第9話 キャドとの出会い〈チャイミ〉
恐る恐る目をそっと開く。
僕は固い床にずっと寝ていた。
見覚えは無い、知らない床がぼんやりと僕の目に映る。空間ごと微妙に揺れてる感覚。目眩? 関節が、ミシミシきしんで動かしづらい。
上半身を起こしたら、頭がフラフラした。
「‥‥‥あ!」
目眩が去り視界がハッキリすると、目の端に誰かがいるのが見えて、咄嗟に振り向いた。
そこには俺と同じ17、8才くらいに見える男が、壁に作り付けの狭いベンチに座ってた。
赤茶けた髪。ちょっとヤンキーっぽい。鍛え上げられた細い筋肉。左目の上と鼻に傷痕がある。
「あ、起きたんだ? あんた、なんでこんなところで寝かされてたの? 喉渇いてない? 水飲むか? 俺、ペットボトル持ってるけど」
驚いて口を半分開けたまま声を出せずにいる俺に、見かけとは裏腹、親切に声をかけて来た。
「‥‥‥あ、あの‥‥ここはどこですか? 僕はパラヤイ区から来たチャイミという者ですが、あなたはここの方ですか?」
声が頭蓋骨の中で反響して、自分が喋る声が自分の声では無いような、妙な感覚に陥ってる。
「俺? 俺はキャド。ちょとした事情があってさ、ここに行けって母さんに言われて来ただけで。俺は他の船に乗せて貰ってさ、ついさっき初めて来たとこ。来てみて俺だって何がなんだか。着いたとたんに、『この寝っ転がってる男を見張っとけ』ってキャップに言われてさ。因みにここはブリーム海の沖、たぶん南方向15海里沖くらいじゃね?」
「‥‥‥えっ、う、海の上???」
「‥‥‥ん? お前、何言ってんの? 当たり前だろ? 漁船なんだから。そういや、何で倒れてたんだよ?」
「何でって‥‥‥」
情報に混乱する。このキャドという男が嘘を言っているようにも思えない。ぶっきらぼうな人だけど、邪気は出ていない。
今は彼と話す以外、どうにもならないだろう。
僕は記憶は確かだった。プラヤーマーケットで買い物をしていて、弟を探しに行ったトイレで拉致され、気づいたらここにいた一連の出来事をキャドに説明した。
話が進むにつれ、彼の眉間に力が込められて行く。
「マジ? 本当にそんなことがあるなんて。にわかには信じられないぜ‥‥‥ちょいこのまま待ってろ。聞いて来る。どうせ海の上だからどこにも行けないけどな。だから落ち着いてろよ。いいな?」
キャドという男が出て行った後、俺は布で塞がれていた窓の隙間から外を見た。
下方にはごちゃごちゃしたロープに網。明かりが灯った船のデッキ。数人が作業してるようだ。最初は黒くてよくわからなかったけど、次第に目が慣れて、向こうに星々が浮かび上がって見えた。
帰らなきゃ! もう暗くなって今は何時だろう? お父さんとお母さんが心配する。それにプラムはどこに?
部屋の扉を開けようとしたけど、どうやって開けるのかわからなくてガチャガチャしていたら、突然向こうから開いた。
僕はしりもちをついた。
目の前には神妙な顔をしたキャド。その後ろには少し小柄のすごく日に焼けた中年の男。
僕は正面を向いたままお尻をずらして奥に逃げる。
───それはこの密漁船の船長で、この空間の支配者だった。
その男によれば、僕は奴隷で、船の乗組員として船長に買われて、その代価は俺の借金だと言う。返済のためには50万マニー分働いて返せという。それはここで5年分の労働だと。めちゃめちゃだ。
弟のプラムのことは知らないと言われた。今日、ここへ運ばれたのは僕だけ。
ここを収めるためにはこの理不尽な要求を一旦飲むしかないのか。裏の世界では、法律も常識も通用しないことは僕だって知ってる。
僕が家に連絡すればそれくらいは即金で払うと、僕をすぐに解放すれば倍払うと交渉したが、この男は認めようとしなかった。
ここで僕が働く以外の返済方法は受け付けないと。
結局はこの男は、お金よりも労働力を欲していた。
ああ、そうか。労働力さえあれば、回転させている限りずっと利益を生む。はした金を受け取るより、わずかな代価で労働力搾取の方が金になる。
───すぐに自分が置かれた立場を理解した。
僕は多分、このままでは生きてここを出られない。この船の犯罪がバレるから。
それは僕は5年以内でボロボロになって、もしくは事故で、あるいは故意で死ぬことになる‥‥ということでは?
