行持

 仏祖の大いなる道には必ず無上の修行の保持が有る。

 道は環に成っていて、断絶しない。

 心する事、修行、覚、心の寂滅の間には少しの隙間すきまも無い。

 修行の保持の道は環に成っている。

 このため、自らの強引な行いではない。

 他からの強引な行いではない。

 心を汚染させないための修行の保持である。

 修行の保持の功徳は、自分に保持させ任せるし、他者に保持させ任せる。

 その主旨は、自分の修行の保持は功徳を天地の全てにこうむらせる。

 他者も知らずに、自分も知らずに、自分の修行の保持は功徳を天地の全てにこうむらせる。

 このため、諸々の仏祖の修行の保持によって、私達の修行の保持が形成されて現されて、私達は大いなる道に通達するのである。

 また、私達の修行の保持によって、諸仏の修行の保持が形成されて現されて、諸仏は大いなる道に通達するのである。

 私達の修行の保持によって、修行の保持の道は環に成っている功徳が有る。

 私達の修行の保持の道は環に成っている功徳によって、仏から仏へ、祖師から祖師へ、仏は存在し、仏ではない仮の姿をとり、思いやり、仏に成り、断絶しないのである。

 修行の保持によって、太陽と月と星々は存在し、大地と虚空は存在し、身体が依り所とする環境としての報いである「この世」と過去の行いの正に報いである身心は存在し、「地水火風」という「四大(元素)」と「色受想行識」という「五蘊」は存在する。

 修行の保持は世の人が愛し好む所の物ではないが、諸々の人が充実して帰る所の物である。

 過去、現在、未来の諸仏の修行の保持によって、過去、現在、未来の諸仏は形成されて現されるのである。

 修行の保持の功徳は時には隠れないので、心し、修行する。

 修行の保持の功徳は時には現れないので、見聞きしたり、覚知できない。

 「修行の保持の功徳は、現れなくても、隠れない」と学に参入するべきである。

 修行の保持の功徳は見え隠れや生死によって汚染されないので、私を形成して現す私の修行の保持が今は隠れている時に、(私の修行の保持の功徳を現すのを含む)全てのものを起こさせる、どんな因縁が有って私は修行を保持するのか会得できなくても、私が修行の保持を会得するには更に新しい特別なものは不要である。

 「全てのものを起こさせる因縁とは修行の保持である。(修行の保持以外のものによって)修行の保持は起こさせられないからである」と明確に詳細に鍛錬して学に参入するべきである。

 他者の過去の修行の保持を形成して現している修行の保持とは、私達の今の修行の保持である。

 修行の保持を今、形成して現しているが、自分がもとより存在させているわけではなく、自分に元より住んで存在しているわけではない。

 修行の保持を今、形成して現しているが、(修行の保持が、)自分に去来しているわけではなく、自分に出入りしているわけではない。

 「今」という言葉は修行の保持より先には存在しない。

 修行の保持が形成されて現されているのを「今」と言う。

 そのため、一日間の修行の保持は、諸仏の種であり、諸仏の修行の保持に成るのである。

 一日間の修行の保持によって諸仏は形成されて現され修行を保持させられるのに、修行を保持しないのは、諸仏を嫌い、諸仏に捧げものを捧げず、修行の保持を嫌い、諸仏と共に生き死にせず、諸仏と共に学に参入しない事に成ってしまう。

 今、華が開き、葉が落ちるのは、修行の保持が形成して現しているのである。

 三日月などに月が欠けるのは、修行の保持が形成して現しているのである。

 (原文の様に、三日月を「磨鏡」と呼ぶ場合が有る。「破鏡」は「月が欠ける」事を意味する場合が有る。)

 このため、修行の保持を差し置こうと思考するのは修行の保持を逃れようとする邪心を隠すためであり、「修行の保持を差し置くのも修行の保持である」と嘘をついて修行の保持に代えようとするのは、修行の保持を志すのに似ているけれども、真の父の家の故郷に財宝を投げ捨てて他国の地を踏み従う貧窮の子と成ってしまう。

 (

 原文の「跉」は「踏む」などを意味する。

 原文の「跰」は「従う」などを意味する。

 )

 他国の地を踏み従っている時の風や水が、たとえ身体(、肉体)の命を喪失させないといえども、真の父の財宝を投げ捨てるべきではない。

 真の父の法という財宝は、なおさら、誤って失われてしまう事が有る。

 このため、修行の保持は少しの間もきておこたらない事が法である。



 思いやり深い父である、大いなる師である、釈迦牟尼仏は、十九歳から奥深くの山で修行を保持して三十歳に至って大地と情の有る全ての生者と共に同時に仏に成った、という修行の保持が有る。

 八十歳の(肉体の)寿命に至るまで、なお山や林で修行を保持し、寺で修行を保持した。

 王宮に帰らず、国の利益を自分の物にせず、「布僧伽梨」という僧の三つの衣のうち一つの大衣を着る事を保持して存命中に一着だけで変えず、一つの器だけで存命中に変えず、(他人を救うために)一時も一日も独りに成らなかった。

 (縁を結ぶために)人や天人からの、どんな捧げものも断らず、道から外れた外道から悪口を言われる辱めを耐え忍んだ。

 一つの仏の化の導きは修行の保持であり、(縁を結ぶために)衣服や食べ物をもらう事も修行の保持である。



 初祖の摩訶迦葉は、釈迦牟尼仏の正統な後継者である。

 生前、もっぱら、十二頭陀の修行を保持しておこたらなかった。

 十二頭陀というのは、次の十二の修行である。

 (一)人のまねきを受けず、日々食べ物を乞う修行を行う。また、出家者の一食分の金銭を受け取らない。

 (二)山上で寝泊まりし、人の家、都市、村に泊まらない。

 (三)人によって衣服を乞わず、また、人が与えようとする衣服を受け取らず、墓地の死んだ人の物であった廃棄された衣服を直した物だけを着る。

 (四)野畑の中や樹の下で寝泊まりする。

 (五)一日に一食だけ食べる。「僧迦僧泥」とも呼ばれている修行である。

 (六)昼も夜も横に成らず、坐って睡眠し、歩く。「僧泥沙者傴」とも呼ばれている修行である。

 (七)三つの衣だけを所持し、余分な衣を所持しない。また、布団の中で横に成らない。

 (八)墓地に住み、寺の中に住まない。また、人の居る所に住まない。死んだ人の骸骨を目で視て、坐禅して道を探求する。

 (九)独りに成る事をほっして、人にまみえようとほっしない。また、人と共に横に成ろうとほっしない。

 (十)先に草木の果実を食べてから、他の食べ物を食べる。他の食べ物を食べ終わってから草木の果実を再び食べない。

 (十一)露地での野宿だけをほっし、樹の下の家で寝泊まりしない。

 (十二)肉を食べず、無上の美味と言われる現代では謎の乳製品の醍醐だいごを食べない。油を身体に塗らない。

 これを十二頭陀と言う。

 初祖の摩訶迦葉はく一生で不退転に十二頭陀の修行をした。

 初祖の摩訶迦葉は如来、釈迦牟尼仏から「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」を正式に伝えられても、この十二頭陀から退く事が無かった。


 ある時、釈迦牟尼仏は初祖の摩訶迦葉に「あなたは既に年老いている。他の僧が乞うてもらって来て分け与え合う食べ物を食べるべきである」と言った。

 初祖の摩訶迦葉は「私は、もし如来、釈迦牟尼仏の『この世』への出現に出会えなければ、独覚と成っていたでしょうし、存命中は山や林に居た事でしょう。幸いにも、如来、釈迦牟尼仏の『この世』への出現に出会え、法のうるおいを受けましたが、他の僧が乞うてもらって来て分け与え合う食べ物を食べるべきではないと思ってしまうのです」と言った。

 如来、釈迦牟尼仏は初祖の摩訶迦葉をほめたたえた。


 また、初祖の摩訶迦葉は十二頭陀の修行を保持していたため、姿形が痩せ衰えていたので、軽視する僧達もいたほどであった。

 時に、如来、釈迦牟尼仏は丁重に初祖の摩訶迦葉を呼んで座る場所の半分を譲ったので、初祖の摩訶迦葉は如来、釈迦牟尼仏の座に坐った。

 知るべきである。

 初祖の摩訶迦葉は釈迦牟尼仏の会の上座である。

 初祖の摩訶迦葉の生前の修行の保持について全てを挙げる事ができないほど多数の修行の保持が有った。



 十祖の波栗湿縛は、一生、脇を床につけて横に成らなかった。

 八十歳に年老いてから道をわきまえ始めたが、すみやかに(三年で)大いなる法を単一に伝えられた。

 時間をいたずらに無駄にらさなかったので、わずかに三年の鍛錬でも、正覚の正しくものを見る眼を単一に伝えられた。


 十祖の波栗湿縛は、母の胎内に六十年間いて、母の胎内から出た時には(零歳で)白髪であった。

 十祖の波栗湿縛は、死体の様に横に成らないと誓って実行したので、「脇尊者」と呼ばれている。

 十祖の波栗湿縛は、暗い中で手から光明を放って経を取った。

 これらは生まれながらに得た不思議なしるしである。


 十祖の波栗湿縛は、八十歳で、家を捨て袈裟を着(て出家し)た。

 城下町の少年等は十祖の波栗湿縛を非難して「波栗湿縛は、老いて衰えている愚かな男であり、(出家するとは、)ただ、ただ、何と浅はかな考えであろうか?!

出家者は二つのわざを修行する必要が有る。

一つには『定』を習い、二つには経を読み解くのである。

しかし、波栗湿縛は、老衰していて、進歩は無いだろう。

みだりに法という清流を汚し、いたずらに飽食するだけであろう」と言った。

 時に、十祖の波栗湿縛は、人からの悪口を聞いても(逆に)感謝して、自ら誓って「私は、もし、『経、律、論』という『三蔵』に分けられる経典のことわりに通じず理解できず、三界の欲を断てず、六神通を得られず、八解脱を備えられなければ、脇を床につけて横に成らない」と言った。

 それより後、十祖の波栗湿縛は、ただの一日もおこたらずに、歩いては坐禅し、留まって立っては思い量った。

 十祖の波栗湿縛は、昼は教えのことわりを習って研究し、夜は静かに思慮し精神をらした。

 三年が経って、十祖の波栗湿縛は、「経、律、論」という「三蔵」に分けられる経典の学に通じて理解し、三界の欲を断ち、三明六神通の知を得た。

 当時の人は、十祖の波栗湿縛を敬って「脇尊者」と呼んだ。


 十祖の波栗湿縛は、母の胎内に六十年いてから出た。

 十祖の波栗湿縛は、母の胎内で鍛錬が無かったであろうか?

 十祖の波栗湿縛は、母の胎内を出てから(八十年)後、八十歳に成ろうとする時に、初めて出家して道を学ぶ事を求めた。

 母の胎内に宿ってから百四十年後である。

 実に、十祖の波栗湿縛は、比類無く、誰よりも老衰していた。

 十祖の波栗湿縛は、母の胎内で年老い、母の胎内を出て年老いてから出家した。

 けれども、十祖の波栗湿縛は、人の悪口を無視して、誓い、願って、一心に不退転だったので、わずか三年を経てから、道をわきまえる事が形成されて現されたのである。

 誰が「賢者を見て、同じく、賢者のように成りたいという思い」をゆるめるであろうか? いいえ! 誰もが「賢者を見て、同じく賢者に成りたいという思い」をゆるめない!

 老衰を恨む事なかれ。

 この世の生は知り難い。

 生なのか? 生ではないのか?

 老いなのか? 老いではないのか?

 「人、魚、天人、餓鬼の見方は異なる」という「四見」自体が既に異なっており、諸々の種類の者の見方は異なる。

 ただ強い意思でもっぱらに修行して、道をわきまえる鍛錬をするべきである。

 道をわきまえて生死を見ると、生死は類似している、として学に参入するべきである。

 生死をわきまえて道をわきまえるわけではない。

 現代人が五十歳、六十歳、七十歳、八十歳に及んでも道をわきまえる事を差し置こうとするのは最悪の愚かさである。

 生まれて来てから、どれだけの年月が経ったと覚知しても、それは一時の人の精神の手段であり、道を学ぶ事情とは成らない。

 老衰を振り返る事なかれ。

 一心に道をわきまえる事を学び究めるべきである。

 十祖の波栗湿縛のように成るべきである。

 墓地に一つ積もるだけの土のちりと成る肉体を惜しむ事なかれ。肉体を振り返る事なかれ。

 一心に道を会得しなければ、あなたを誰が憐れむであろうか? いいえ! 一心に道を会得しなければ、あなたを誰も憐れまない!

