36話

 ディズモールへと辿り着いた翌日の朝。


 夜通し宴会の続いた酒場には、ぐぅぐぅといびきを立てるブラッドの姿があった。



「ふわぁ……ここは、どこだ?」



 大きな欠伸と共に机から顔を上げたブラッドは、寝ぼけ眼で強い酒精の匂いが残る室内を見回す。


 蓋の外れた空の樽は壁の端に寄せられ、食べ残しの転がっていたはずの机は、綺麗に片付けられていた。


 

「よう、起きたか、兄ちゃん」



「ん?ああ、そうか。おはよう、おっちゃん」



 カウンターの奥から声を掛ける店主を目に留めると、ブラッドは顔を綻ばせながら、席を立ち上がる。


 コートを羽織りながら覚束ない足取りで近づいてくるブラッドに、店主は片手を挙げて、ニカリと笑い返した。


 

「いやぁ、昨日はごちそうさん。代わりにもならんが、こいつはサービスだ」



「おお!わりぃな」



 ドカリと椅子へ腰掛けたブラッドは、並々と注がれたスープを、迷わず胃に流し込む。


 それからややあって、すっかり空になったどんぶりをカウンターへ置くと、思い出したように口を開いた。


 

「おっちゃん、今、何時だ?」



「あん?そうだな……少し前に2度目の鐘が鳴ったから……」 



 ブラッドの問いかけにカップを仕舞う手を止めると、店主は視線を上向けながら、ボソリと独りごちる。


 しかし、店主の呟きを耳にしたブラッドは、カウンターへ手をついて、勢いよく席から立ち上がった。



「まずい!」



「お、おい。急にどうしたんだよ」



 焦りの滲んだブラッドの叫びに、店主は目を丸くして、カウンターの奥から出てくる。


 不思議そうな顔で店主が様子を伺う中、ブラッドは頭を抱えながら、背中を丸めてカウンターへ突っ伏した。



「約束があったんだ。すっかり忘れてた……」



「大丈夫か?」



 絞り出すような返答に眉を曇らせると、店主は気遣わしげな声を上げながら、ブラッドの肩へ手を掛ける。


 しかし、ヨロヨロとカウンターから起き上がったブラッドは、コートのポケットへ手を突っ込みながら、首を横へ振った。



「……まあ、とりあえず代金だな」



「白金貨!?」



 ブラッドがカウンターへ置いた硬貨に、店主は目を見開きながら、調子の外れた声を上げる。


 店主が我に返って口元を押さえる傍ら、ブラッドはガシガシと頭を掻いて、横目に出口を見やった。


 

「釣りはいらねぇ。そうしろって言われてんだ」



「でもよぉ、ほんとにいいのか?」 



 ぶっきらぼうなブラッドの態度に躊躇いながらも、店主は恐る恐る、カウンターで輝く白金貨を取り上げる。


 すると、店主の肩を軽く小突いたブラッドは、くるりと体の向きを変えて、おもむろに出口へ駆け出した。

 


「じゃ、またな!酒と飯、美味かったぞ!」



「おいおい!待てって!」



 扉の前で立ち止まったブラッドへ、店主は思わず手を伸ばしながら声を掛ける。


 しかし、制止の声も虚しく、ブラッドの姿は勢いよく開かれた扉の奥へ消えていった。



(時間的には、もうとっくに出ちまってるよなぁ……)



 酒場を飛び出したブラッドは、すっかり高くなった陽を見上げながら、人の増えた通りの端を早足で進んでいく。


 しかし、大通りへ出たところで革鎧を纏う若い男とすれ違うと、踵を返して背中を追い掛けた。 

 


「なあ、そこのアンタ」



「あ?なんだ?」



 背後から呼びかける声にピクリと肩を上げつつも、男は足を止めて、後ろを振り返る。


 じっと訝しげな視線を送る男に対し、ブラッドは落ち着かない様子で、人の行き交う大通りへ顔を向けた。



「この辺りを、貴族の馬車が通ったりしなかったか?」 



「ああ、俺は見てねぇけど朝早くになんかあったらしいな」 



 ブラッドに釣られて大通りを見やると、男は気楽な返事と共に肩を竦める。


 一方、大通りから目を逸らしたブラッドは、予想通りの状況に、がっくりと項垂れた。

 


「……なるほどな。教えてくれて、ありがとよ」



「なに、大したことじゃねぇ。気にすんな」 



 力なく片手を挙げるブラッドに、男は気にした様子もなく、笑顔で手を振り返す。


 そして、そのまま前を向き直ると、街ゆく人の流れに紛れ込んで去っていった。

 


「くっそー、なんて冷たい連中なんだ……」



 男と別れたブラッドは、ブツブツと愚痴を零しながらも、再び駆け足で大通りを抜けていく。


 次第に通りの幅が狭くなる中、人の流れを掻き分けて、真っ直ぐ防壁の門扉へと向かっていくのだった。


 


 ◇ 

 


 時は流れ、太陽もとうに頂点を超えた頃。


 レイチェルとシグナだけを乗せた馬車は、丘陵沿いの緩やかな斜面を、ゆったりとした速度で進んでいた。



(あと、どの程度で着くのかしら……)


 

