第17話 ライムくんの秘密〈リリー〉
事務所から階段を一つ上がってビルの5階の一室。ファミリー向けのコンドミニアムが3室。
うち、一つは所長の家。独身のルトーナ所長と猫が1匹住んでいる。
残りはスタッフ用の寮となってる一室と、資料や備品の物置になってる一室。
備品の片付けの手伝いで、一回だけこの階に来たことがある。
ライムくんも含めて3人がここの一室をシェアして暮らしてるそうよ。一部屋づつ個室をあてがわれていて、バスキッチントイレは共同。今はシェアルームの他の二人は仕事で不在ね。
ライムくんのこじんまりしたお部屋は、荷物は少ない。ベッドの上にはきちんと畳まれたブランケット。あるものはきちんと整頓されている。
しっかりした子なんだわ。
「リリーさん。えっと、これなんですけど、よろしくお願いします」
カバンからガサゴソとノートと筆記用具を取り出して机に置くと、問題集のページを開いて私に見せた。
「ええ、任せて。私、数学は得意だったの。本当は理数系方面に行こうと思ってたくらいなのよ」
ふと、私の人生を変えた痛みが、胸をチクッと刺す。私の人生に、思いもかけないことが起こったの。
私は、チャイミのことで、志望は社会学に変えた‥‥‥
小さな窓に向かって置かれている、事務所で使い古したスチール机。その横で折り畳み椅子に腰かけて指導する私。
へぇ‥‥‥ライムくんは物覚えがいいのね。教えたことはすぐに理解する。
「ちょっと、問題の文章の意味を勘違いしていただけだったのね。数学ってね、同じ一つの単語でも、日常で使ってる言葉の意味とは少しずれているから、これからは数学用語を意識するといいわ」
「へぇ‥‥そうだったんですね。今までの疑問が一気に解けました。ありがとうございます。数学ってなんか文章が変だなってずっと思ってたんです」
ほんの30分で、ライムくんの宿題は終わってしまったわ。1時間くらいかかると思ったのに。
「あ、そうだ! お母さんが送ってくれたライチが冷凍庫にあるんです。いかがですか? 僕の家の庭で採れたものです」
きっと教えて貰ったお礼のつもりなのね。私たち、少し仲良くなれたみたい。
「あら、ごちそうになってもいいのかしら? 実はね、ライチ大好きなの。ありがとう」
ライムくんに誘われて、ダイニングキッチンへ移動してお茶の時間。
個人的なことはお互いにほぼ知らなかったから、改めて自己紹介しようってことになった。
「僕は、ヤナナ村の出身なんです。すごく田舎だけど都会とは違って空気もおいしいところです」
「へぇ、素敵ね。私もいつか行ってみたいわ。遠いけどそこまで遠いってわけでもないものね。あの‥‥聞いてもいい? ライムくんは所長とは遠い親戚なんでしょう?」
何か事情があるらしいのは知っていたけど、職場では、タッチしてはいけない雰囲気だったから黙ってた。今は二人きりだし、気になっていたから思いきって聞いてみた。
「‥‥ええと‥‥それは。言ってもいいのかな。実は‥‥‥それは嘘なんです」
「そ、そうなのっ!? ま、まさか、あなた、やっぱりルトーナ所長の隠し子だったのッ!!」
もしかしてって思ってた。ルトーナ所長はライムくんを特別扱いしてるもの。年の頃から見ても不自然じゃあないわ! 所長には全然似てないけど、父親似ってことなのよ! 訳あって父親から母親のルトーナ所長の元に寄越されたんだわ‥‥‥
すっごく驚いてる私を見て、ライムくんがブッと、吹き出した。
「ち、違いますよッ!!」
「え?‥‥‥違うの? じゃあ何、何なのッ?」
やだわ。私ったら動揺を隠せないわ。ずっと下世話な想像して気になってたの。
「‥‥僕、実は拉致被害者なんです。このことを知っているのはルトーナ所長とごく一部の数人だけですけど。売られて働いてた漁船から落っこちて漂流して、奇跡的に助かって‥‥」
「ええっ! 本当なのっ!! 漂流って‥‥‥なんて酷い目に‥‥‥。ごめんなさい、聞かれたくなかったことだったわよね‥‥‥」
ライムくんにそんな事実が隠されていたなんて!
