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小春こはるが塾から帰ってこないの」

 姉の真奈まなから悲痛な声で電話がかかってきた。金曜日の夜中、仕事を終えた帰り道だった。

 私の周りには昔から人が寄り付かなかった。

 正確に言うと、初対面の人から気軽に話しかけられることがなかった。時間が経てば多少は打ち解けるのだが、どうも外見のせいで怖い女だと思われていたようだ。皆口を揃えて「思ったより普通の子だった」と言った。

 中学校いや小学校、もしくは幼稚園からだろうか。

 その後の人生もずっと同じであったし、それは警官になっても変わらなかった。交番実習の時も同僚ばかり道を尋ねられたし、小学校での安全講習でも子供達は一人として近づいてこなかった。

 しかし姪の小春は別だった。

 幼い時から膝の上に乗りたがり、満面の笑みで私を見上げてきた。

 小学生になっても「玲奈ちゃんみたいになりたい」と言いふらすおかげで、『玲奈ちゃん』は彼女の友達の中で有名人だった。他人から遠のいて渇いた心に、小春の存在は染み渡っていき、もはや私の一部となっていた。

 義兄の迷惑にならない頻度で姉を訪ねて、幼い小春の面倒を見た。元々身体の弱い姉は育児で参ってしまうことが多く、いつでも歓迎してくれた。最近は休みの日に、二人で子供向けの映画を見に行ったり、服を買いに行ったりもした。自惚れかも知れないが、第二の母くらいの存在ではいたつもりだ。

 そんな小春が家に帰ってきていない。

 姉夫婦は既に警察に連絡し、義兄は方々を探し回っているらしい。

「誘拐事件は初動が全てだ」という研修での言葉を思い出し、居ても立ってもいられず走り出した。

 駅前の商店でスニーカーを買って、コインロッカーにパンプスと荷物を叩き込む。四肢が自分のものではないよう的確に動く。電話を受けてから三十分もしないうちに姉のマンションに着いていた。

 ソファで項垂れている姉は、顔色が悪く酷く憔悴した様子で、目は泣き腫らしたように真っ赤だった。義兄は探しに出ているらしく、がらんとした室内には彼女一人だ。塾へ行く前に置いていったであろう赤色のランドセルが痛々しく目に映った。

「玲奈ちゃん、どうしよう」

「まず小春の塾の住所を教えて」

 姉の言葉を遮り、必要な情報を聞き出す。

 まずは帰宅ルートを重点的に探す、監視カメラの場所もチェックして、いち早く担当の警官に伝えねばならない。十三歳未満が失踪した場合、事件性の高い特異行方不明者として警察は素早く動くはずだ。その前に少しでも情報を集めたい。

 こういうところが冷たいと言われるのだろうか、姉に同情して慰めるのが身内の役割かもしれない。ただ小春が戻ってくることが何より慰めになると、私基準では判断している。

 あなたはお父さんそっくり、という母の言葉を思い出す。母の愚痴に対して、いつも現実的なアドバイスしかしなかった父。欲しかったのは共感だろう、でもそれでは問題は解決しないのだ。

 ましてや今は小春が行方不明になっているのだ、近所付き合いの愚痴とはレベルが違う。生きてあの笑顔を見るのか、骨になって戻ってくるか、この一分一秒にかかっている。骨になって戻る、……自分で考えて恐ろしくなった。

 もし溺れていたら間に合うだろうか?

 蘇生措置をして助かる時間を思い出す。ダメだ。

 変質者に連れ去られていたら?

 監視カメラから犯人を割り出している間に、バラバラにされているかもしれない。

 鼻の奥がツンとして、涙が溢れ出す。

 いや、冷静になれ。意外にもひょっこり出てくるかもしれない。何か嫌なことがあって家に帰りたくないだけとか。十代の女の子の失踪なんて、大体が家庭や人間関係のトラブルなのだ。後でカフェやファーストフード店も回ってみよう。

 マンションを出て走るうちに、いつの間にか河川敷に着いていた。川面がコールタールみたいにねっとりと黒く見える。都内でも屈指の幅を持つ荒川は、対岸までが遠く、小春が溺れていても見つけるのは困難に思えた。

 まさか姪がこんな場所を通るはずがないと考えつつ、黒く淀んだ川面を見る。

 水面に何かが浮いていた。

 衝動的に身体が動き、ばしゃばしゃと川に入っていく。水が重く、固まる前のコンクリートのように感じる。腰まで漬かりながら、まるでドラマみたいだなと検討違いのことを思った。現実感が無さすぎて、俯瞰しているように自分を見ていた。

 ふと異臭がした。

 古い墓地のような、土やかびの混じる湿気た臭いだ。同時に、肌にまとわりつくような粘ついた不快感を覚える。近くに何かがいる。それも普通でないものが。私は我に帰った。

 目の前には白い背中が浮いている。

 それは、川の流れに揺られて少しづつ下流に流れていた。ぷかぷかと浮かぶ小さい背中には見覚えがある。

 こわい、そんなはずはない。

 ちがう、あの子なわけがない。

 だが、それは変わり果てた小春の姿だった。

 どぼん、遠くで何かが跳ねた音がした。魚にしては大きすぎる水音、まるで食事を邪魔した者へ威嚇するための警告。同時に川面に漂う腐ったような空気が消え去った

 その先は詳しく覚えていない。空が薄白んできた頃には、ブルーシートで包まれた小春が、救急車に運ばれていった。

 着いていった病院の待合室で俯いていると、遠くで姉の慟哭が聞こえた。

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