 主(である魂)の無い形骸化した骸骨をいたずらに野に散らす時、正しくものを見る眼を作るように正しくものを見るべきである。



 三十三祖の大鑑禅師は、中国の新州の木こりであって、知識が有ったとは言い難かった。

 幼くして父を亡くし、老いた母に育てられて成長した。

 木こりの仕事を、養ってくれている母の生活の手段とした。

 十字路の街頭で経の一句を聞いた後、すぐに老いた母を(泣く泣く)置いて大いなる法をたずねた。

 これは世にもまれな大いなる器の人であり、抜群の、道をわきまえた人である。

 二十九祖の慧可の様に腕を切るのが、たとえ簡単だとしても、愛している人を置いて行くのは大いに難しいし、母の恩を置いて行き道に入るのは軽い事ではない。

 三十三祖の大鑑禅師は、黄梅の三十二祖の弘忍の会に身を投じて八か月間、眠らず、休まず、昼も夜も(他の僧のために)米をついた。

 三十三祖の大鑑禅師は、夜中に三十二祖の弘忍から衣と器を正式に伝えられた。

 既に法を会得した後も、なお八年間、(他の僧のために)石臼いしうすを負って歩いて米をついた。

 寺のおさの僧と成って、人を仏土へ渡して救うために法を説いている時でも、(他の僧のために)石臼いしうすによって米をつくのを差し置かなかったのは、世にもまれな修行の保持である。



 江西の三十五祖の馬祖道一は、坐禅する事、二十年に及んで、三十四祖の南嶽の懐譲からの心の印をひそかに受けたのである。

 三十五祖の馬祖道一は、法を伝えて人を救済する時、「坐禅を差し置く」とは言わなかった。

 (三十五祖の馬祖道一は、法を伝えて人を救済する時、坐禅をする様に必ず言った。)

 学に参入した人が初めて至った時には、必ず心の印をひそかに受けさせた。

 生活に必要な農作業や清掃といった作業場所には必ず先におもむき、老いてもきておこたらなかった。

 今の臨済宗は、江西の三十五祖の馬祖道一の流れをんでいる。



 三十七祖の雲巌曇晟は、道悟円智と、同じく、三十六祖の薬山惟儼の所で学に参入して、共に誓いを立てて、四十年、脇を床につけて横に成らず、一心に学に参入して究めた。

 三十七祖の雲巌曇晟は、悟本大師と呼ばれる三十八祖の洞山良价に法を伝えた。



 三十八祖の洞山良价は、「私は、一片のわずかな者にでも打ち成りたいとほっして坐禅して道をわきまえる事すでに二十年に成る」と言った。

 今、この言葉は、あまねく伝わっている。



 弘覚大師と呼ばれる三十九祖の雲居道膺は、昔、三峰庵に住んでいた時、天人に食べ物を捧げられていた。

 三十九祖の雲居道膺は、ある時、三十八祖の洞山良价の所に参って大いなる道を選び取り決意してから、三峰庵に帰った。

 天使と言える天人は食べ物を捧げるために祖師を探したが、三日経っても祖師を見る事ができなかった。

 三十九祖の雲居道膺は、天人からの食べ物を待ち望む事が無く、大いなる道をむねとしていた。

 大いなる道をわきまえて請け負う、三十九祖の雲居道膺の強い意思を想像するべきである。



 三十六祖の百丈の懐海は、昔、三十五祖の馬祖道一のそばで仕える侍者であった時から、死という夕べに至るまで、一日も他人のための奉仕に勤めない日は無かった。

 恐れ多い「一日、作業をさせてもらえなかったので、一日、食べずに抗議した」行跡を残したというのは、

三十六祖の百丈の懐海は、年老いてもなお、生活に必要な農作業や清掃といった作業で若い人と同じようにはげんでいたため、僧達は心を痛め、人々は憐れんでいたが、祖師は止めなかったので、ついに作業の時に作業の道具を隠して祖師に与えなかったら、祖師は、その日一日食べず、僧達の作業に加われなかった事を不満に思う意思を表明した。

 これを三十六祖の百丈の懐海の「一日、作業をさせてもらえなかったので、一日、食べずに抗議した」行跡と言う。

 千二百四十二年の中国に伝わり流れている臨済宗の奥深い家風ならびに諸方の禅寺の多くは、三十六祖の百丈の懐海の奥深い家風、修行を保持しているのである。



 鏡清の道怤が、寺院に住んでいた時、「土地神」と呼ばれる霊は祖師の顔を見る事ができなかった。

 (雑念といった)手がかりを得る事ができなかったからである。



 三平山の義忠は、昔、天人に食べ物を捧げられていた。

 三平山の義忠が師の大巓にまみえた後に、天人は三平山の義忠を探し求めたが、見る事ができなかった。

 (雑念といった手がかりを得る事ができなかったからである。)



 潙山の霊祐の兄弟弟子である、後大潙と呼ばれる長慶大安は、「私は二十年、潙山の霊祐の所に居て、潙山の霊祐の食べ物を食べ、潙山の霊祐の排泄物を排泄したが、潙山の霊祐の道に参入しなかった。ただ一頭の神の使いである牛、水牛を放し飼いにし得て、終日、外を回るのである」と言った。

 知るべきである。

 一頭の神の使いである牛、水牛(の様に、神の使いの様な長慶大安)は、二十年、潙山の霊祐の所に居る修行の保持によって放し飼いにし得たのである。

 長慶大安は、かつて、百丈の懐海の会の下で学に参入して来ているのである。

 静かに二十年間の様子を想像するべきである。

 忘れる時なかれ。

 たとえ潙山の霊祐の道に参入する人がいても、潙山の霊祐の道に参入しない修行の保持は稀である。



 観音院の趙州真際大師は、歳が六十一歳に成った時に、初めて、心して道の探求を志した。

 趙州真際大師は、水瓶と錫杖を携えて行脚し諸方を遍歴している時に、常に自ら「七歳の児童であっても、もし私よりも優れていれば質問する。百歳の老人であっても、もし私に及ばなければ教える」と言った。

 趙州真際大師は、「七歳の児童であっても、もし私よりも優れていれば質問する。百歳の老人であっても、もし私に及ばなければ教える」様にして南泉普願の道を学び会得する鍛錬は二十年に及んだのである。

 趙州真際大師は、歳が八十歳に至った時、初めて趙州の城東の観音院に住んで、四十年来、人と天人を化して導いた。

 趙州真際大師は、未だかつて、一包みの書をもって布施を求めなかった。

 趙州真際大師の観音院の堂は大きくなく、坐禅する場所である「前架」が無く、洗面器などを置く場所である「後架」が無かった。

 ある時、椅子イスの脚が折れたが、趙州真際大師は一つの焼き切れた焼き残りの木を縄によって椅子イスに結びつけて幾年月も経歴して修行していたので、寺で事務を司る「知事」の僧が椅子イスを新しい物に換えようとしたが、趙州真際大師は許さなかった。

 古代の仏と等しい趙州真際大師の家風を聴くべきである。

 趙州真際大師が趙州に住んだのは八十歳より後であり、法を伝えられてからである。

 趙州真際大師は、正しい法を正しく伝えられた。

 人々は趙州真際大師を「古代の仏と等しい」と言った。

 未だ正しい法を正しく伝えられていない人は、趙州真際大師よりも(尊重できず)軽い。

 未だ八十歳に至らない人は、趙州真際大師よりも強く健康であろう。

 壮年で(尊重できず)軽い私達が、どうして老年の尊重できる趙州真際大師といった人に及ぶであろうか? いいえ! 壮年で(尊重できず)軽い私達は、老年の尊重できる趙州真際大師といった人に及ばない!

 はげんで道をわきまえて修行を保持するべきである。

 趙州真際大師は、四十年間、俗世の財産を蓄えず、米といった穀物無しで常に過ごしていた。

 趙州真際大師は、クリの実とシイの実を拾って食べ物に当てたり、今日の分の食べ物を我慢して食べないで翌日食べたりした。

 実に、古代の、竜やゾウの様な高徳の僧の家風であり、恋慕するべき常日頃の行いである。


 ある時、趙州真際大師は、僧達に「あなたが、もし一生、寺や林を離れず(坐禅して)、五年間、十年間、話さなければ、あなたが『話せない人』であると人々は呼ぶ事ができず、諸仏も、あなたをどうにもできない」と言った。


 「あなたが、もし一生、寺や林を離れず(坐禅して)、五年間、十年間、話さなければ、あなたが『話せない人』であると人々は呼ぶ事ができず、諸仏も、あなたをどうにもできない」とは修行の保持を示しているのである。

 知るべきである。

 (坐禅して)五年間、十年間、話さない事は、愚かである事に似ているといえども、(坐禅して)寺や林を離れない鍛錬によって、話さないといえども、話せない人ではない。

 仏道とは、そういう物である。

 仏道の「声」、「言葉」を聞かない人には、話さないが話せない人ではない道理が有る訳が無い。

 そのため、修行の保持の無上に妙なる事は、(坐禅して)寺や林を離れない事である。

 (坐禅して)寺や林を離れない事は、(古い心身を)脱ぎ落とす事であり、全てが言葉である。

 無上に愚かな自分は、話せない人ではない事を知らず、話せない人ではない事を知らせない。

 無上に愚かな自分は、誰もさえぎって邪魔しなくても、話せない人ではない事を知らせないのである。

 話せない人ではない人に成るのを、どのように会得できるか、聞かず、知らないのは、憐れむべき自己を持つ人である。

 (坐禅して)寺や林を離れない修行を静かに保持するべきである。

 (この世という)東西の風に流されて左右される事なかれ。

 五年間、十年間の年月には、知る事ができなくても、音声や色形といった物を透過して脱ぎ落とす道が有る。

 音声や色形といった物を透過して脱ぎ落とす道の感得は、自分では知る事ができず、自分では理解する事ができない。

 修行を保持できる、わずかな時間を惜しんで修行を保持するべきである、と学に参入するべきである。

 話さない事を、むなしいと疑う事なかれ。

 (仏教の門の)出入りは、一つの、(坐禅して)寺や林を離れない事である。

 鳥の道(に例えられる坐禅)は、一つの、(坐禅して)寺や林を離れない事である。

 あまねく世界は、一つの、(坐禅して)寺や林を離れない事である。



 大梅山は中国の慶元府に有り、大梅山に護聖寺が建てられたのは、法常禅師が大梅山で修行を保持したからである。

 法常禅師は、中国の襄陽の人である。

 法常禅師は、かつて三十五祖の馬祖道一の会に参入して「仏とは、どのようなものでしょうか?」と質問した。

 馬祖道一は「即心是仏」、「正しい心が仏である」と言った。

 法常禅師は、「即心是仏」、「正しい心が仏である」という言葉の下で大いに悟った。

 そして、法常禅師は、大梅山の頂上に昇って、人と交流せず、草の屋根の小さな質素ないおりに独りで暮らした。

 法常禅師は、松の実を食べ、ハスの葉を衣にした。

 大梅山には小さな池が有り、大梅山の池にはハスが多かった。

 法常禅師が坐禅して道をわきまえたのは三十年余りに及んだ。

 法常禅師は、人の社会の事は全く見聞きせず、修行を保持した年数を全く覚えず、四方の山が緑色に成ったり黄色に成ったりするのをだけ見た。

 法常禅師が修行を保持した年月は、想像するに、気の毒に思うほど厳しい年月である。

 法常禅師は、坐禅では、八寸、約二十四センチの鉄塔一基を宝の冠を載せる様に頭の上に置いた。

 頭の上の鉄塔を地に落とさない様に鍛錬すれば、眠らないからである。

 法常禅師の鉄塔は、千二百四十二年現在、大梅山に有り、蔵の帳簿に記されている。

 法常禅師は、眠らない様に鉄塔を頭の上に載せて坐禅して、道をわきまえ、死に至るまできておこたらなかった。

 法常禅師が大梅山で眠らない様に鉄塔を頭の上に載せて坐禅して年月を経ていると、塩官斉安の会より一人の僧が大梅山に来て、大梅山に入って良い杖を探し求めていると、山の道に迷って、図らずも、法常禅師のいおりの有る所に至った。

