心じゃみんな喜ぶわよ。特に陛下はね」
しかしそれだけ良い材料を並べてもヒルシェンの表情は重かった。
「あなたもしかして人を殺すの初めてェ? 祖父が大変な功を上げた人物だからって鳴り物入りで騎士になったくせに、とんだ外れくじ引いちゃったかしら? ……大丈夫よ、あなたの実力ならたとえ訓練用の木剣でも、あんなもやし野郎簡単に殺せるわ。いいから
鈴の音のような可愛らしい声色でとんでもなく物騒な事を呟いてくるキシュクシュ。ヒルシェンは
「ウサギを狩るよりはるかに簡単よ。さっさと覚悟を決めてお
「わ……」
ふうふうと荒い息を吐き出すヒルシェン。ようやく覚悟を決めたか。
「分かりました」
顔を上げてみればどうやらイェレミアスとギアンテの方も話し合いが終わったようでこちらを向いている。にこやかなイェレミアスと対称的に通夜のような表情のギアンテ。右手は腰の剣の柄にかかっている。
「いいか、一撃で決めろ。もたもたすればギアンテが必ず止めに入る」
キシュクシュが耳元でそう囁いて離れると、従者の一人が木剣を二本持ってきて、それぞれに渡した。「殺し」においては童貞のヒルシェンは震える手でそれを取る。一方のイェレミアスは笑顔のまま。ヒルシェンとキシュクシュの殺意に気付いていないのだろうか。
「では……」
二人が対峙する。
一撃で決める。その言葉を胸に、ヒルシェンは両手でしっかりと剣を握る。
(一撃ならば、やはり喉か……)
頭蓋骨を叩き割っても確実に殺せるとは限らない。やはり確実に殺すなら喉をへし折るか、突きで貫くかだ。
半身に構えて剣を少し引くヒルシェン。しかしそれに合わせてイェレミアスの方も右足を大きく引いて半身に構えた。イェレミアスはさらに剣を引き、逆に左肩をせり上げる。すると彼の喉は完全に肩に隠れてしまった。
(なんだ? あんな構えは見たことがない)
イェレミアス王子が武に疎いことは有名であるが、しかしそれにしても全く教科書にない構え。さながらタックルの姿勢のようである。意味不明な彼の構えに、ヒルシェンは緩やかに剣を前に出して正眼に構え直す。
やはり全力で頭蓋を叩き割るか。イェレミアスは恐らくその性格からも逃げ回るか間合いを取るか。異様な構えは気になるが、やはりこちらから踏み込み、思い切り振りあげて、思い切り叩き込む。殺すにはそれしかないとヒルシェンは考えた。
ようやく彼が心を決めて、両腕を振り上げながら踏み込んだ時であった。
「あ……」
冬のグリムランドに似つかわしくない、花のようなかぐわしい芳香が彼の鼻腔をくすぐるように包み込む。男同士殺し合う時ではなく、女とむつみ合う時のような甘い香り。殺し合いの最中だというのに、瞬間気が遠くなるような感覚を受けた。
「しまっ……」
次の瞬間、ヒルシェンはその異常に気付いた。目の前までイェレミアスが近づいていたのだ。鍔迫りで押し戻そうにも剣はまだ自身の頭上。しかし退こうにも退けない。イェレミアスが彼のつま先を踏んづけてそれを阻止しているのだ。
何とか堪えようとするが、柔らかいものが彼の口の辺りを優しく包んだ。イェレミアスの左手がヒルシェンのあごを押し上げながらさらに前進してくるのだ。ヒルシェンはなすすべもなく仰向けに倒れ込む。
そしてそれと同時にイェレミアスも。いや、こちらはただ倒れ込んでいるわけではない、その切っ先の照準がしっかりとヒルシェンの喉元に定められたまま。
このままでは王子の剣の切っ先がヒルシェンの喉元を食い破る。自分がやろうとしたことをそのままされて殺されるのか、そう思ったが、着地の瞬間切っ先がわずかにブレてヒルシェンの横の地面にめり込んだ。
「おっと」
傍目には何事もなく、二人が激突してそのまま地面に倒れ込んだように見えた。
しかし乙女に抱き着かれるようにして、甘い香りの中仰向けに倒れたヒルシェンにはよくわかっている。完敗だ、と。
こちらの殺意も全て見抜かれ、その上で「王子がどう動き、それにどう対処するか」という考えまで予測され、さらにその裏をかかれて対処された上で、情けまでかけられたのだ。
「失礼。やはり運動不足ですね。足がもつれて倒れ込んでしまいました」
先に起き上がった王子が笑顔でヒルシェンに手を差し出す。
冷たく柔らかい手。まるで少女のようだった。
「無作法にて失礼。もう一度やり直しますか?」
首を振るヒルシェン。たとえ何度やったとても、この男に勝てる絵が全く浮かばなかった。
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