51話
雲一つ無い晴天の下、建物の影がすっかり短くなった昼下がり。
取引の日を間近に控えたアルギスとマリーは、宿の用意した馬車へと乗り込み、数多の人々が行き交う娯楽街の大通りを進んでいた。
(……おかしい。普段なら、もっと外に出ているはず)
向かいで腕を組みながら瞼を閉じるアルギスに、マリーは釈然としない様子で、探るような目線を向ける。
というのも、この2日の間、アルギスは部屋へ籠もったきり、一切宿の外へ出ようとしなかったのだ。
予想と食い違う行動に戸惑いつつも、マリーはゴクリと唾を飲んで口を開いた。
「あの……」
「なんだ?」
遠慮がちな声を上げるマリーに、アルギスは瞼を閉じたまま、素っ気ない態度で聞き返す。
他方、まじまじとアルギスの顔を見つめたマリーは、不安げに眉根を寄せながら、上体を前に倒した。
「何か、問題がございましたか……?」
「今はない。問題があるのは、この後だ」
後へ続いた問いかけに目を開けると、アルギスは組んでいた腕を下ろして、真顔で首を振り返す。
しかし、程なくため息交じりに伏せられた顔には、隠しきれない不快感が滲み出した。
「それは、一体……?」
苛立ちを抑え込もうとするアルギスに、マリーは額へ汗を浮かべながら、恐る恐る質問を重ねる。
「忘れたのか?ここへ来た理由を」
声のトーンを落としたアルギスは、馬車を操縦する御者の背中を一瞥して、席から身を乗り出す。
すると直後、これまで神妙な面持ちで返事を待っていたマリーは、大きく目を見開きながら固まった。
「……失礼、致しました」
「思い出したな?……指定された日時は、今夜だそうだ」
肩を縮こまらせて、どうにか声を絞り出すマリーに対し、アルギスは眉一つ動かさずに言葉を続ける。
しばし、2人の間に馬車が地を駆ける音だけが響く中。
短く息を吐き出したアルギスは、凝り固まった首を捻って、ゆっくりと座席に体を預けた。
「二手に分かれて動くことになる。お前も、相応の覚悟をしておけ」
「えぇ!?」
ついでとばかりにアルギスが指示を出すと、マリーは背筋をピンと伸ばしながら叫びを上げる。
忙しなく目を左右へ揺らすマリーに対し、アルギスは眉を顰めながら、唇へ人さし指を当てた。
「声を落とせ。無駄に御者の気を引きたくない」
「……申し訳ありません」
アルギスの叱責に頭を下げたマリーは、落ち着きを取り戻しながらも、すかさず背後を見やる。
程なく、マリーが安堵した様子で前を向き直ると、アルギスは再び腕を組みながら目を瞑った。
「……詳しい話は食事の後にでもしてやる。今は、落ち着いて店に着くのを待っていろ」
「承知致しました」
苦々しい表情で指示を付け加えるアルギスに、マリーは居住まいを正して、粛々と頭を下げ直す。
しかし、毅然とした態度の裏へ隠れる内心には、荒れ狂う不安が波のように押し寄せていた。
(ど、どうしよう……私のせいで失敗、なんてことになったら……)
最悪の事態を想像したマリーがブルブルと身を震わせる一方。
2人を乗せた馬車は、速度を落とすことなく、間を開けて並ぶギルドハウスの前を抜けていく。
やがて、馬車が大通りの角を曲がると、マリーは暗い考えを頭の隅へ押しやって、幾分小ぶりな建物の増えた通りを見渡した。
「……あれ?」
「今度は、どうした?」
消え入るような呟きに目を開けたアルギスは、疲れを滲ませながら、窓の外を眺めるマリーへ声を掛ける。
正面を向いたまま返事を待つアルギスに対し、マリーは顔を強張らせながら、窓越しに馬車の後方を指さした。
「大変不躾ながら、あちらをご覧頂ければ……」
「む?」
慌てた様子のマリーに首を傾げつつも、アルギスは後ろを振り向いて、窓の奥を覗き込む。
2人が揃って目を向けた馬車の後方では、腕で顔を覆った獣人の女が、土埃に塗れながら通りの脇で寝転がっていた。
「確かに、こちらへ来て地面に伏せる奴は初め見かけたな。だが、それだけか?」
「……あの者は、交易街の関所にて拘束された商人です」
不思議そうな顔で目を瞬かせるアルギスに対し、マリーは表情を曇らせながら、外を指さしていた手を下ろす。
そして、膝の上へ置いた拳を握りしめると、口を貝のように閉じて、心苦しげに俯いた。