 窓の奥を見つめたレイチェルが近づき出したソーンダイク領へ思いを馳せる一方。


 向かいに座るシグナは、険しい表情で顔を俯かせていた。



「……あの者は、宜しかったのですか?」



「ええ。遅れたら置いていくと、そう言ったもの」



 遠慮がちに声を上げるシグナに対し、レイチェルは窓へ目を向けたまま、バッサリと切り捨てる。


 しかし、一層背中を丸めたシグナは、レイチェルを上目遣いに見つめながら、再び小さく口を開いた。



「ですが、あの様子では……」 



「ここは貴族派の領地よ。あのコートがあれば、そうおかしなことにはならないわ」



 食い下がるシグナに顔を向け直すと、レイチェルは穏やかな笑みを湛えながら言葉を返す。


 諭すようなレイチェルの返答に、シグナは表情を明るくして、納得とばかりにポンと手を打った。



「それも、そうですね」



「それじゃ、話は終わりね」



 聞き分けの良いシグナに笑みを深めたレイチェルは、何事も無かったかのように、話を切り上げる。



「失礼致しました」 



 レイチェルが窓の外へ目線を向ける中、シグナは膝に手を置いて、深々と頭を下げた。



(ふぅ……これで、やっと落ち着いた旅になるわ) 



 ピタリと動きを止めるシグナをよそに、レイチェルは流れていく景色を眺めながら、こっそりと息をつく。


 しかし、それから1時間あまりが過ぎた頃。


 動きを止めることなく進んでいた馬車が、徐々に速度を落とし始めた。



「あら?」



 程なく、馬車が完全に動きを止めると、レイチェルは不思議そうな顔で車内へ目線を戻す。


 一方、即座に馬車の扉を開けたシグナは、脇へ置いていた剣を手に、踏み固められた地面へと足を下ろした。


 

「何事だ?」

 


「いえ、実は……」 



 周囲を見回すシグナの下へ駆けてきた騎士が口を開こうとした時。


 馬車の前方を護衛する騎士たちの奥から、どよめきが広がりだした。


 

「――どけ!この野郎!」


 

(まさか……) 


 

 遠くから聞こえてきた怒鳴り声に片眉を上げたレイチェルは、頬を引き攣らせながら、馬車の外へ顔を覗かせる。


 すると程なく、憮然とする騎士たちの間を割って、額に青筋を浮かべたブラッドが姿を現した。

 


「おう!やってくれたな!」



「……どういう、つもりですか?」



 ズカズカと馬車へ近づいてくるブラッドに、シグナは腕を組みながら、苛立ちを込めた視線を投げかける。


 しかし、馬車の屋根へ手を掛けたブラッドは、腰を曲げて、見下ろすようにシグナを睨み返した。


 

「どうもこうもねぇ。置いていかれたから、追いかけてきたんだ」



「……レイチェル様、如何されますか?」 



 不遜な態度に眉間の皺を深めると、シグナは不快感の滲んだ声で、馬車の中にいるレイチェルへ尋ねかける。


 ピリピリとした雰囲気に包まれる2人へため息をついたレイチェルは、呆れ交じりに視線を行き来させた。



「このまま止まっているわけにもいかないわ。とりあえず、乗せなさい」



「……承知しました」



 未だ胸中に怒りを燻らせつつも、シグナは粛々と頭を下げて、レイチェルの待つ馬車へ乗り込む。


 静かにレイチェルの隣へ腰を下ろすシグナに対し、続いて馬車へ乗ったブラッドは、向かいの席へどっかりと座り込んだ。



「はあ、まったく。本当に置いていきやがって」 


 

「そう、伝えていたはずだけれど?」



 大きな声で愚痴を吐き捨てるブラッドへ、レイチェルはどこ吹く風とばかりに切り返す。


 小首を傾げるレイチェルに顔を顰めると、ブラッドは席から身を乗り出して、2人の顔を見比べた。



「だとしても、もう少し待つとかあるだろ。結構走ったぞ」



「アルギス様からも、途中で置いていって構わないと指示を受けているもの」



 言い募るブラッドに微笑み返したレイチェルは、以降ピタリと口を噤んで、会話を途切れさせる。


 ややあって、ゆっくりと馬車が動き出す中、ブラッドは不貞腐れた表情で窓枠へ寄りかかった。



「……そうかい。似たもん同士、仲がいいこって」



「似ている?私と、あの人が?」



 ブラッドが話し切るが早いか、レイチェルは被せるように再び声を上げる。


 背もたれから身を起こすレイチェルへ、ブラッドは顔を歪めながら、苛立ち交じりに手を払った。


 

「ああ。指示を出す方が出す方なら、聞く方も聞く方だ」



「そう……」


 

 不満げなブラッドの言葉をレイチェルが頷きながら噛みしめる傍ら。


 2人のやり取りを黙って聞いていたシグナは、耐えきれなくなったように横を振り向いた。


 

「処分は、如何されますか?」



「……今回は、不問とするわ」 



 険しいシグナの視線をひしひしと感じつつも、レイチェルはブラッドから目を逸らして、背もたれに寄り掛かる。


 そのまま黙り込むレイチェルに、シグナは怪訝な顔で首を傾げた。


 

「よろしいのですか?」



「ええ。ただし、許すのは一度だけよ。もし、またこんなことになれば、次は必ず捨てていくわ」



 困惑するシグナの前に人差し指を立てたレイチェルは、淡々とした口調で指示を付け加える。


 程なく、チラリと流し目を向けるレイチェルへ、ブラッドはバツの悪い表情を隠すように頭を下げた。



「……悪かった。もうしねぇ」



「へ……?」 



(アルギスだったら、一度くらいは許すわよね……?)


 

 ポカンと口を開けるシグナをよそに、レイチェルは自らの判断に1人頭を悩ませる。


 しかし、暫くして窓から傾き出した陽の光が目に入ると、悶々とした気持ちを振り払うように、目を瞑るのだった。

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