 塩官斉安の会の僧は、期せずして、法常禅師にまみえて、「和尚様、法常禅師様、大梅山に住んでから今まで、どれだけの時が経ちましたか?」と質問した。

 法常禅師は、「ただ、四方の山が緑色に成ったり黄色に成ったりするのを見るのみです(。覚えていません)」と言った。

 塩官斉安の会の僧は、「山を出る道へは、どちらの方向に向かって行けば良いでしょうか?」と質問した。

 法常禅師は、「流れに従って行きなさい」と言った。

 塩官斉安の会の僧が、法常禅師を不思議に思い、帰って塩官斉安に話すと、塩官斉安は「その昔、江西の馬祖道一の会に居た時に、一人の僧をかつて見たが、その時より後、消息を知らない。消息不明の僧は大梅山の僧ではないであろうか?」と言った。

 ついに、塩官斉安は塩官斉安の会の僧に命じて法常禅師を招いたが、法常禅師は、大梅山を出ず、詩を作って、「(私、法常禅師という)砕けた枯木が寒い林に有る。

(私、法常禅師は、)幾度か春に逢ったが、心を変えなかった。

木こりは、(私、法常禅師という)砕けた枯木に遭遇しても顧みない。

大工が、どうして、苦しんで、(私、法常禅師という)砕けた枯木を追い求める事をでき得ようか? いいえ! しない!」と答えて、ついに、塩官斉安の会におもむかなかった。

 そして、法常禅師は、これより後、なお、山奥へ入ろうとして、詩を作って、「一つの池のハスの葉による衣は尽きる事が無い。

数本の樹の松の実は食べても余る。

世の人に、(私、法常禅師の)住んでいる所を知られてしまった。

更に、草の屋根の小さな質素ないおりを移して、(大梅山の)深い所に入る」と言って、ついに、いおりを山奥に移した。

 ある時、馬祖道一は、特別に、僧を大梅山の法常禅師の所に派遣して、「和尚様、法常禅師様、その昔、馬祖道一の会に参入して、馬祖道一にまみえて、どんな道理を会得して大梅山に住んでいるのか?」と質問した。

 法常禅師は、「馬祖道一は、私、法常禅師に向かって『即心是仏』、『正しい心が仏である』と言ってくれました。そして、大梅山に住んでいます」と言った。

 馬祖道一の会の僧は、「近頃の、馬祖道一の仏法は、(『即心是仏』とは、)違います」と言った。

 法常禅師は、「(近頃の、馬祖道一の仏法は、『即心是仏』とは、)どの様に違うのですか?」と言った。

 馬祖道一の会の僧は、「(近頃、)馬祖道一は、『非心非仏』、『仏とは、心でもないし、仏でもない』と言っています」と言った。

 法常禅師は、「あの老人(、馬祖道一)は、(思考させるために)他人をまどわして思考を乱す事を理解しなければいけない。

そのため、あの人(、馬祖道一)は、『非心非仏』、『仏とは、心でもないし、仏でもない』し、私、法常禅師は、ただ、ひたすらに、『即心是仏』、『正しい心が仏である』(。あの人は、あの人のやり方で他人を悟らせれば良いし、私は私のやり方で悟れば良い)」と言った。

 馬祖道一の会の僧が、法常禅師の言葉を馬祖道一に話すと、馬祖道一は、「梅の実が熟した(。法常禅師は熟達した)」と言った。

 この法常禅師の話は、人も天人も皆、知っている。

 天龍は、法常禅師の高弟である。

 倶胝は、(天龍の弟子であり、)法常禅師の法の子孫である。

 高麗の迦智は、法常禅師の法を伝えられて保持して、(三十七祖、)高麗の初祖と成った。

 高麗の諸々の祖師は、法常禅師の法の遠い子孫である。

 法常禅師の生前には、一頭の虎と一頭のゾウが、法常禅師に常にそばに仕えて、争わなかった。

 法常禅師の円満の死後、虎とゾウは、石を運び、泥を運んで、法常禅師の塔を造った。

 虎とゾウが造った法常禅師の塔は、千二百四十二年現在、大梅山の護聖寺に現存している。

 法常禅師の修行の保持は、古今の知識が有る人は皆、同じく、ほめる所である。

 智慧が劣っている者は、法常禅師の修行の保持をほめるべきであると知らない。

 名声と利益をむさぼって愛着する者の中に仏法者がいると強引に作為的に誤って思い量って見なすのは、思い量りの矮小な愚かな見解である。



 五祖山の法演禅師は、次の様に言った。


 (私、法演禅師の)師の師である、楊岐方会が、初めて楊岐山(の普明院)に住んだ時、屋根と、屋根の支えが老朽化していて、風や雨の弊害がはなはだしかった。

 冬の終わりの時には、殿堂は、ことごとく、古いために損壊した。

 中でも「僧堂」、「坐禅堂」が特に破損し、雪やあられが床に満ちていて、坐る所が無いほどであった。

 高齢の高徳の長老ですら、ゆきけし、うれいが有るかの様に眉間みけんしわが寄るほどであった。

 そのため、僧達は坐禅する事が困難であった。

 そこで、僧達が(坐禅堂の雪に)降参して(坐禅堂の)修繕を楊岐方会に請い願ったら、楊岐方会は却下して次の様に言った。


 釈迦牟尼仏は次の様に言った事が有る。

 時は「減劫」、「正しい心などが減衰する時代」に当たるし、高い岸や深い谷ですら変遷して常には存在しない。

 どうして円満に思い通りに自らが満足できる事を求め得ようか? いいえ! 円満に思い通りに自らが満足できる事を求める事はできない!


 古来から、聖者の多くは、樹の下や露地で、坐禅し、坐禅の合間に歩いた。

 古来の優れた行跡であり、くうを履行する奥深い家風である。

 あなた達は出家して道を学んでいる最中で手足の所作も未だ穏やかではなく、わずかに四、五十歳である。

 それなのに、どうして、いたずらにひまが有ったりして満ち足りた家屋を務めとするのか?


 ついに、楊岐方会は、僧達に従わなかった。

 翌日、楊岐方会は、堂に上って、僧達に次の様に言った。


 (私、楊岐方会は、)初めて楊岐山(の普明院)に住んだが、屋根や壁に隙間が有り、床は全て雪が散らばっている。

 (寒さに、)うなじをちぢめて、ひそかになげくが、ひるがえって(考え直して、)古代人(の聖者の多く)は、(屋根や壁が無くて寒い)樹の下に居た事を思い出す。


 ついに、楊岐方会は、僧達に(坐禅堂の)修繕を許さなかった。

 けれども、世界の、雲やかすみの様に諸方を訪ねる僧達は、楊岐方会の会に参入するのを願った。

 仏道に夢中に成る人が多い事を喜ぶべきである。

 楊岐方会の言葉を心に染み込ませるべきである。

 楊岐方会の言葉を身に刻むべきである。



 ある時、法演禅師は、「行いは思いを超えない。思いは行いを超えない」と言った。


 法演禅師の「行いは思いを超えない。思いは行いを超えない」という言葉を重んじるべきである。

 日夜、「行いは思いを超えない。思いは行いを超えない」と思い、朝夕、「行いは思いを超えない。思いは行いを超えない」として行うべきである。

 いたずらに、(この世という)東西南北の風に吹かれるままに成っているべきではない。



 まして、この日本国は、王や大臣の宮殿は木やかわらの屋根ではなく、草の屋根である。

 どうして、出家して道を学んでいる僧が木やかわらの屋根の家に住めるだろうか?

 もし出家者が木やかわらの屋根の家を得たら、生き方が誤っていて、清浄である事はまれである。

 元から木やかわらの屋根の家が有る出家者は論じるまでも無い。

 出家者は更に木やかわらの屋根の家を経営する事なかれ。

 草の屋根の家は、古代の聖者が住んでいた所であり、古代の聖者が好んでいた所である。

 後進の学徒は、古代の聖者をしたい、学に参入するべきであり、誤る事なかれ。



 黄帝、堯、舜などの中国の古代の皇帝は、俗世の人といえども、草の屋根の家に住んでいたのは、世界の優れた行跡である。


 「尸子」には次の様に記されている。

 黄帝の行いを観察しようとほっするならば、「合宮」で黄帝の行いを観察するべきである。

 堯と舜の行いを観察しようとほっするならば、「総章」で堯と舜の行いを観察するべきである。

 黄帝が政治を行った宮殿は、屋根が草であり、「合宮」と名づけられた。

 (堯と)舜が政治を行った宮殿は、屋根が草であり、「総章」と名づけられた。


 知るべきである。

 黄帝、堯、舜が政治を行った宮殿は、屋根が草である。

 黄帝、堯、舜を現代人と比較したら、天と地の差以上の差が有る。

 黄帝、堯、舜ですら草の屋根の宮殿で政治を行い、俗世の人ですら草の屋根の家に住んでいるのに、どうして出家者が景観が優れた(草の屋根ではない)立派な家屋に住めるであろうか?

 草の屋根ではない立派な家屋に住んでいる出家者は反省し恥じるべきである。

 古代人(の在家者や出家者)は、樹の下に居たり、林の中に住んでいたりしたが、(古代人の)在家者と出家者が共に好んで住んでいた所なのである。



 黄帝は、崆峒山の仙人の広成子の弟子である。

 広成子は「崆峒」と言う崆峒山の岩穴の中に住んでいた。

 千二百四十二年の中国の国王や大臣の多くは、広成子の奥深い家風を伝えている。

 俗世というちりの中で労苦している人ですら岩穴に住んでいたのである。

 出家者が、どうして俗世というちりの中で労苦している人より劣悪で善いであろうか? 濁って汚れていて善いであろうか?



 従来の仏祖の中に、天人の捧げものを受けた祖師は多い。

 けれども、祖師が道を会得した時、(天人の)天眼通は力が祖師に及ばなく成り、鬼神は祖師を知る手がかりを失くす。

 祖師が道を会得すると天人や鬼神が祖師を知る手がかりを失くす主旨を明らめるべきである。

 もし天人や鬼神が仏祖の行いを踏襲とうしゅうする時は、仏祖に近づく道が有る。

 仏祖が天人や鬼神を超越した証に入ると、天人や鬼神には、仏祖を遥かに見上げる手がかりすら無く成り、仏祖のほとりに近づく事は困難に成る。



 南泉普願は、「老僧である私、南泉普願は、修行の力が無くて鬼神に見られてしまう」と言った。

 知るべきである。

 修行をしていない鬼神に見られるのは、修行の力が無いのである。



 太白名山の宏智正覚の会で、寺の守護神は、「私は、『宏智正覚が、太白名山に住んで十年余りに成る』と聞いたが、常に、寺のおさの僧が住んでいる『寝堂』に行って、宏智正覚を見ようとしたが、前に進む事が不能に成り、前に進む事が不能に成る事を未だに理解できないのです」と言った。

 実に、仏道にかなっている先人の行跡に会うのである。



 「太白名山」、「天童山」の寺院は、元は小さな寺院であった。

 宏智正覚が太白名山に住んでいる時に、宏智正覚は、道教の寺院、尼寺、教院などを整理して景徳寺と成した。

 宏智正覚の死後、左朝奉、大夫、侍御史の王伯庠が宏智正覚の行業記を記していると、ある人が「道教の寺院、尼寺、教寺を奪って太白名山の景徳寺と成した事を記すべきである」と言ったが、王伯庠は「できません。道教の寺院、尼寺、教寺を整理して景徳寺と成した事は、僧としての徳行ではない」と言い、当時の人の多くは王伯庠をほめた。