(ごめんなさい……。私では、貴女へ何も――)
「……馬車を、止めさせろ」
しかし、マリーの態度に顔を顰めたアルギスは、脇においていたマスクを手に取りながら、仏頂面で声を上げる。
再び馬車の後方を眺めだすアルギスに、マリーは目を丸くして、顔を跳ね上げた。
「よ、宜しいのですか?」
「言っただろう?我々は暇じゃないんだ。さっさとしろ」
うんざりとした表情で首を縦に振ると、アルギスはへの字に折れ曲がった口元をマスクで覆い隠す。
一方、パッと雰囲気を明るくしたマリーは、頬を紅潮させながら、勢いよく頭を下げた。
「かしこまりました!」
すぐさま後ろを振り返ったマリーの指示に、御者は手綱を引いて、馬車の動きを緩慢なものへと変える。
やがて、馬車が通りの脇で動きを止めると、2人はそそくさと外へ出て、遠ざかっていた商人の下へと向かっていくのだった。
◇
馬車の進んだ道を戻り始めて数分。
屋根付きの窓口がついた店の前へとやってきた2人は、猫のような耳を萎れさせて頭を抱える獣人の女を見下ろしていた。
「もう、全部終わりだぁ、これで破滅なんだぁ……」
(いくら約束をしたとはいえ、こんなのに話しかけなきゃならんとは……)
泣き言を言いながら額を地面へ叩きつける女に、アルギスは肩を落として、憂鬱な表情を浮かべる。
しばしの間、揃って2人が声をかけあぐねていた時。
突如目線を上げた女が、涙を零しながら、2人へ向かって地面の砂を投げつけた。
「うぅぅ、見るなぁ!獣人の苦しんでるとこが、そんなに面白いかぁ!」
「おい……」
「あ、あの!私たちは貴女を手助けしようと……!」
苛立たしげにローブの土を払うアルギスに対し、マリーは急き込むように声を上げながら、地面へ膝をつく。
しかし、2人の姿を見比べた女は、顔を真っ赤にしながら、マリーの後ろへ経つアルギスに指先を突きつけた。
「そんなこと言って、どっかに売っぱらう気だろ!知ってるんだぞ!」
「ま、まさか!そんなわけ無いでしょう!」
あまりにも無遠慮な物言いにギョッと目を剥くと、マリーは女の腕を掴みながら、慌てて指を下げさせる。
憮然とした面持ちでため息をつくアルギスをよそに、2人は声を荒げながら言い争い始めた。
(……埒が明かん)
暫くの間、黙って様子を眺めていたアルギスは、痺れを切らして、言い合いを続ける2人の間へ割り込む。
そして、フードを外しながら地面へしゃがみ込むと、後ずさる女の顔を覗き込んだ。
「なぜ、こんなところに座り込んでいるんだ?」
「そんなの、どうせ話したって……」
穏やかな口調で声をかけるアルギスに対し、女はいじけたように、抱きかかえた膝へ顔を埋める。
マリーが気を揉みながら様子を見守る中、アルギスは立ち上がりたい衝動を抑えて、女の肩へそっと手を置いた。
「答える気がないのなら、そう言ってくれればいい。それで、我々は去る」
「……もう、1ヶ月近くも前の話だけどさ――」
アルギスの言葉に抱えていた膝を崩すと、女はグシグシと涙を拭って事情を話し出す。
なんでも、ロルクの駐屯地から開放される際に罰金を払えず、代わりに持ち込んでいた商品を差し押さえられたというのだ。
血も涙もないロルクの制裁に、アルギスは頬を引きつらせながら、内心で頭を抱えた。
(……流石、戒位だ。対応に一切容赦がない)
「商品がなきゃ、金も稼げない。金が稼げないと商人札の更新も……う、うぅぅ」
次第に声を震わせだした女は、ポタポタと地面へ涙を零しながら、話を途切れさせる。
1人蹲る女から目を逸らすと、アルギスはゆっくりと立ち上がって、背後のマリーへ顔を向けた。
「……マリー」
「はい……」
疲れ切った様子で声を上げるアルギスに、マリーはしょんぼりと項垂れながら頭を下げる。
しかし、再度女の姿を見下ろしたアルギスは、表情を引き締め直して、片手を差し出した。
「仕方がない。手紙の用意をしろ」
「っ!かしこまりました」
思いがけないアルギスの指示に息を呑むと、マリーは即座に影の中から艶のある便箋と大振りな木箱を取り出す。
未だ嗚咽を漏らす女を尻目に、アルギスは渡された便箋とペンを左手に持ち替えて、くるりと右手の指を回した。
「背中を貸せ」
「は、はい」
