26杯目「古川優愛の話4」

「母からは、まだ何も返信が返ってきてないわ」

 私への興味を失った母は、私の生活に反応することがなくなった。

 今では母への依存はなくなり、自分一人で生活ができているものの、連絡だけはしないといけないと思い、病気の治療などでことあるごとに連絡するが、返信が帰ってくることはない。

 退院した時も、連絡はなかった。

 今回、治療がうまくいき、完治も見えてきたことにも、反応はなかった。

 私の心の拠り所になってくれるのは、いつしかはるしかいなくなっていた。

『そんなものだと思うよ』

 彼女はいたって冷静だった。無理に私に期待させてくれなかった。

「そうね。ありがとう」

『あと、たとえ連絡が返ってきても、気を付けてね』

「どうして?」

『きっとお母さんは、またゆあさんのことを利用する』

 一度だけ、母から連絡されたことがあった。

 お金を貸せ、と。

 仕送り程度ならかまわないと伝えたが、母は高圧的に言い返した。ここまで育ててやったのは誰だ。これまでの恩を忘れたのか。今すぐ払わないともう親子でも何でもない。

 私はその怒鳴り声を聞いて何も思わずにいられる時期ではなかった。

 無理よ、絶対に無理。そう言って私は電話を切った。

 あれ以来、一度も連絡されたことはない。

「きっとそうね。ありがとう、心配してくれて」

 でも、彼女はひとつだけ思い違いをしている。

 私は母のことが決して嫌いじゃない。

 母は私のことをここまで育ててくれた。仕事ばかりで家庭を顧みない父と違って母はいつも私の傍にいてくれた。母は自分の人生をかけて私に期待してくれた。期待通りの人生にはならなかったけれど、母に少なからず恩があるのも間違いではない。

 はるは心配しすぎよ。私は大丈夫。

 彼女には何も言えないままだった。


「……っていうことがあったの。はるって面白いでしょ」

「その話、俺に関係あるか?」

 彼は無造作に脱ぎ捨てられた服を取り、身に着ける。その造作に私からの言葉は響かない。

「――そうね。貴方には関係ない話だった」

 彼とは、体を重ねるだけで、特別な関係ではなかった。こんな他愛もない雑談さえも面倒くさいと感じる彼とは、これ以上の関係になりたいと思わなかった。

「じゃ、次またしたくなったら連絡するから」

 彼は颯爽と去っていった。私がまだ服を着てしまう前だったから、特に見送りもしなかった。

 私はその体勢のまま、はるにメッセージを送っていた。


「はる。寂しい」


 彼女なら何と言うだろう。私が傍にいてあげるって言うのかな。それとも、私には関係ないことだってぶった切るのかな。

 いつの間にかはるに依存していた。

 彼女がいないと苦しくて、暗闇の中でもがいているようだった。

 はる以外は、何も考えられなくなっている。


 返信はこない。

 1分、2分と時間が経つ。それだけなら、まだ大丈夫。

 10分、20分と時間が経つ。少しずつ自分の心臓の音が早くなるのを感じる。

 冷え切った自分の体を抱きしめると、少しずつ震えているのを感じた。

 1時間が経つ。息苦しい。助けて、はる。

 2時間が経つ。はる、ねえ今何をしているの。早く返事をしてよ。

「ねえ、はる……」

 苦しい。苦しい。なんでこうなったの。これが全部間違いだったの。

 腕に何度も何度も切り傷を付ける。何重にもなった傷からは鮮血があふれ出る。

 まだ足りない。

 喉に無理やり指を突っ込む。さっき食べたはずの食事も、飲み込んだはずのあの男の精液も全部吐き出す。

 まだ足りない。

 輪を作って丈夫に縛り上げた麻縄を天井に括り付け、首に通す。

 ここから踏み台をければ、私は幸せな世界に行ける。


『ピロン♪』


 小気味のいい通知音がなった。

 はる。

『どうしたの、ゆあさん』

 どうしたのじゃないよ、はる。私ずっと待ってたんだよ。

「ごめんね、私、死にたい」

 ううん、本当は嘘。あなたと一緒に話したいの。

『それはいやだな。私はゆあさんと話したいから』

「そんなこと言っても無理。私今どんな状態だと思う?」

『なにしてるのー? あ、晩ごはんは食べた?』

「うん。食べたけど全部吐き出しちゃった」

『えー、もったいないなぁ。じゃあ何してるの?』

「今ね、首を吊ろうとしてるの。もう、踏み台を蹴ればあの世へ行けるのよ」

 足が震える。震えたまま、足を踏み外したら、きっともう戻れない。

『そうなの。私、もっとゆあさんとお話したいんだけど』

 私もそうだよ……。私も、あなたと話したい。

「ごめんなさい。もう、降りるわ」

 私は、首から縄を外した。

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