 知るべきである。

 道教の寺院、尼寺、教寺を整理して景徳寺と成した事は、俗世にいる人としての行動であり、僧としての徳行ではない。



 仏道に入って登る最初から、遥かに三界の人と天人を超越しているのである。

 三界の人と天人が使用している所とは異なるし、三界の人と天人が見ている所とは異なる事を明確に詳細に自問自答するべきである。

 身口意および報いによる環境と身によって鍛錬して学に参入して究めるべきである。

 仏祖の修行の保持の功徳は、元より人と天人を仏土へ渡す巨大な益が有るが、人と天人は仏祖の修行の保持に助けられていると覚知できないのである。

 今、仏祖の大いなる道である修行の保持をするには、大いなる真の隠者と矮小な未熟な隠者を論ずる事なかれ。聡明な人を好み愚鈍な人を嫌う事なかれ。

 ただ、永遠に名声と利益を投げ捨てて、諸々のえんに縛られて繋がれる事なかれ。

 時間を無駄に過ごさず、頭が燃えているのを払うかの様に修行するべきである。

 大いなる悟りを待ち望む事なかれ。大いなる悟りは仏教という家の日常茶飯事である。

 悟らない心を願う事なかれ。悟らない心は「法華経」の髪の中に隠された宝玉である。

 ただ、正に(仏教のために)、家が有る人は家を離れ、恩愛が有る人は(泣く泣く)恩愛を離れ、名声が有る人は名声を逃れ、利益が有る人は利益を逃れ、田畑が有る人は田畑を逃れ、親族が有る人は親族を離れるべきである。

 名声や利益などが無い人も(新たに名声や利益などを得ようとせずに)名声や利益などを離れるべきである。

 既に有るものを離れるのだから、無いものをも離れるべきである道理は明らかである。

 名声や利益などを離れるのは、修行の保持の一つである。

 生前に名声や利益を投げ捨てて、一つの修行を保持するのは、(仏と成れば、)無限の仏の寿命の永遠の修行の保持に成る。

 今、この修行の保持は、必ず、他の修行の保持によって修行を保持させてもらっているのである。

 この修行を保持している身心を、自らも、愛するべきであるし、敬うべきである。



 大慈寰中は、「一丈、三メートルの説明をでき得ても、十分の一の、一尺、三十センチの行いを取れるのには及ばない。

一尺、三十センチの説明をでき得ても、十分の一の、一寸、三センチの、わずかな行いを取れるのには及ばない」と言った。

 大慈寰中の言葉は、現代人が修行の保持をおろそかにして仏道への通達を忘れている様を戒めているのに似ているが、一丈、三メートルの説明が正しくないというわけではなく、十分の一の、一尺、三十センチの行いは、十倍の、一丈、三メートルの説明よりも功徳が大きいと言っているのである。

 どうして、十倍の一丈と十分の一の一尺という長さの差しかないであろうか? いいえ!

 須弥山と芥子からしの種の遥かな差によって功徳を論じる事も有るべきである。

 ただし、須弥山という完全な量が有り、芥子からしの種という完全な量が有る。

 修行の保持の大事さは、山と芥子からしの種の差ぐらい有るのである。

 大慈寰中が言い得たのは、大慈寰中が自ら作為的に言葉としたからではなく、大慈寰中が自ら言葉を行為で実践してきたからである。



 三十八祖の洞山良价は、「行い得ない奥底は、説明によって、理解して取り、

説明し得ない奥底は、おこなって、理解して取る」と言った。

 三十八祖の洞山良价という高徳の祖師の言葉である。

 三十八祖の洞山良价の言葉の主旨は、「行いは説明に通じる道を明らめている」という事と、「説明は行いに通じる道が有る」という事である。

 そのため、「終日、説明している事を、終日、行う」のである。

 「終日、説明している事を、終日、行う」という言葉の主旨は、「行い得ない奥底を、(あえて)おこなって、理解して取り、

説明し得ない奥底を、(あえて)説明して、理解して取る」のである。



 三十九祖の雲居道膺は、三十八祖の洞山良价の「行い得ない奥底は、説明によって、理解して取り、説明し得ない奥底は、おこなって、理解して取る」という言葉を七と八に通達して、「説明している時は、(行っているので、更に)行う道は無いし、行っている時は、(説明しているので、更に)説明する道は無い」と言った。

 三十九祖の雲居道膺の「説明している時は、(行っているので、更に)行う道は無いし、おこなっている時は、(説明しているので、更に)説明する道は無い」という言葉を会得すれば、行いと説明が無いというわけではない(事を理解するであろう)。

 説明している時は、一生、(坐禅して)寺や林を離れないのである。

 おこなっている時は、無言で頭を洗って来て雪峰義存の前に現れるのである。

 (「正法眼蔵」の「道得」には、雪峰義存が、山中で頭を剃る時間も惜しんで修行していた弟子に、「真理を言い得たならば、あなたの頭を剃らない」と言ったら、弟子は無言で頭を洗って来て雪峰義存の前に現れたので、雪峰義存は弟子の頭を剃ってあげた、という逸話が記されている。)

 「説明している時は、(行っているので、更に)行う道は無いし、おこなっている時は、(説明しているので、更に)説明する道は無い」という事を差し置くべきではない。乱すべきではない。



 古くから仏祖は「もし人が百歳まで生きる事ができても、諸仏の大事な心を会得しなければ、未だ一日しか生きていなくても諸仏の大事な心を決定的に理解した人には及ばない」と言っている。一人や二人の仏だけが言っているのではない。諸仏が言い得て理解して来た事である。諸仏が行い得て理解して来た事である。



 百、千、万の無数の劫の、生死がくり返されている中で、修行を保持した一日は、髪の中に隠された光輝く宝玉であり、十八祖の伽耶舎多の鏡といった生死を共にする「古鏡」、「古くから鏡としているもの」であり、喜ぶべき一日である。

 (「古鏡」、「古くから鏡としているもの」については「正法眼蔵」の「古鏡」を参照してください。)

 修行を保持する力は自らが喜ぶ事ができるのである。

 修行を保持する力に未だ至らない人、仏祖の「骨髄」、「理解」を受けていない様な人は、仏祖の身心を惜しまず、仏祖の「面目」、「有様ありよう」を喜ばないのである。

 仏祖の「骨髄」、「理解」と「面目」、「有様ありよう」は、消え去らず、消え去る物に似ているが、如来の様に無敵であり、来なくても既に遍在している、といえども、必ず一日の修行の保持によって受け取る事ができるのである。そのため、一日を重んじるべきなのである。

 いたずらに無駄に百歳まで生きるのは、恨むべき年月であり、悲しむべき「形骸」、「中身が無く外見だけ上辺うわべだけの物」なのである。

 たとえ百歳までの年月を音声や色形の奴隷として奔走しても、その中の一日でも修行を保持する行いをして理解して取れば、一生の百歳をおこなって理解して取るだけではなく、来世の他の生をも仏土へ渡して取るのである。

 一日の身体の命は、尊重するべきである。尊重するべき「形骸」、「外形」である。

 そのため、一日しか生きていなくても、諸仏の大事な心を会得すれば、一日を長い劫の中の多くの生よりも優れた物とするのである。

 このため、諸仏の大事な心を未だ決定的に理解していない時は、一日を無駄に使う事なかれ。

 一日は惜しむべき貴重な宝である。

 (わずかな時間よりも劣る)一尺、三十センチの直径の宝石の価値を、わずかな時間以上の物であると誤って見なすべきではない。

 時間を、命がけで獲得する必要が有る黒竜の宝玉と交換する事なかれ。

 古代の賢者を惜しむ事は、身体の命を惜しむよりも大事である。

 静かに思うべきである。

 命がけで獲得する必要が有る黒竜の宝玉は求めて得られるかもしれないし、(わずかな時間よりも劣る)一尺、三十センチの直径の宝石は得る事も有るかもしれない。

 しかし、一生の百歳までのうちの一日は、一度、失ったら、再び得る事は無い。

 どんな巧みな手段が有れば、過ぎた一日を再び得る事ができるのか? いいえ! 過ぎた一日を再び得る手段は無い!

 「過ぎた一日を得た」なんて、歴史書にも記されていない。

 もし一日をいたずらに無駄に過ごさなければ、年月を皮袋である肉体に包含してらさない。

 古代の聖者や賢者は、年月、時間を、眼よりも惜しみ、国土よりも惜しんだ。

 一日をいたずらに無駄にするのは、名声と利益の浮世に汚染されまどわされ乱されて行く事に成る。

 一日をいたずらに無駄にしないのは、既に仏道にいるが、仏道のためにするのである。

 すでに諸仏の大事な心を決定的に会得したならば、会得した後も、一日をいたずらに無駄にしないべきである。

 ひとえに、仏道のためにおこなって理解して取るべきであるし、仏道のために説明して理解して取るべきである。

 このため、古くから仏祖は、いたずらに一日の鍛錬を浪費しない、事を知る事ができる。この世で常に想像して観察するべきである。

 のどかに華が咲く日中も、明るい窓辺で坐禅して思うべきである。

 寂しく雨が降る夜も、草の屋根の質素な家で坐禅して忘れる事なかれ。

 どうして時間が私の鍛錬を盗むであろうか? いいえ! 時間は私の鍛錬を盗まない!

 私が、私の一日を盗む、だけではなく、私の多くの劫の功徳を盗むのである。

 どうして時間が私の敵であろうか? いいえ! 時間は私の敵ではない! 私が私の敵である!

 私が修行しない事が、私の一日を盗み、私の多くの劫の功徳を盗み、私の敵と成る事を恨むべきである。

 (修行しない)私は私と親しくない。

 (修行しない)私は私を恨むのである。



 仏祖も恩愛が無いわけではない。けれども、投げ捨てて来たのである。

 仏祖も諸々の「えん」、「つながり」が無いわけではない。けれども、投げ捨てて来たのである。

 たとえ惜しくても、自分や他人の因縁を惜しむべきではないからである。

 もし私が恩愛を投げ捨てなくても、恩愛している人が私を投げ捨てる言動をする事が有るのである。

 恩愛している人を憐れむならば、恩愛を憐れむべきである。「恩愛を憐れむ」というのは、恩愛を投げ捨てる事である。



 三十四祖の南嶽の懐譲は、曹谿山の三十三祖の大鑑禅師の会に参入して、十五年間、三十三祖の大鑑禅師のそばで仕えた。

 そうして、南嶽の懐譲は、大鑑禅師から仏道を伝えられわざを授けられて、(大鑑禅師という)一つの器から、水を、(南嶽の懐譲という)一つの器に移す事をでき得たのである。

 南嶽の懐譲という古代の先人の行跡を最もしたうべきである。

 南嶽の懐譲は、十五年間という年月で、自身をわずらわせる事も多かったであろう。(南嶽の懐譲は、十五年間という年月で、わずらう事も多かったであろう。)

 けれども、南嶽の懐譲は、純粋に一途いちずに道をわきまえて究めたのである。

 南嶽の懐譲の行跡は、後進への見本である。

 南嶽の懐譲は、寒い炉には燃やす炭が無く、人の居ない部屋で独りで寝た。

 南嶽の懐譲は、涼しい夜に、明かり無しに、月明かりを頼りに窓辺で独りで坐禅した。

 たとえ、一つの知やなかばな理解が無くても、無為な自然な、学ぶ必要がえて無く成った境地である。

 南嶽の懐譲の行跡は、修行の保持である。

 ひそかに名声や利益への貪欲や愛着を投げ捨てて来れば、日々、修行の保持の功徳を積むばかりと成る。

 ひそかに名声や利益への愛着を捨てれば、修行の保持と成る主旨を忘れる事なかれ。

 南嶽の懐譲の「ある物を似ている物によって説明しても、言い当てられない」という言葉は、八年間の修行の保持によって言い得た真理である。

 南嶽の懐譲の「ある物を似ている物によって説明しても、言い当てられない」という言葉は、古今の人々が稀少な言葉であるとしている。

 南嶽の懐譲の修行の保持は、賢者も愚者も共に求めるべき修行の保持である。



 香厳の智閑は、三十七祖の潙山霊祐の所で仏道を修行した時に、一句の真理の言葉を言い得ようとしたが、数回の後、ついに真理の言葉を言い得る事ができなかった。

 香厳の智閑は、真理の言葉を言い得る事ができなかった事を悲しんで、書籍を火で焼いて、他の僧の食べ物を用意する務めだけして年月を経て行った。

 後に、香厳の智閑は、武当山に入山して、三十三祖の大鑑禅師の弟子である大証禅師と呼ばれる南陽慧忠の古代の行跡を模倣もほうして、草を結びつけて草の屋根の小さな質素ないおりと成して、俗世を離れて静かに暮らした。

 香厳の智閑は、ある日、少し道を平らにするためにいて清掃していると、小石が飛んで竹に当たり音が鳴って突然、仏道を悟った。

 その後、香厳の智閑は、香厳寺に住んで、一つの器と一つの袈裟だけで一生、新しい物に交換しなかった。

 そして、香厳の智閑は、珍しい形の岩と清らかな泉を占拠して、一生、安住して、俗世を離れて静かに暮らした。

 香厳の智閑の行跡の多くは、香厳寺の有る山に残っている。

 香厳の智閑は、一生、山を出なかった、と言われている。



 慧照禅師と呼ばれる臨済義玄は、黄檗希運から正統に法をいだ。

 臨済義玄は、黄檗希運の会に三年いた。

 臨済義玄は、純粋に一途いちずに道をわきまえ、兄弟弟子である睦州の陳尊宿の教訓によって仏法の重大な意味を黄檗希運に三回、質問して、黄檗希運に合計六十回も棒で軽く叩かれた。

 しかし、臨済義玄の悟りへはげむ志はたゆむ事が無かった。

 臨済義玄は、高安大愚の所に至って大いに悟ったのも、黄檗希運と陳尊宿の教訓によってである。

 祖師達の中で英雄は、臨済義玄と徳山宣鑑と言われている。

 (「臨済の喝」という悟らせるために弟子を怒鳴った臨済義玄と、「徳山の棒」という悟らせるために弟子を棒で軽く叩いた徳山宣鑑は、有名である。)

 けれども、どうして徳山宣鑑が臨済義玄に及ぶであろうか? いいえ! 徳山宣鑑は臨済義玄に及ばない!