だから、ルトーナ所長はライムくんを特に気遣っていたんだわ。それを私は勘違いして‥‥‥
私はその境遇を知って、涙が溢れてしまった。だって、チャイミと重なって。
「わっっっ! 泣かないで下さい。僕は隠すつもりもないですけど、まだ、大人じゃないし、好奇の目で見られたら辛いだろうってルトーナ所長が気遣ってくれて」
「‥‥‥私が知っても良かったのかしら」
「僕はどちらかと言うとたくさんの人に知って欲しいです。出来れば啓発の講演会にも出たいくらいです。まだ早いってルトーナさんには言われてますけど」
「‥‥‥‥」
わかってはいたけど、ただのボランティアの私には知り得ない情報が、ここにはいくつもあるようね。私は馴染んだつもりでいても、まだ組織の一員とは言えない身分。
「最初は、警察から打診されたんです。拉致の解決を目指してる民間組織があって、彼らが僕の話を聞きたがっているって。この手の問題は、警察で解決出来るかは何とも言えないって言われて。彼らは民間だからこそ、自由に動けるって」
「‥‥‥そうね。公的組織では難しい面もあるようね。権力の保護下の既得権益層は、これを問題にしたくはないでしょうから」
「‥‥みたいですね。まさか、政治の権力も関わっているなんて。僕は警戒しながらも面会を承諾しました。だって、僕は船の仲間を助けたいって強く思ってましたから」
「その勇気を讃えるわ。大人だって復讐を恐れて口をつぐんでしまう人がほとんどですもの‥‥‥」
「ありがとうございます。僕が囚われの仲間を放置出来るわけありません。船の中ではたくさん僕を助けてくれた人たちなのに。今この時だって、奴隷労働させられてるんだ‥‥」
ライムくんは何か、遠い目。
海の果てを見るような‥‥‥
「僕の志はルトーナさんと一致してるってお話してわかったんでず。だから僕が拉致されて船で働かされてからの情報をルトーナさんにお話しました。とても親身に僕を心配してくれて、僕はついでにある個人的相談をしました。僕、家に戻れたけれど‥‥‥家族は優しいし、無事を喜んでくれたけど、腫れ物を触るように気遣われて。僕が何もしなくても家は回っているんです。僕の居場所は実家にはもはや無くなっているように思えて‥‥‥」
「それで、ここに‥‥‥?」
ああ、拉致被害者は助けられた後にも、生活に影響が残るのね‥‥‥
「僕はルトーナさんの好意に甘えることにしました。僕にはするべきことがあるから。ここで働きながら、学校で学べばきっと先が見えて来ます。そしたらルトーナさんにも恩返し出来ます。だから‥‥僕には悲観するところは無いです。家族とは、離れても仲良くしてますし」
はにかみながら微笑むライムくんは、なんていじらしいの!
見かけよりもずっと大人でしっかりした子だわ。私が子ども扱いするべき人物ではないようね。
「‥‥‥話してくれてありがとう、私、あなたをリスペクトします。これからはライムさんと呼ばせて頂くわ。‥‥‥ライムさん。私では頼りないかもしれないけれど、困ったことがあったら言ってくれていいのよ。大した手助けは出来ないかもしれないけど、力になるわ」
「‥‥‥ありがとうございます。僕って酷い目に遭って来たけれど、出会いには恵まれているんです。船では、さりげなく僕を助けてくれていた兄のような存在がいて。船にいたチャイミさんとキャドさんとは必ず再会したいです。ソムラータさんも。ここではエネルギッシュなルトーナ所長や‥‥‥えっと、その‥‥‥リリーさんみたいな素敵で親切なお姉さんにも出会えて、僕は本当にラッキーです!」
───待って!!
今あなた、何て言った? 『チャイミ』って言った?
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