幕が上がる
そっと嘆息する僕をよそに、田中先輩が袋を探りながら声を上げた。「さて、これから蝋燭を灯していくわけだけど……火を扱う以上、万が一の事態にもすぐ対処できるようにしておかなくちゃ。誰か、念のため、水を汲んで持ってきてくれる? バケツは廊下の流しの前」
そうして彼女が袋から取り出してみせたのは、マッチ箱だった。野羽高でも化学の実験なんかで使われている、オーソドックスなやつ。彼女が掲げたそれは、カラカラと軽やかな音を立てた。
吉川君は呼びかけを完璧に無視した。三神さんは「私、行ってきます」と声を上げたはいいものの、ほんの数歩も歩かないうちにつまずきかけ、足元のキャンドルを何本か巻き添えにした。結局須羽さんが、いささかうんざりしたような面持ちで取ってきてくれた。
バケツは出入り口の脇に設置された。すでにキャンドルでいっぱいの教室には、他に適切な置き場所がなかったのである。それだけ今回の儀式のために張られた“結界”は、大がかりなものであった。
そして、それはすべてのキャンドルを灯すのに多大な手間と、さっと火をつけられる道具がいることも意味していた。要するに、田中先輩が用意して下さったマッチなんかでは、到底間に合わなかったのである。
幾度かの擦り損ねと自分の指先を炙りかける失敗を経て、僕たちはたちまちそれを使い果たしてしまった。
「で、どうすんの」三分の一、いや十分の一も火が灯っていない、なんとも頼りない結界を見下ろしながら、吉川君が小馬鹿にしたような声を上げた。「火が足りないから降臨できません、とでも言い訳するつもり?」
須羽さんがすぐさま反駁する。「少しはその頭を、文句を言う以外のことで働かせたら? もう点いてるろうそくから、火を移せば済む話でしょ」
なるほど、その手があったか。
素直に感心する僕をよそに、吉川君は眉を吊り上げた。「はぁ? お前にそんなこと言われる筋合いないんですけど。だいたい、なんでマッチなんだよ。百円ライターでも持ってくりゃ済んだ話じゃねえか」
「そんなもの、学校のどこにあるっていうのよ」
「知らねぇ。コンビニででも買ってくりゃいいんじゃないの?」
「だったら、あんたが今すぐ買ってきなさいよ。ほら早く」
「だから、なんで俺がそんなことしなきゃなんねぇの? 俺はそもそもこんな──」
「そうね、確かにこれは私の落ち度だわ」
またぞろ始まりかけた、口論と呼ぶのも憚られる言い争いを制したのは、当の田中先輩だった。
「吉川君の言う通り、ライターかチャッカマンを買ってくればよかったのよ。学校の中にあるもので済ませようとしたばかりに、こういうことになってしまった。それと、どうせマッチを調達するのなら、燃えさし入れも一緒に持ち出すべきだったよね。ごめんなさい」
さしもの吉川君も、先輩にかくも堂々と頭を下げられては、矛を収めざるを得なかった。どこか決まり悪そうに、あさっての方を向いてもごもごと言う。「ま、俺はどうでもいいんスけどね。もともとこんな実験、乗り気じゃなかったし」
「ただ、心配しないでほしい。このロウソクの目的は、あくまでも結界を張ることだから。最低限の光量さえ確保できれば、たとえ全部に火が点いてなくても問題ないと思う」
ほう、と感心したような声がした。
振り返ると部長が顎に手をあてて、何度も頷いていた。興味深いことを嗅ぎつけた時の癖だ。何かに気づいたようだが、いったい今の会話のどこからヒントを得たのだろうか?