 実に、臨済義玄は、抜群の人である。

 しかも、臨済義玄が抜きんでていた時代の人達は、近代の抜群の人達よりも抜群であったのである。

 臨済義玄の行いとわざは、純粋で一途いちずで、臨済義玄の修行の保持は抜群であった、と言われている。

 臨済義玄の修行の保持は、どれだけの数の、どれだけの種類の、修行の保持であったのか? と想像しても、的中しないであろう物である。


 臨済義玄が、黄檗希運の所に居た時で、黄檗希運と共に杉と松を植えていた時に、黄檗希運は臨済義玄に「奥深くの山の中に、多数の樹を植えて、どうするのか?」と質問した。

 臨済義玄は、「一つには、山の寺の門との境と成すし、二つには、のちの人のために目印と成すのです」と言って、くわを地に二回、振り下ろして打った。

 黄檗希運は、杖をひねって起こして、「そうだとしても、あなたは既に私に三十回も棒で軽く叩かれている」と言った。

 臨済義玄は、(黄檗希運の言葉にとらわれず無視して、)フーと息を吐いた。

 黄檗希運は、「私の宗教、仏教は、あなたに至って、この世で大いに盛んに成るであろう」と言った。


 そのため、道を会得した後も、杉や松を植える時に、手ずから自らくわつかを持つのである、と知るべきである。

 黄檗希運が「私の宗教、仏教は、あなたに至って、この世で大いに盛んに成るであろう」と言ったのは、手ずから自らくわつかを持った事による物である。

 「栽松道者」と呼ばれる三十二祖の弘忍の古代の行跡が、正に、単一に伝えられ直接的に指し示されてきたのである。

 黄檗希運も臨済義玄も共に植樹したのである。



 昔、黄檗希運には、周囲の僧達を振り切って、大安寺の労務をしている僧達に混じって、殿堂を清掃したという修行の保持が有る。

 黄檗希運は、仏殿を清掃し法堂を清掃したが、「心を清掃した」として「修行を保持できた」と期待しなかったし、「(仏の栄光という)光を清掃した」として「修行を保持できた」と期待しなかった。

 黄檗希運と宰相の裴相国が出会ったのは、この頃である。



 唐の時代の中国の皇帝の宣宗は、憲宗の第十三番目の子である。

 (原文の「第二の子」は誤りだと思われる。)

 宣宗は、若い時から明敏で賢かった。

 宣宗は、常日頃、結跏趺坐を好んだ。

 宣宗は、宮殿にいても常に坐禅した。


 穆宗は、宣宗の兄である。

 穆宗が皇帝の時、早朝の政務の終了時に、宣宗は、たわむれに、竜に例えられる「天子」、「皇帝」の段に上って、大臣達にへりくだって敬礼した。

 大臣は、宣宗が大臣達にへりくだって敬礼したので、宣宗には(大臣達の上に立つ皇帝に成る可能性が有る者として)精神的に問題が有るとして、穆宗に報告した。

 穆宗は、見て、宣宗をでて、「私の弟は、私の一族、王族の英雄、頭である」と言った。

 その時、宣宗は、十三歳に成ったばかりであったのである。


 皇帝の穆宗は、八百二十四年に亡くなった。

 穆宗には、敬宗、文宗、武宗という三人の子がいた。


 敬宗は、父である穆宗の皇帝の位をいだが、三年後に(暗殺されて)亡くなった。


 文宗は、皇帝の位をいだが、一年後に、宦官の謀略で実権を奪われた。


 武宗が皇帝の位をいだ時に、宣宗は、未だ皇帝の位をげず、おいである武宗の国にいた。

 武宗は、常に宣宗を「馬鹿な叔父」と呼んだ。

 武宗は、「会昌の廃仏」を行った「天子」、「皇帝」である。

 武宗は、仏法を廃した人である。

 ある時、武宗は、宣宗を呼んで、昔、宣宗が皇帝の段に上った事を罰して、宣宗を殴り殺して、皇帝の私的な園である「後華園」の中に置いて、尿をかけたら、宣宗は復活した。


 ついに、宣宗は、国を離れて、ひそかに、香厳の智閑の会に参入して、頭の髪をって、未成年の、戒を受ける前の出家者見習いと成った。

 宣宗は、未だ戒を備えていなかったのである。


 灌渓志閑を友として諸方を訪ねていると、盧山に至った。

 その時、灌渓志閑は、盧山の滝を題材にして、詩で「崖を穿うがって貫き、石を貫き通して、労苦を止めない。遠い地で、まさに、出所の高き事を知る事ができる」と言った。

 灌渓志閑は、二句の詩によって、宣宗を引っかけて、宣宗が、どういう人なのか、見ようとしたのである。

 宣宗は、灌渓志閑に続いて、詩で「どうして、谷の川を留める事ができ得ようか? いいえ! 谷の川を留める事はできない! 谷の川は、ついには、大海に帰って、大波と成る」と言った。

 灌渓志閑は、宣宗の二句の詩を聴いて、宣宗は普通の人ではない、と知った。


 後に、宣宗が杭州の塩官斉安の会に至って書記に成った時、黄檗希運が塩官斉安の会の首位の「首座」であった。

 そのため、宣宗は、黄檗希運と隣人であった。


 黄檗希運が仏殿に来て仏像へ敬礼した時、宣宗が来て「仏を愛着せず求めず、

法を愛着せず求めず、

僧を愛着せず求めず、

長老である黄檗希運よ、

敬礼を用いて、何をするのか?」と質問した。

 黄檗希運は、宣宗を軽く叩いて、「仏を愛着せず求めず、

法を愛着せず求めず、

僧を愛着せず求めず、

常に、この様に、敬礼するのである」と言って、また、宣宗を軽く叩いた。

 宣宗は、「大雑把で粗い」と言った。

 黄檗希運は、「ここが、どこだと思って、更に、『粗い』とか『細かい』とか説くのか?」と言って、また、宣宗を軽く叩いた。

 宣宗は、無言で去った。

 武宗の後、ついに、宣宗は、還俗して皇帝の位に就いた。

 宣宗は、武宗の廃仏法を廃止して、仏法を中興した。

 宣宗は、皇帝の位に在位の間、常に坐禅を好んだ。

 宣宗は、皇帝の位に未だ就く前の時は、国を離れて、遠地の谷など諸方を訪ねた時、純粋に一途いちずに、道をわきまえた。

 宣宗は、皇帝の位に就いた後の時は、昼も夜も坐禅した、と言われている。

 実に、宣宗は、父が亡くなり、兄も亡くなり、おいに殴り殺され、憐れむべき貧窮の子に似ていた。

 けれども、宣宗は、仏法にはげむ志が変わらず、道をわきまえる鍛錬をした。

 宣宗の行跡は、世にもまれな優れた行跡であり、自然な純真な修行の保持である。



 真覚大師と呼ばれる雪峰義存は、かつて仏道に心してから、寺や林に立ち寄った時、および、行程の途中で宿を提供する施しを受けた時、目的地まで道のりが遥かであるといえども、場所を選ばずに、いつもの坐禅をおこたる事が無かった。

 雪峰義存は、雪峰山に寺を建てて、仏法を堂々と表すに至っても、おこたらず坐禅して、坐禅と共に死んだ。

 雪峰義存は、昔、法をたずねていた時は、三十八祖の洞山良价の山に九回上り、投子大同の山に三回至ったが、世にもまれな道のわきまえかたである。

 清らかな厳しい修行の保持をすすめる時には、千二百四十二年の人々の多くは、「雪峰義存の様な高い修行を行う様に」言う。

 雪峰義存の愚かさは他人と同じであったが、雪峰義存の賢さには他人は及べない。

 雪峰義存の賢さに他人が及べないのは、修行の保持によってである。

 今、道を学んでいる人は、必ず雪峰義存の身心の清めかたを学ぶべきである。

 静かに、雪峰義存が諸方を訪ねて学に参入した労力をかえりみれば、実に、内に秘めていた気骨による功徳である。



 千二百四十二年に、道にかなった達道者の会に臨んで、真実を願い求めて参入しようとする時、手がかりをわきまえるのが最も難しいのである。

 二十人、三十人の皮袋と言える僧ではなく、百人、千人の面々の僧がいて、各々、実に帰る事を求めているのである。

 (僧の数が多過ぎるので、)教えを授けるために手を差し伸べても日が暮れてしまうし、春に牛を打って耕し始める様に僧の心を開発して行っても夜が明けて次の日に成ってしまう。

 また、師が弟子達にあまねく教えを説く時、自身に「聞く耳」や「見る眼」が無くては、いたずらに無駄に見聞きをさえぎってしまう。

 「聞く耳」や「見る眼」を備えた時には、師は説き終わって(見逃したり聞き逃したりして)しまっている。

 きりの先が使い古されて丸く成る様に円熟した長老が手を叩いて「ハハ」と笑っている時、新たに戒を受けたばかりの後進の僧は会の末席として触れる手がかりすらまれ有様ありさまである。

 秘奥に入る人と、秘奥に入れない人がいる。

 師の秘訣を聞き入れる事ができる人と、師の秘訣を聞き入れる事ができない人がいる。

 時間は飛んでいる矢よりも速く過ぎ去ってしまう。

 身体の命はつゆよりももろい。

 師はいても学に参入でき得ない自身への恨みが有り、学に参入しようとする時に師を得られない悲しみが有る事を、私、道元は、目の当たりに見聞きしたのである。

 大いなる善知識に到達できる人には必ず人を知る徳が有るが、道を耕し鍛錬している時には、親しく近づく事ができる良いえんまれな物である。

 雪峰義存は、昔、三十八祖の洞山良价の山に九回上った時にも、投子大同の山に三回上った時にも、きっと、わずらわしさを感じたが忍耐したのであろう。

 雪峰義存の、修行の保持における、「法へのみさお」、「法への意思の堅固さ」を憐れむべきである。

 学に参入しない事は悲しむべき事である。



 二十八祖の達磨が、西のインドから東の中国へ来たのは、二十七祖の般若多羅の言葉による物である。

 三年間の航海の、風や雪といった苦難は痛ましいだけではないであろうし、雲の様なかすみが幾つも重なり激しい大波に成ったであろう。

 (古代は航海が非常に危険であった。)

 未知の国に入ろうとするのは、身体の命を惜しむ凡人には思いもよらないであろう。

 達磨が未知の国に入ったのは、ひとえに、法を伝えて心が迷っている人を救うという、「大いなる慈愛」、「大いなる思いやり」による修行の保持である。

 法を伝えられたのは、自己であるので、達磨は法を中国に伝えたのである。

 法を伝えられたのは、あまねく世界であるので、達磨は法を中国に伝えたのである。

 十方の世界のことごとくは、真実の道であるので、達磨は法を中国に伝えたのである。

 十方の世界のことごとくは、自己であるので、達磨は法を中国に伝えたのである。

 十方の世界のことごとくは、十方の世界のことごとくであるので、達磨は法を中国に伝えたのである。

 結果として、どこへ生まれても王宮ではない事があるだろうか? いいえ! 結果として、どこへ生まれても王宮なのである!