躊躇いつつもアルギスへ背を向けたマリーは、蝋の溶けた金属製の鉢を手に、腰をかがめて動きを止める。
マリーの背中へ便箋を押し付けたアルギスがペンを走らせ始めると、これまで泣き崩れていた女は、不意に顔を上げて、2人へ胡乱な目を向けた。
「……何してんの」
「お前の名は、なんだ?」
不貞腐れた顔で睨む女に対し、アルギスは便箋へ目を落としたまま名前を尋ねる。
有無を言わさぬ態度に目を白黒させつつも、女はポリポリと頬を掻きながら口を開いた。
「ユウラだけど……」
「そうか」
再びサラサラとペンを滑らせたアルギスは、ペンと入れ替えるようにマリーから封筒を受け取る。
ややあって、インクの乾いた便箋を封筒へ収めると、鉢から垂らした蝋でフラップを固めた。
「多少不格好だが、まあ、これでいいだろう」
「なんだ……手助けなんて言って。こんな手紙1枚貰ったところで……」
差し出された無地の封筒に、ユウラは落胆した様子で肩を落とす。
しかし、周囲を見回したアルギスは、気にした様子もなく、地面へ封筒を放り投げた。
「あと2ヶ月程経ったら、それを持ってソラリア王国の王都へ来い」
「へぇ、この手紙に、わざわざそんなとこまで行くほどの価値が――」
目の前に落ちた封筒を拾い上げると、ユウラは土埃を払って、蝋で固められたフラップへ手をかける。
すぐさま封筒を開けようとするユウラの手を、アルギスは再びしゃがみ込んで差し止めた。
「おっと、今は開けるなよ?一度でも封を切れば、その手紙に意味は無くなる」
「……これ、一体なに書いてあるわけ?」
含みのある口ぶりに顔を顰めたユウラは、持っていた封筒を高く掲げて太陽へ翳す。
ユウラがどうにか中身を確認しようとする傍ら、アルギスは立ち上がって、通りの脇へ止まったままの馬車へ足を向けた。
「王都の門兵に封を切らせろ、その時にわかる。では、我々はこれで失礼」
「失礼しますね」
「ちょちょちょちょ、ちょい!」
話は済んだとばかりに立ち去ろうとする2人に対し、ユウラは大慌て封筒を仕舞って、アルギスの足元へと縋り付く。
一方、がっしりと足首を掴まれたアルギスは、一度目頭を抑えて、ゆっくりと目線を下向けた。
「……まだ、なにか?」
「あの、何か、食べられるものとか……この数日、残飯しか食べてなくて……」
うんざりとした表情でアルギスが口を開くと、ユウラは卑屈な笑みを浮かべながら、2人の顔を交互に見比べる。
忙しなく視線をマリーへ行き来させるユウラにため息をつきつつも、アルギスはゴソゴソとポケットを漁って、唯一見つけた”金貨”を取り出した。
「……これをやる。いくらになるか知らんが、食事代くらいにはなるだろう」
「へ?な!?そ、そそ”ソレムニア金貨”!?」
アルギスの持つ金貨にポカンと口を開けたユウラは、刻まれた意匠に血相を変えて足元から飛び退く。
しかし、息もつかずに再びにじり寄ると、地面に両膝をつきながらアルギスのローブを掴んだ。
「よろしいんですか!?もう、何も担保とか無いんですけど!」
「ああ。直ちに立ち去るというのなら、このまま渡そう」
一転してキラキラと目を輝かせるユウラに、アルギスは睨みを利かせながら金貨をちらつかせる。
しかし、金貨だけを見つめていたユウラは、怯える様子もなく、胸の前で手を組みながら幾度も頷いた。
「すぐ消えます!約束します!」
「はぁ……」
必死の形相で首を振るユウラへ、アルギスは何度目になるかわからないため息をつきながら金貨を渡す。
そして、側へ控えていたマリーを横目に見やると、馬車へ向かって顎をしゃくりあげた。
「……行くぞ」
「はい!」
トボトボと前を歩きだすアルギスに対し、マリーは満面の笑みを浮かべながら、跳ねるように後を追いかける。
「ありがとうございます!ありがとうございます……!」
泣き崩れるユウラの下を去った2人は、足並みを揃えて、御者の待つ馬車へと戻っていった。
(……まあ、たまには人助けもいいか)
嬉しげなマリーの横顔に肩を竦めると、アルギスは口元を緩めながら、僅かに足取りを軽くする。
しばらくして、2人の乗り込んだ馬車は、止まることなく、通りをひた進んでいくのだった。
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