詐術はささやく
その日僕らが旧校舎を退去した頃には、時計の針は揃って六を回っていた。午後六時半。最終下校時刻が六時だから、言うまでもなく立派な違反行為である。
闇の中で電灯以外のすべてを現状回復させた我々の血の滲むような努力、そして生活指導担当の槙原先生をはじめ、我が校の錚々たる教師陣の目をかいくぐっての脱出譚は、くだくだしくなるのでここでは割愛する。
肝心なのは現場にミドウサマの手によると思われる怪文書が一枚残されていたこと、そして吉川君が踏んづけたものの正体が、当初の見立て通り蛍光灯の破片であったこと。この二点のみである。
「本当になりましたね、ミドウサマの怪異。いや、すごいですよ」翌日の放課後、僕は部長にやや興奮気味に捲し立てた。「まさか儀式の初っ端からあんな風に拒絶されるとは思わなかったけど……いやはや、まさか本当に出るとは思わなかったなぁ。すごいなぁ」
狂乱の放課後から一夜明け、当初の恐慌は興奮に変わっていた。
いったい誰が言いふらしたのだろうか? ミドウサマの“出現”は、いまや公然の秘密と化していた。僕自身、何人かの生徒にあの地下教室で何が起こったのか、二、三の質問を投げかけられたりしていた。
興奮する僕とは裏腹に、その日部長は不機嫌だった。部室のソファに不貞腐れたように横になって、僕の呼びかけに返事もろくによこさない。
長い沈黙の末に、彼女はようやくこれだけを言った。「君さ、どうしてちゃんと起こしてくれなかったの」
「は」
「は、じゃないんだよ。は、じゃ。あまりに不親切じゃないか。事件がすぐ目の前で進行しているのに、声一つかけてくれないなんて」
「何を言ってんですか」僕は呆れ果てて叫んだ。「いい歳して、何を後輩に甘えてんですか。自分のことくらい、自分で管理してくださいよ」
さらに言わせてもらえば、僕は昨日、部長のせいで結局スマホを家に持ち帰れなかったのだ。おかげでゲームアプリのボーナスもろくに受け取れなかったし、メッセージアプリのトークルームにあがっていた英単語テストの出題範囲も確認できなかった。
うんざりする僕をよそに、部長は一つため息を吐いた。「ま、いっか。君たちには刺激が強すぎたみたいだけど、話を聞いた限りじゃ大したトリックとも思えないし」
その言葉は聞き捨てならなかった。「トリック? 部長はあの怪異が、人為的に起こされたものだと言うんですか?」
「そうさ。くだんのミドウサマとやらが実在するかしないかはさておき、今回の事件には明らかに何らかの意思が働いている。だってそうだろ? パニック下で、しかも蝋燭の灯しか明かりがない状況で、紙切れ一枚懐から出して床に置くなんて、君にだってできるよ」
なんだか馬鹿にされている気がするけど、それはさておき。
「でも、現に蛍光灯が割れたんですよ。僕らの目の前で。あれはどう説明するんですか」
「蛍光灯なんてものはね、案外簡単に割れるのだよワトソン君」ゆっくりと身を起こしながら、部長は人差し指を不器用に左右に振ってみせる。「聞いたことはないかい? 特に何も変わったことはしていないのに、家の電球が勝手に割れたって話」
僕は眉根を寄せた。
とっさには思い出せないが、言われてみればそういう話をどこかで見聞きした覚えがある……気がしないでもない。
部長はなおも自説を開陳する。「電球や蛍光灯の類はけっこうデリケートな品だからね。たとえば
僕は何も言えなかった。
しばしの沈黙の後に口にできたのは、こんなつまらない問いだけだった。「……なんでそんなこと、知ってるんですか」
「この学校は長く過ごすには、あまりに退屈だからね。暇つぶしになりそうなことは、なんでも試してみたさ。時にはちょいと過激な実験も、ね」
いったい過去に何をしたというのか。
だが僕は、今回ばかりは素直に敬服せざるを得なかった。目から鱗が落ちた思いだった。昨日はあんなにおどろおどろしく見えた“しるし”に、かくもあっさりと説明がつくとは!
「だから言ったろ、風声鶴唳󠄂だって」僕の感嘆の視線に、部長は少し肩をすくめてみせただけだった。「想像してごらんよ。真っ昼間の教室で昨日と同じ事故が起こったら、どんな反応が起こるか。怪異だなんだと騒ぎになると思うかい?」
重々しく頷きながら、僕は答えた。「……ならないでしょうね。そんなことを言い出せば、ふざけてると思われるかよっぽどの臆病者と笑われるか、どちらかだ」
たぶん、授業は一時中断されるだろう。騒然となる生徒たち。怪我人の有無を確かめつつ「落ち着きなさい」とたしなめる教師。だがそれだけだ。たぶん十分もすれば、騒ぎは収まるだろう。あとはせいぜい、休み時間の雑談のタネとして消費されるのが関の山だ。平生ならば。
そう、平生ならば。
では翻って、昨日のシチュエーションはどうだったか?
──薄暗い夕暮れ時の教室。ゆらめくキャンドルの灯り。響き渡る読経の声。振り返るまでもない。他ならぬ僕ら自身が、異常な状況を作り出していたのだ。さながら自己催眠である。
「まぁ、仕掛人が蛍光灯にどんな細工をしたのかは、この際考えないことにしよう。調べようにも、君らは証拠の品たる残骸を捨ててしまったみたいだからね。それより知るべきは……」
何やら問いかけめいた沈黙に、僕はこう答えた。「誰がそれをやったか、ですか」
人差し指をこちらに突きつけて、部長はにんまりと笑った。「君もなかなかに探偵らしくなってきたじゃないか。さぁ、早速調べに行くよ」
「行くって、どこにです?」
「もちろん、事件現場たる地下教室にさ」そして勢いよく立ち上がった。「ぐずぐずしている暇はないぞワトソン君、ついてきたまえ」
僕はひっそりと嘆息した──まったく、この人ときたら、まるで爬虫類か深海魚だ。普段は日陰でじっと動かずにいるくせに、暇つぶしのネタを見つけるや否や、目にも留まらぬ速さで喰らいつくのだから。
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