 どの王宮が道場として差し障りが有るのだろうか? いいえ! どの王宮も道場なのである!

 (

 正しい人は王者である。

 正しい人にとって世界は王宮である。

 )

 そのため、達磨は西のインドから中国へ来たのである。

 心が迷っていたのを救われたのは、自己であるので、達磨は、驚き疑う事無く、恐れが無かった。

 心が迷っていたのを救われたのは、あまねく世界であるので、達磨は、驚き疑う事無く、恐れが無かった。

 達磨は、永遠にインドの父の王の国土を去って、大船に乗って、南海を経て、中国の広州に着いた。

 (達磨は、王子であった。)

 達磨が乗った船を使った人は多かったであろうし、達磨の弟子も数が多かったであろうが、歴史家達は記録を失ってしまった。

 達磨が中国の港に着岸してからを知る人もいない。

 五百二十七年、中国の広州の長官の蕭昂と言う人は、賓客を迎えるための人達で飾って、達磨を出迎えた。そして、蕭昂は、梁の武帝への文書を書いたので、達磨の話は梁の武帝にまで聞こえた。

 蕭昂は、職務に真面目に務めたのである。

 その年、五百二十七年、梁の武帝は、蕭昂からの文書を閲覧して、喜んで、使いの者に文書をもたせて、達磨を招いて迎えた。


 達磨が「金陵」、「南京」に至って梁の武帝と会った時に、梁の武帝は「私が即位してから今まで、寺を造り、写経し、出家の許可を出して出家者の労役を免除したのは、記す事ができないほど多い。どんな功徳が有るだろうか?」と質問した。

 達磨は、「全て、功徳は無い」と言った。

 梁の武帝は、「なぜ功徳が無いのか?」と言った。

 達磨は、「寺の建造や写経などは、ただ、人や天人の小さな結果であり、煩悩の原因に成ってしまう場合が有る。影が形に従う様に、功徳は有るが真の実の功徳ではない」と言った。

 梁の武帝は、「どのような物が真の功徳なのか?」と言った。

 達磨は、「清浄な智が絶妙に円熟し、実体が自らくうであり寂滅であるのが、真の功徳である。しかし、この様な真の功徳を世の人は求めない」と言った。

 また、梁の武帝は、「どのような物が神聖な真理、第一の真理、無上の真理なのか?」と質問した。

 達磨は、「(知ると、)心が広々と澄みわたり、自分は正しいという意識が無く成るのが、神聖な真理、第一の真理、無上の真理である」と言った。

 梁の武帝は、「私と相対している者は誰か?」(、「あなたは何者か?」、「あなたは、どういった者か?」)と言った。

 達磨は、「私は『こういった者である』と意識していない」と言った。


 梁の武帝は、悟りを得なかった。

 達磨は、梁の武帝の素質が真の法にかなわない事を知った。

 そのため、この年、五百二十七年、達磨は、ひそかに江北へ行った。

 その年、五百二十七年、洛陽に至った。

 蒿山の少林寺に一時的に留まって、壁に向かって坐禅し、終日、沈黙した。

 けれども、魏の主も愚かだったので達磨を知らず、恥じるべきことわりも知らなかった。


 達磨は、南インドのクシャトリヤであり、インドの大国の王子である。

 達磨は、大国の王宮で、大国の法に久しく慣熟していた。

 小国の風俗は大国の王者に見られて恥ずかしい所が有るが、達磨には動かす様な心は無かった。

 達磨は、中国という国を見捨てず、人を見捨てなかった。

 達磨は、時々、菩提流支に悪口を言われたが、菩提流支の誤りを指摘せず、菩提流支を憎まなかった。

 達磨は、光統律師と呼ばれる慧光の邪悪な心を恨まず、慧光の悪口を聞かなかった。

 達磨には、この様な功徳が多く有ったが、東の地の中国の人々が、ただ、普通の経典の学者の様に思ったのは、最悪に愚かである。矮小な人々であったからである。

 また、誤って「達磨は禅宗として坐禅専門の法門を開演したが、他の経典の学者の所説も、達磨の正しい法も、同じである」と思った中国人は、仏法を濫りに汚す矮小な動物的人間であった。

 達磨は、釈迦牟尼仏より二十八代目の、正統な法をいだ人である。

 達磨は、インドの父の王の大国を離れて、東の地の中国の生者達を救済した。誰が達磨に肩を並べる事ができようか? いいえ! 誰も達磨に及ばない!

 もし達磨が西のインドから中国へ来なかったら、どうして東の地の中国の生者達は仏の正しい法を見聞きできたであろうか? いいえ! もし達磨が西のインドから中国へ来なかったら、東の地の中国の生者達は仏の正しい法を見聞きできなかったであろう!

 もし達磨が西のインドから中国へ来なかったら、中国の人々は、いたずらに無駄に名前や「相」、「形」の砂や石を数える事にわずらっていただけで終わったであろう。

 達磨のおかげで、千二百四十二年の日本人の様な、僻地へきち、遠方の、毛をまとい角をかぶった人までも正しい法を聞く事ができ得る。

 達磨のおかげで、千二百四十二年の農民、田舎の老人、村の児童まで正しい法を見聞きする。

 達磨の航海という修行の保持によって、今の人々は救われているのである。(古代は航海が非常に危険であった。)

 西のインドと中国では、風俗には遥かな優劣が有り、風俗での善悪も遥かに違いが有る。

 大いなる忍耐力の「大いなる慈愛」、「大いなる思いやり」が無ければ、中国は、法を伝えられ保持している大いなる聖者である達磨が向かうべき場所ではない。

 中国には、達磨が住む道場も無かったし、(正しい)人を知る事ができる人もまれであった。

 達磨は、九年間という少しの間、蒿山に留まった。

 人々は、達磨を、壁に向かって(坐禅して)いる、バラモンと誤って呼んだ。

 歴史家達は、達磨を「習禅者達」、「色々な観念を習う者達」の一人として誤って編集しているが、達磨は「習禅者」、「色々な観念を習う者」ではない。

 仏から仏へ正統に伝えている「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼を持つ」のは、独り、達磨だけであった。


 石門の慧洪の「林間録」には次の様に記されている。

 達磨は、梁から魏へ行った。

 達磨は、蒿山のふもとまで歩き、少林寺に留まった。

 達磨は、壁に向かって坐禅するだけであった。

 (達磨の坐禅は、)「習禅」、「色々な観念を習う事」ではない。

 しかし、久しく人々は達磨の坐禅の理由を推測できなかった。

 そのため、達磨の坐禅を「習禅」、「色々な観念を習う事」と誤って見なした。

 「禅那」、「習禅」、「色々な観念を習う事」は諸々の修行のうちの一つでしかない。

 どうして「禅那」、「習禅」、「色々な観念を習う事」によって達磨といった聖者を完全に表し尽すのに足りるであろうか? いいえ! 「禅那」、「習禅」、「色々な観念を習う事」では達磨といった聖者を表し尽すには不足である!

 しかし、当時の人々は、「禅那者」、「習禅者」、「色々な観念を習う者」として達磨を誤って表現した。

 また、歴史家達も、世論に従って、達磨を「習禅者達」、「色々な観念を習う者達」の一人に誤って並べてしまい、「枯木死灰」、「枯木や火が消えて冷えた灰の様な無欲」の段階の徒と誤って同一視した。

 しかし、聖者は「禅那」、「習禅」、「色々な観念を習う」だけではない。

 ただし、聖者は「禅那」、「習禅」、「色々な観念を習う事」をしないわけではない。

 易の八卦は、陰と陽から出て来るが、陰と陽ではなく成る訳ではない様に。

 梁の武帝は、初めて達磨と会った時に、「どのような物が神聖な真理、第一の真理、無上の真理なのか?」と質問した。

 達磨は、「(知ると、)心が広々と澄みわたり、自分は正しいという意識が無く成るのが、神聖な真理、第一の真理、無上の真理である」と答えた。

 進んで、梁の武帝は、「私と相対している者は誰か?」(、「あなたは何者か?」、「あなたは、どういった者か?」)と言った。

 達磨は、「私は『こういった者である』と意識していない」と言った。

 達磨が中国の言語に通じていなかったら、どうして、梁の武帝と話した時に、この様に話す事が可能であったであろうか? 達磨は中国の言語に通じていたので、梁の武帝と話した時に、この様に話す事が可能であった!


 慧洪の「林間録」によって、達磨が梁から魏へ行った事は明らかである。

 達磨は、蒿山まで歩いて少林寺に留まった。

 達磨は壁に向かって坐禅したが、達磨の坐禅は「習禅」、「色々な観念を習う事」ではない。

 達磨は、一巻も経典を持って来なかったが、正しい法を伝えに来た主である。

 それなのに、歴史家達が、真実を明らめる事ができず、達磨を誤って「習禅者達」、「色々な観念を習う者達」の一人として並べたのは、最悪に愚かである。

 悲しむべきである。

 達磨が蒿山まで歩いて行くと、菩提流支と、光統律師と呼ばれる慧光という犬の様な者達がいて、堯の様に聖者である達磨を(罵倒して)吠えた。

 憐れむべきである。

 達磨の悪口を言うのは、最悪に愚かである。

 心が有る人の誰が達磨の「慈愛」、「思いやり」による恩を軽んじるであろうか? いいえ! 心が有る人は、達磨の「慈愛」、「思いやり」による恩を重んじる!

 心が有る人の誰が達磨の恩に報いようと思わないであろうか? いいえ! 心が有る人は、達磨の恩に報いようと思う!

 俗世の恩を忘れず重んじる人は多い。

 俗世の恩を忘れず重んじる人を「人」と言う。

 達磨の大いなる恩は、父母の恩よりも優れている。

 達磨の「慈愛」、「思いやり」は、親子の思いやりと比べる事もできない(ほど優れている)。


 私達、日本人の低劣さを思えば、驚き恐れるべきである。

 中央の土地を見ず、中国に生まれず、聖者を知らず、賢者を見ず、天上に上った人が未だおらず、人心は、ひとえに愚かである。

 建国から今まで俗世を化して導いた人がおらず、国が清らかに澄んだ時を聞かない。

 どの様な状態が清いのか? どの様な状態が汚れているのか? 知らない事による物である。

 王の賞罰を与える権利や、天と地と人の、軽重に暗い事による物である。

 まして、木、火、土、金、水の五行の盛衰を知っているであろうか? いいえ! 木、火、土、金、水の五行の盛衰を知らない!

 (

 中国では五芒星に木、火、土、金、水を当てはめて五行と呼んだ。

 西洋では五芒星に精神と四大元素を当てはめる。

 )

 この様な愚かさは、眼前の色や音声に暗い事による物である。

 色形や音声に暗いのは、経典を知らない事による物である。

 経典を知らないのは、経典についての師がいない事による物である。

 「経典についての師がいない」と言うのは、経典の何十巻もの意味を知らず、経の何百句、何千語もの意味を知らず、ただ経典の文字の語感だけを読む事である。

 経の何千句、何万語もの意味を知らないのである。

 古代の経の意味を知り、古代の神聖な書物を読み解く人には、古代の聖者をしたう心が有るのである。

 古代の聖者をしたう心が有れば、古代の経が来て目の前に現れるのである。

 漢の劉邦と魏の曹操は、天体の現象という詩を明らめ、地形の言葉を伝えた皇帝である。

 天体の現象という詩や、地形の言葉の書物を明らめた時、少しだけ天と地と人を明らめられた。

 聖王の化の導きに未だ会わない国民達は、王に仕えるには、どうすれば良いのか? 親に仕えるには、どうすれば良いのか? 習わず知らないので、家臣としても憐れむべき者であり、子どもとしても憐れむべき者である。

 聖王の導きに未だ会わない国民達は、家臣と成っても、子どもとしても、一尺、三十センチの宝玉をいたずらに見過ごし、わずかな時間をいたずらに過ごしてしまうのである。

 この様な家門に生まれては、国土の重職を授かる人はおらず、軽い官位すら惜しまれて授かれない。

 国が汚れている時ですら官位を授かれず、国が清らかに澄んでいる時に官位を授かるのは見聞きもまれであろう。

 日本という、このような僻地へきち、このような低劣な身の上の命を持ちながら、如来、釈迦牟尼仏の正しい法を聞けた道の上で、どうして低劣な身の上の命を惜しむ心が有って善いであろうか? いいえ! 釈迦牟尼仏の正しい法を聞けた道の上で、低劣な身の上の命を惜しむ心が有ってはいけない!