しかしそんなことを訊いている暇はなかった。僕たちは話し合いの末に、六芒星の角の頂点にあたる位置に、火のついたキャンドルを配置した。
それで準備は一応すべて整った。
日はますます暮れてゆく。気づけばグラウンドに最後まで残って活動に励んでいた、サッカー部のかけ声も途絶えている。僕たちは準備だけで、ずいぶん時間を浪費してしまったのだ。
黄昏時の寒々しい地下教室に、キャンドルが暖色を添える。蝋が溶ける時特有の、甘く懐かしい記憶を刺激する匂い──思い出すのは小さな頃のバースデーケーキだ──が、あたりに立ち込める。
ほんの少しのすきま風にも身震いをする足元の小さな火の群れは、まるで命そのもののように儚げで、そして……明かりとするには、なんとも頼りなかった。
三神さんが須羽さんに囁く。「暗いね」
「そりゃまあ、所詮は蝋燭の明かりだもん……」そこまで言ったところで、須羽さんは急に眉根を寄せた。「まさかとは思うけど、怖いとか言い出さないよね?」
そのまさかだった。三神さんはまるで祈るように両手を合わせ、恥ずかしそうに小さく俯いた。「……電気、つけてもらってもいいかな」
「何言ってんの。ダメに決まってるでしょ」須羽さんの呆れ声が、教室に響く。「人工の光なんてつけたら、ここまでのお膳立てがみんなぶち壊しじゃない」
キャンドルだって立派な人工の光だろう……というツッコミはさておき。僕も須羽さんに同感だった。
確かにフットライトとして使うには弱すぎたが、しかし、それゆえに逢魔が時の教室に独特の雰囲気を醸し出してもいた。本当に何らかの魔物に逢えそうな、怪しく情緒的な雰囲気。写真を撮ってSNSにでも投稿したら、さぞかしたくさんの「いいね!」がつくだろう。そんなムードも、蛍光灯の無機質な白なんかを添えてしまったらおじゃんではないか。まるで上質な水彩画にラッカースプレーを吹きかけるが如き所業だ。
それに、腰を痛くしてまでキャンドルを並べ切った僕らの努力も、マッチをめぐる須羽さんと吉川君の言い争いも、なんだったんだということにもなる。
「どうでもいいよ。さっさと始めろよ」吉川君がぼやく。その手には三神さんから預かったローブが握られていた。今からそれを着せられるのが、嫌でたまらない様子だ。
同意を求めるように、須羽さんが田中先輩の方を向く。
だが意外にも、田中先輩は三神さんの肩を持った。「そうね、電気をつけましょう」
「ええっ、なんでですか」
「さっきも言ったでしょう。こうして火を扱っている以上、私たちは万が一の事態にもすぐに対処できるようにしておかなくちゃ。何かの間違いで燃えやすいもの、たとえばカーテンにでも引火した時に、真っ暗な環境ですぐに適切な行動をとれるかしら?」
「でも……」
「忘れないで。私たちは今の時点でも、すでに危ない橋をずいぶん渡ってしまっているの。なにしろ校内で無許可の集会を開いて、無断で教室を開けて、あまつさえ火まで焚いているんだからね。これでもしものことがあったら、生徒指導室での厳重注意程度じゃ済まないんだよ」
こうまで言われてしまえば、気の強い須羽さんも口を噤まざるを得ない。下唇を噛んで膨れっ面を作る後輩に、しかし先輩は優しかった。ほんの少し口元を緩め、穏やかな口調で宥める。
「安心して。ミドウサマは電気の有無なんかで気分を損ねて出てこなくなるほど、けちな怪異じゃないから。さぁ、もうじき最終下校時刻になる。巡回の先生が来る前に、とっとと白黒つけよう」
その言葉を合図に、僕たちはそれぞれ所定の位置についた。シャーマン役の吉川君は六芒星の中心をなす六角形の内側に、僕ら参加者は結界の外側に。
電気をつけてくれたのは三神さんだった。彼女は今度はよろめかずに、電灯のスイッチまで辿り着けた。
思わずぎょっとするほどにどぎつい白光が、あたりの静謐な雰囲気をかき消す。
「先輩。そういえばここの鍵ってどうやって持ってきたんですか」壁に背をつけ、足元のキャンドルを避けるべくいわゆる体育座りをしながら、僕はふと気になったことを訊いた。
田中先輩は事もなげに、なかなかにとんでもないことを教えてくれた。「前日のうちにすり替えておいたのよ。今、職員室のボックスには、替え玉が収まってる。本物に瓜二つのプレートが取り付けられた、古び具合もそっくりな、どこのものとも知れない鍵がね」
「……大丈夫なんですか、そんなことして」
「さぁね。この儀式が済んだら、頃合いを見計らってまたすり替えておくわ」
なんともはや──驚き呆れる一方、僕はふと、先輩の言葉に引っかかりを覚えた。
またしても小さな違和感だ。痒いところがどこなのかわからないままに、むず痒さを感じているような苛立たしさ。独りになって、自分が何に引っかかっているのか黙考したいところだったが、もちろんそんな暇はなかった。
両頬を小さく張って、気持ちを切り替える。
吉川君のローブ姿は、なかなかさまになっていた。見るからにやる気のなさそうな顔をしていなければ、そして袖が余りすぎていなければ、立派なファンタジー世界の住民に見えただろう。
いささか大きすぎるフードを被りつつ、彼は気のない声を上げた。「始めるぞ」
全員が頷いた。フン、とせせら笑うように鼻を鳴らすと、吉川君は十円玉の上に左手の人差し指を置いた。そして唸るように言った。「ミドウサマ、ミドウサマ。どうぞお越しくださーい」
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