僕は死ぬまでここで人生そのものを搾取され続け、働かされるに違いない。
「キャップ! 何だよそれっ! ひでーじゃん! 本当にコイツを拉致ったのかよ?」
キャップと僕の会話を聞いて、キャドは全身に怒りを露にした。
一体この男の立ち位置は何なんだ? キャップと呼ばれているこの船の支配者と親しいのだろうか? そのわりに僕の側についてるような態度。
「‥‥キャドは口を慎め。ワーカーバンクからの売り込みがオレに来たから、代価を支払い、この男を買った。それだけだ。それ以前のこの男の身の上は、オレには関係が無い」
「うるせーっ! こいつを解放してやれよ! 今すぐに!!」
「無理だ」
「なら、力ずくだな!」
───キャドのそれは、稲妻のような速さで。
ガシッ‥‥‥ バンッ!
狭い室内に派手な音が響く。
キャドがいきなりキャップにパンチを食らわせ、キャップはクリーンヒットで吹っ飛んで壁にぶつかった音だ。
「‥‥‥ふふ」
キャップは壁にもたれて座り込んだまま、口元から垂れた血を手の甲で拭い、ニヤッと不敵な嗤いを見せた。
「ふっふ‥‥‥キャド、聞け。お前は俺の血なんか引いてはいない。俺には全く似てはいないし。お前の母親は邪魔になったお前を俺に押し付けて来ただけだな。俺の情報では、お前の母親のフラウはろくでもない男に引っ掛かってこのたび結婚するらしいな?」
「‥‥‥母さんはここに来れば俺は本当の父親に会えるって‥‥そんで、一緒に働けるって‥‥。俺はあんな男の顔見んのも真っ平だったし‥‥」
どうやら過去に、キャドの母親とキャップとの間に事情があったらしい。
キャドには申し訳ないけど、僕から見てもこの男とキャドには、全然似てる要素は無いように思う。
「あんな春を売る女の言うことなどに、真実などあるわけもないだろう。フラウも誰の子だなんて自分でもわかるまい。でも、まあいい。せっかくここに来たんだ。あの女には昔はずいぶんと楽しませて貰ったし、昔のよしみだ。キャドはここにいればいい。どうせ他に行く所もないんだろう? 野良犬は」
「俺を‥‥野良犬なんて二度と呼ぶな!‥‥そんでもって母さんを悪くいうなっ!」
また殴りかかっろうとしたキャドに、後ろに回した手から、サッとピストルが向けられた。
凍りつくキャドと僕。
「‥‥俺はこの船のオーナーで支配者だ。それを忘れるな。ニセ息子よ」
「‥‥クッ‥‥‥」
拳を握りしめ、闘犬のような目つきで唇を噛み締めるキャドに、キャップは立ち上がりながら言った。
「ふふっ‥‥お前、いいパンチしてるじゃないか。俺の補佐兼護衛役にしてやろう」
───俺とキャドとの出会いだった。
キャドがここに来た経緯はキャップと俺以外、他に知るものはいないと思う。
俺の口が固いことで、今もキャドの信頼を得ている。それに、キャドの強さで、この男ばかりの乗組員たちからの無差別な欲望から俺は運良く護られることになった。
俺たちはあの日以来、友情で結ばれている。
こんな所でキャドと出会いたくは無かったけれど、ここでしか出会うことはなかった。
本来は交差するはずはなかった、キャドと俺の運命の糸───
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