 低劣な身の命を惜しんで、後で何もののために捨てるというのか?

 重職で賢い人ですら法のために身の命を惜しむべきではない。

 まして、法のために低劣な身の命を惜しむべきではない。

 たとえ低劣といえども、道のために、法のために、身の命を惜しまず捨てる事が有れば、上位の天の天人よりも高貴であるし、転輪聖王よりも高貴であるし、天と地の天人、三界の生者よりも高貴である。

 しかも、達磨は南インドの大国の香至王の第三王子であり、既にインドの大国の王族であり、王子である。

 達磨の様な高貴で敬うべき人に対して、東の地の僻地へきちの国は、仕えて保護する礼儀も未だ知らなかったのである。

 達磨に対して、香も無く、華も無く、座る敷物も粗末であり、座らされた宮殿の段も劣悪であった。

 まして、我が国、日本は、遠方の険しい岸である。

 どうして日本が達磨という大国の王者を敬う礼儀作法を知っているであろうか? いいえ! 日本は達磨という大国の王者を敬う礼儀作法を知らない!

 たとえ日本が礼儀作法を習ってみても、遠回りして、わきまえる事ができないであろう。

 諸侯と皇族では礼儀作法も異なるであろうし、礼儀作法にも軽重が有るが、わきまえず知らないであろう。


 自己の貴賤を知らなければ、自己を保持して任される事ができない。

 自己を保持して任される事ができないのであれば、自己の貴賤を最も明らめるべきである。

 達磨は、釈迦牟尼仏から二十八代目の、法を付属された祖師である。

 達磨は、道に存在してから今まで、いよいよ重要に成って行っている。(達磨は、道に存在してから今まで、いよいよ向上して行っている。)

 向上して行く、大いなる神聖な無上の尊い者である達磨が、師の二十七祖の般若多羅の言葉によって身の命を惜しまなかったのは、法を伝えるためであり、生者を救うためである。

 中国では、達磨が西のインドから来るより先に、法を正統に単一に伝えられた仏の子を見なかったし、正統に面と向かって直接に授けられた仏祖としての「面目」、「有様ありよう」や「ものの見方」を面と向かって直接に授けられた人はいなかったし、「仏を見た人」、「仏のものの見方で世界を見た人」は未だいなかった。

 達磨の後も、達磨の法の遠い子孫の他は西のインドから中国などへ来ていない。

 三千年に一度咲く優曇華の出現には会いやすい。年月を待って数えれば良いのである。

 しかし、達磨の西のインドからの来臨は二度と無いのである。


 それなのに、達磨の法の遠い子孫を詐称する輩は、春秋戦国時代の中国の楚という国の「和氏の璧」という宝石の原石を無価値な石と誤って判定した鑑定士の最悪の愚かさに酔って、未だ宝玉と石の違いをわきまえず、霊感が無い文字を数えるだけの経典の似非えせ学者と肩を並べるべきだと誤って思っている。

 達磨の法の遠い子孫を詐称する輩は、聞く耳を持っておらず理解が生半可なので、真の仏法者と、霊感が無い文字を数えるだけの経典の似非えせ学者の違いが分からないのである。

 「前世」に善行して植えた知の種が無い輩は、祖師の道の遠い子孫と成れず、いたずらに名前や「相」、「形」の邪悪な道に従って歩いてしまう。(悟る前までの今世の人生を「前世」と言う場合が有る。)

 憐れむべきである。


 達磨が西のインドから中国へ来た五百二十七年以降、なお、西のインドへ行く者がいるが、何のためなのか?

 最悪の愚かさのはなはだしさである。

 悪業にひかれて他国に従い歩くのである。

 一歩一歩、法の悪口を言う邪悪な道へおもむく事に成る。

 一歩一歩、父の家、父の郷から逃げて行く事に成る。

 (父の国から外れて行く事に成る。)

 あなたたち、西のインドに行って何を得られるというのか?

 ただ、山と川に辛く苦しい思いをするだけである。

 西のインドのものが東の中国へ来ている主旨を学ばない人は、仏法が東に伝わっている事を明らめないので、いたずらに無駄に西のインドで道に迷うのである。

 「法を求める」という名目が有っても、法を求める、道を求める心が無いので、西のインドでも正しい師に会えず、いたずらに霊感が無い文字を数えるだけの似非えせ学者に会うだけなのである。

 なぜなら、正しい師は西のインドにも存在するが、正しい法を求める正しい心が無いので、正しい法は、あなたたちの手に入らないのである。

 西のインドに行って正しい師に会ったと自称する誰かが存在するか? 西のインドに行って正しい師に会ったと自称する人の話を未だ聞いた事が無いのである。

 もし西のインドで正しい師に会えば、いくつかのインドの正しい師の名前や称号を自称するであろう。

 五百二十七年以降のインドの正しい師の名前や称号を聞いた事が無いので、五百二十七年以降のインドに行って正しい師に会ったと自称する人の話を未だ聞いた事が無い。


 また、中国でも、達磨が西のインドから来た五百二十七年以降、経典頼りで、経典の文字の理解だけで、正しい法をたずねない僧が多い。

 経典を見ても、経典の意味に暗いからである。

 この「黒業」、「悪業」は、今日の業の力だけではなく、「前世」の悪業の力による物である。

 (悟る前までの今世の人生を「前世」と言う場合が有る。)

 今の生で、ついに、如来、釈迦牟尼仏の真の秘訣を聞けず、釈迦牟尼仏の正しい法を見ず、釈迦牟尼仏から面と向かって直接に授けられてきた仏祖としての「面目」、「有様ありよう」や「ものの見方」に照らされず、釈迦牟尼仏の心を使用せず、諸仏の家風を聞けないのは、悲しむべき一生である。

 中国の、五百八十一年の隋から、唐、宋までの全ての時代で、このようなたぐい似非えせ僧侶が多い。

 ただ、「前世」に善行して植えた知の種が有る人が、期せずして入門しても、霊感が無く砂を数えるだけの業から解脱したりして、達磨の法の遠い子孫と成れたのは、全て、利発な素質の人であり、無上の素質の人であり、正しい人に成るための正しい種が有る人である。(悟る前までの今世の人生を「前世」と言う場合が有る。)

 無知蒙昧の輩は、久しく、霊感が無い文字を数えるだけの似非えせ学者のお粗末な家に留まるだけである。

 険しい困難が有る場所である中国を恐れず、嫌わず、達磨が西のインドから来臨した奥深い家風を今なお仰げるのに、私達は、私達の臭い皮袋である肉体を惜しんで、最終的に、何に成るのか? 険しい困難が有る場所である中国を恐れず、嫌わず、達磨が西のインドから来臨した奥深い家風を今なお仰げるのに、私達は、私達の臭い皮袋である肉体を惜しんでも、最終的に、何にも成らない!


 香厳の智閑は次の様に言った。

「百、千、万の計画は、ただ、自身の身体、肉体のためである。

しかし、身体、肉体は墓の中のちりに成る事を知らない。

『白髪には言語が無い(ので、白髪は話せない)』と言う事なかれ。

白髪(、老い)は(『死が近づいている』という)冥界の言葉を伝えて語る人であると言える」


 そのため、たとえ百、千、万の計画によって肉体を惜しんでも、ついには、肉体は墓の中の一盛りのちりと化す物である。


 まして、いたずらに小国の王や家臣や民に使われて、東西を奔走している間に、千、万の辛い苦しみが、どれだけ身心を苦しめる事か!

 人は、「義」、「公共の利益」のために身の命を軽んじる。

 殉死者への礼を忘れない様に。

 しかし、恩に使われる人の前途には、ただ、無知蒙昧の暗雲、暗いきりしかない。

 矮小な家臣につかわれて、民間で身の命を捨てる者は昔から多い。

 しかし、惜しむべき人の身である。

 なぜなら、道の器と成れたかもしれないからである。

 今の、正しい法に会える人々は、百、千、恒河沙の数の身の命を捨てても正しい法の学に参入するべきである。

 いたずらに矮小な人と、広大な深遠な法の、どちらのために身の命を捨てるべきであろうか? 広大な深遠な法のために身の命を捨てるべきである!

 賢者も愚者も共に進退に悩むべきではない事である。


 静かに想像するべきである。

 正しい法が世に流布していない時は、身の命を正しい法のために投じようと願っても正しい法に会えない。

 正しい法に会える今日の私達は、身の命を正しい法のために投じようと願うべきである。

 正しい法に会えても身の命を捨てない私達を恥じる。

 恥じるべきものを知る人は、この道理によって恥じるべきである。


 達磨の大いなる恩に報い感謝する事は、一日の修行の保持と成る。

 自己の身の命をかえりみる事なかれ。(自己の身の命を振り返る事なかれ。)

 動物的人間よりも愚かである、恩への愛着を惜しんで捨てない事なかれ。

 たとえ恩を愛着して惜しんでも、恩人は長年の友と成る事ができない。

 かすの様な家門に頼って留まる事なかれ。

 たとえ家門に留まっても、静かな「つい棲家すみか」、「死を迎えるまで住める家」ではない。

 古代から、仏祖は賢いので、皆、「七宝」、「七種類の宝」や千の様な多数の子を投げ捨てたし、宝玉で飾られた宮殿と「朱楼」、「富者の家」をすみやかに捨てた。

 仏祖は富を、涙や鼻水やつばの様に見たし、排泄物、排泄物で汚れた土の様に見た。

 富を排泄物の様に見るのは、古くからの、仏祖が仏祖の恩に報い感謝してきた、恩を知って恩に報いる手本、作法である。

 楊宝が助けた黄雀スズメですら恩を忘れず、(楊宝の子孫が四代に渡って清らかな人だったので、)黄雀スズメの生まれ変わりは恩に報いて感謝して楊宝の子孫を四代に渡って三公の位に就かせたという中国の逸話が有る。

 孔愉が漁夫から買って川に逃がして助けた亀ですら恩を忘れず、四回、左を振り返って川に去った亀は恩に報いて感謝して孔愉を余不亭の長官にした(ので、孔愉は亀の事を思い出して亀の印鑑を作らせたが、四回、作らせても、左を振り返る亀の姿の印鑑が納入された)という中国の逸話が有る。

 人のつらをしながら、(恩に報いず感謝せず、)動物よりも愚劣である事を悲しむべきである。

 今、法を見聞きできるのは、仏祖が各々、修行を保持してきた「慈悲」、「思いやり」による「恩恵」、「恵み」による物である。

 もし仏祖が仏法を単一に伝えなければ、どうして仏法が今日にまで至れたであろうか?

 仏法の一句を伝えた恩ですら報いて感謝するべきである。

 仏法の一つの法を伝えた恩ですら報いて感謝するべきである。

 まして、「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼を持たせる」、無上の大いなる法を伝えた大いなる恩に報いて感謝しないのか?

 仏法のために、一日でも、無量恒河沙の数の身の命を捨てようと願うべきである。

 仏法のために捨てられたしかばねを、世から世へ、私達は、礼拝し供養するべきである。

 仏法のために捨てられたしかばねは、諸々の天人と竜が、共にうやうやしく敬い尊重し、守護し、感心してたたえる物である。

 仏法のために捨てられたしかばねをたたえる道理とは、仏法のために捨てられたしかばねをたたえるのは必然だからである。

 久しく、西のインドでは、人の頭蓋骨を売買するバラモンの法が有ると耳にする。

 なぜなら、仏法を聞く耳が有った人の頭蓋骨や骸骨の功徳は大きい事を尊重するからである。

 今、仏道のために身の命を捨てなければ、「仏法を聞く耳が有った」という功徳には到達できない。

 身の命をかえりみないほど仏法を聞く耳が有った人は、聞き入れた法が成熟するのである。

 身の命をかえりみないほど仏法を聞く耳が有った人の頭蓋骨は、尊重するべきである。

 今、私達、仏道のために身の命を捨てなかった人の頭蓋骨は、将来、さらされて野外に捨てられても、誰が礼拝するであろうか? 誰が売買するほど尊重するであろうか?

