第27話

日鞠こいつもさぁ」

 

 倒れている日鞠の顔を、上履きで持ち上げる。


「どうしようもない女だよ。自信満々にわかりきったことをベラベラベラベラ語ってさぁ。結局、僕に負けるし、愚かな女だ」


 吐き捨てると、吉永は足を抜いた。脱力しきった彼女の頭が床へ叩きつけられる。

 他人が侮辱されようが、罵らせようが、どうだっていい。だってそれは他人から他人への評価だ。俺には関係がないから心が乱されることはない。

 ――今までの、自分だったら。

 拳を床へ叩きつけ、体を起こす。湧き上がった感情に突き動かされるようにして、睨む。


「背後から人を襲えないような卑怯なおまえより強いよ」


 肩で息をしながら言い終えると、当然のように矛先はこちらに向いた。

 別に死にたいわけじゃなかった。けれど、ここでなにも言わなかったら俺はこの殺人鬼に負ける。それがとてつもなく癪だった。


「今更だけどさ」


 わざとらしく靴音を立てながら、近づいてくる。


「僕、お前のこと嫌いだったんだよね」


 右からの衝撃に、体が吹っ飛んだ。天地がひっくり返り、ぐるぐると景色が変わっていく。上下左右どこをむいているのかわからないまま、背中を強打した。強制的に肺から空気が抜ける。

 むせこむ俺の目の前に影が被さる。覗き込むその顔は軽蔑の色が浮かんでいた。鋭利なものが、制服の上から触れた。反射的に足に視線を向ければ、ナイフが服の上で踊っていた。


「いっつも、偉そうで」


 吉永はなんの感情も浮かんでいない瞳で俺の足を捉え、じらすようにナイフを振り下ろした。俺は目をそらせない。コマ送りのように映像がゆっくりと展開される。痛みに襲われた瞬間、現実が追いついた。


「ぎ――ッ」

「それでもさぁ、皆に必要とされてたよね。いや、使われてたのかな」


 心底どうでもよさそうに言って、ナイフを引く。ずぶりと音を立てて抜かれたナイフには、赤い液体が付いていた。吉永は立ち上がると、刺した箇所に体重をかけ、つま先で強く押した。

 痛いなんてものじゃない。電気信号が全身を駆け巡るたびに気を失いそうになった。堪えようと噛みしめた唇から血が垂れる。滲む視界に吉永が映りこむ。


「はは」俺は、無理矢理に笑みを浮かべた。「嫉妬? 見苦しいな」


 血混じりの唾を吉永に吐き掛ける。

 体力は残っていないから、頭上から一直線に落ちてくる拳を目で追うことしかできなかった。なにが起こるかなんて想像に容易い。

 骨と骨がぶつかった音がした。鈍い音と、ずきずきと痛む頭ではもうなにも考えられなくなっていた。

 首筋に生ぬるい液体が付着する。先ほど自分の足に突き刺さっていた、ナイフだ。喉から悲鳴にならなかった空気が漏れる。


「なあ、冬夏」


 予行練習のように、ナイフを右から左へと往復させながら吉永は呟く。


「もっと利口に立ち止まれよ。今は僕が――がここで一番強いんだから。なんで逆らおうとする? なんで自分は死なないって安心してられるんだ? 人ひとりが死んでいるってのに。今更おまえひとりを殺そうが、なぁんにも変わりやしない」


 吉永は、くつくつと喉の奥で笑う。


「ああ、そっか。、人を殺すのは! 一対一でどっちが強いのか、体感できるから人を殺すんだ」


 ……ナニヲ、言っているんだ? こいつは。

 横たわったまま、石膏のように動かない逢瀬に目線を向ける。先ほどまでこの同級生は意思を持って、呼吸をして、死にたくないと震えていた。怯え切った表情が網膜に焼き付いている。まぎれもなく人間だった。

 生命を奪い、肉塊に変える行為を、この女は楽しいと評した。その時点で、こいつは俺の知っている吉永ではない。人間の言葉が、倫理が、感情が――常識が通じない化け物だ。生ぬるい液体が下半身を汚していく。

 俺の知る人間の定義からかけ離れた。それを認識した瞬間、俺は自分の負けを認めた。立ち向かうことを放棄し、人間の皮を捨てた獣に恐怖することしかできなかった。

 勝てない、勝てるわけがない。こんな化け物相手に――


「そりゃあ違う」


 聞き覚えのある呆れ声が、体の震えを止めた。都合のいい幻聴だろうか? ぎこちなく首を曲げながら、声のほうへ顔を向ける。

 そこには、がいた。――制服姿で。


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