 仏法のために身の命を捨てない今日の精神を反省して恨むべきである。

 生前の悪行のせいで天へ昇れなかった霊が自身の生前の骨を叩いて後悔したという話が有るし、天人が天人と成って天へ昇れた事を喜んで自身の生前の骨を礼拝したという話が有る。

 いたずらに肉体が死んで土のちりに化する時を想像すれば、肉体への今の愛着による惜しむ思いは無く成るし、肉体の死後への憐れみをもよおされる。

 もよおされるのは、死後の自身の肉体を見た人の涙の様であろう。

 いたずらに土のちりに化して人に嫌われる頭蓋骨を内に持つ肉体によって、善く、さいわいに、仏の正しい法と修行を保持するべきである。


 このため、寒さによる苦しみを恐れる事なかれ。

 寒さによる苦しみは、未だ人を破った事が無いし、未だ仏道を破った事が無い。

 ただ、修行をしない事を恐れるべきである。

 修行をしない事は、人を破るし、道を破る。

 暑さを恐れる事なかれ。

 暑さは、未だ人を破った事が無いし、未だ仏道を破った事が無い。

 修行をしない事は、よく、人を破るし、道を破る。

 「阿耆多王の馬麦」、「釈迦牟尼仏達が辱めを耐え忍んで阿耆多王から馬用の麦を受けた事」は仏道の人の優れた行跡であるし、伯夷と叔斉が殷の紂王という暴君の暴力を暴力で滅ぼした武王に抗議して山で隠者と成ってワラビなどを採取して食べていたが餓死したのは俗人の優れた行跡である。

 血を求めて乳を求めて動物的人間に習うべきではない。

 ただ、正に、修行を保持した一日は、諸仏の日常の行跡なのである。



 中国人初の祖師である正宗普覚大師と呼ばれる二十九祖の慧可は、天人と霊が共にしたう、仏道の人と俗人が同じく尊重する高徳の師であり、心の広い人である。

 慧可は、伊水と洛水の辺りに久しく居て、多くの書物を広く読んだ、中国でもまれな人であり、会い難い人である。


 慧可は法についての知と徳行を高く重ねたので、神の者が突然あらわれて慧可に次の様に言った。

「まさに果報を受けたいとほっするならば、どうして、ここに留まっているのか? 大いなる道は遠くない。あなたは『南』へ行くべきである」

 (「南」は中国より南のインドから来た達磨を意味するのかもしれない。)

 翌日、突然、慧可は刺す様な頭痛がした。

 慧可の師である洛陽の龍門の香山宝静が慧可の頭痛を治そうとした時、空中から声がして次の様に言った。

「慧可の頭痛は骨を換えている事による物であり、通常の頭痛ではない」

 ついに、慧可は神の者を見た事を香山宝静に話した。

 香山宝静が慧可の頭頂骨を視ると、達磨がいる蒿山を含む「五嶽」が抜きん出ている様に視えた。

 そのため、香山宝静は慧可に次の様に言った。

「あなたの骨相は幸福な吉兆である。『証』、『悟り』を得られるはずである。神の者が、あなたは『南』へ行くべきである、と言ったのは、蒿山の少林寺の達磨の事であり、必ず達磨は、あなたの師に成るであろう」

 香山宝静の言葉を聞いて、慧可は蒿山の少室峰の少林寺へ行った。

 慧可が見た神の者とは、慧可の久遠の仏道修行を守る仏道修行の守護神である。


 慧可が達磨の所へ行った時は、年末の冬がきわまった寒い冬の時であった。

 天候が大雨や大雪ではなくても、山の奥深く、山の高い場所の冬の夜は、想像するに、人が窓の前に立つべきではないほどであろう。

 竹ですら破裂する、恐れるべき寒さの時期の気候である。

 しかも、大雪が地を包囲して山を埋没させていた。

 慧可は、雪をかき分けて、仏道を求めた。

 どれほど険しく困難であった事か!

 ついに、慧可は達磨の部屋へと着くが入室を許されず、達磨は振り向いてくれない様であった。

 その夜、慧可は、眠らず、座らず、休まなかった。

 慧可が堅固に不動で立ったまま夜が明けるのを待っていると、夜、雪が無情にも降り注いだ。

 雪が積もって、慧可の腰まで埋まる間に、慧可の目から落ちた涙の一滴、一滴が凍った。

 慧可は、凍った涙を見て、更に涙を流した。

 慧可は、自身をかえりみる事をくり返した。

 慧可は、自ら、次の様に思考した。

「昔の人が道を求めた時は、

常啼菩薩は、自身の骨を叩いて髄を取って、自身の髄を法涌菩薩に捧げたし、

慈力王は、自身を刺して、血を、飢えた夜叉という悪霊に施したし、

釈迦牟尼仏は、前世で、燃灯仏のために、髪を敷いて泥を覆ったし、

釈迦牟尼仏は、薩埵王子であった前世で、『捨身飼虎』、『崖から身を投げて自殺して自身の死体を飢えた虎の親子に施した』。

古代人ですら道のために自身の肉体を惜しまなかった。

自身の肉体を惜しむなんて、私は何者か!」

 この様に思考して、道を求める強い意思をいよいよはげました。


 「古代人ですら道のために自身の肉体を惜しまなかった。自身の肉体を惜しむなんて、私は何者か!」というのを後進の人達も忘れないべきである。

 少しでも「古代人ですら道のために自身の肉体を惜しまなかった。自身の肉体を惜しむなんて、私は何者か!」という精神を忘れた時は、永劫に沈み溺れる事に成ってしまうのである。


 慧可は、「古代人ですら道のために自身の肉体を惜しまなかった。自身の肉体を惜しむなんて、私は何者か!」と自ら思考して、法を求める、道を求める、強い意思だけを募らせて行った。

 雪を払い除ける「みさお」、「意思の堅固さ」を当たり前の事とする事によって、寒さによる苦しみの中でも、法を求める、道を求める、強い意思だけを募らせて行けたのであろう。

 寒さが極まる、夜明け前の夜の状況を推測するに、勇気も砕かれるほどであろう。身の毛もよだつほど冷たく恐怖させられるばかりである。

 達磨は、憐れんで、夜明けの薄暗い時に「あなたは久しく雪の中に立ち、まさに、何事を求めるのか?」と質問した。

 達磨が、こう聞くと、慧可は悲しく成って涙をますます落として次の様に言った。

「ただ願わくは、和尚、慈悲によって、『中国の伝説の、天が降らす甘いつゆ』、『インド神話の不死をもたらす飲み物アムリタ』に例えられる、知への門を開き、広く多数の者を仏土へ渡してください」

 慧可が、この様に言うと、達磨は次の様に言った。

「諸仏の無上の妙なる道は、長い年月、休まず努力して、行い難い事をく行い、普通は忍耐しない忍耐し難い事を能く忍耐するのである。

どうして、矮小な徳行、矮小な智慧、軽率な心、慢心によって、真の知、真の教えを求めて得られるであろうか? いいえ!

矮小な徳行、矮小な智慧、軽率な心、慢心によって、真の知、真の教えを求めても得られない! 無駄に労苦するだけである」

 この時、慧可は、達磨の教えを聞いて、いよいよ心をはげました。

 そして、慧可が密かに鋭利な刀を取って自らの左腕をって達磨の前に置くと、達磨は慧可が仏法を与える事ができる器であると知った。

 達磨は、次の様に言った。

「諸仏が最初に道を求める時は、法のために、なりふり構わない。

あなたは今、腕を私の前でった。

あなたが法を求める事も、また、善い」

 それから、慧可は、秘奥に参入した。

 慧可は、八年間、達磨のそばで仕え、千も万も努力して労苦した。


 実に、慧可は、人と天人が大いに頼りにする者であり、人と天人の大いなる導師である。

 慧可の様な努力と労苦は、西のインドでも聞いた事が無く、東の地の中国でも初めてである。

 古代に、(釈迦牟尼仏が「拈華瞬目」、「華をひねって目を瞬かせた」時に、)初祖の迦葉は「破顔微笑」して初祖と成ったと聞いた。

 「(達磨という仏祖の)髄を得た」のは、「仏祖の髄の会得」は、二十九祖の慧可に学んだ。

 静かに想像して観ると、達磨が何千回、何万回、西のインドから中国へ来ても、もし慧可が修行を保持しなければ、今日、貧しい学徒は豊かに学べなかったであろう。

 今日、私達が正しい法を見聞きする仲間と成れた、慧可の恩には必ず報いて感謝するべきである。

 仏法以外の法によってでは慧可の恩に報いて感謝した事には当たらない。

 慧可の恩に報いて感謝するには、身体の命でも不足であるし、一国一城でも不足である。

 一国一城は、他人に奪われてしまう事が有るし、親子に譲ってしまう事も有る。

 身体の命は、「無常」、「変化」にゆだねてしまう事も有るし、主君にゆだねてしまう事も有るし、邪道にゆだねてしまう事も有る。

 そのため、身体の命と一国一城を捧げて、慧可の恩に報いて感謝しようとしても、道に反してしまう。

 ただ、正に、日々、修行を保持する事だけが、慧可の恩に報いて感謝する正しい道である。

 慧可の恩に報いて感謝する道理、正しい道筋とは、「日々の生命をなおざりにせず、私用に浪費しない」として修行を保持する事である。

 なぜなら、自身の生命は、古くからの修行の保持による恩恵の余波であり、修行の保持による大いなる恩恵である。

 急いで、過去の仏祖が修行を保持してくれた恩に報いて感謝するべきである。

 仏祖の修行の保持による功徳の分け前により生成されている「形」、「肉体」を、いたずらな妻子の下僕と成し、妻子による翻弄に委ねて、堕落を惜しまない事は、悲しむべきであるし、恥じるべきである。

 邪悪で狂愚な人は、身体の命を、名声や利益という羅刹という悪霊の食い物にさせてしまう。

 名声や利益は一人の大いなる賊(、盗人、殺人者)である。

 名声や利益を重んじるならば、名声や利益を憐れむべきである。

 「名声や利益を憐れむ」というのは、仏祖と成るべき身体の命を、名声や利益にゆだねて破損させない事である。

 妻子や親族を憐れもうとするならば、仏祖と成るべき身体の命を、妻子や親族にゆだねて破損させない事である。

 「名声や利益は『夢幻』や『空華』、『目がかすんだ人が見た空中の華』である」と学ぶ事なかれ。

 名声や利益を、大衆の様に学ぶべきである。

 名声や利益を憐れまないで、(肉体を名声や利益に委ねて破損させて、)罪の報いの罰を積む事なかれ。

 この様に、学に参入した正しくものを見る眼で「諸法」、「全てのもの」をあまねく見るべきである。

 この世の人の、情が有る人ですら、金銀財宝の恩恵をこうむったら報いて感謝する。

 心が有る人は皆、このましい善い真理の言葉や美辞麗句に報いて感謝しようという感情ではげむ。

 如来、釈迦牟尼仏の無上の正しい法を見聞きする大いなる恩恵をどの人が忘れて善い時が有ろうか? いいえ! 釈迦牟尼仏の無上の正しい法を見聞きする大いなる恩恵を人が忘れて善い時は無い!

 釈迦牟尼仏の無上の正しい法を見聞きする大いなる恩恵を忘れない事が、一生の貴重な宝と成る。

 釈迦牟尼仏の無上の正しい法を見聞きする大いなる恩恵を忘れないという修行の保持に不退転であった人の肉体や頭蓋骨といった骸骨には、生きている時も、死んでいる時も、同じく、「七宝」、「七種類の宝」で造られている塔に納めて、一切の人と天人が皆、捧げものを捧げるに相応ふさわしい功徳が有る。

 慧可といった仏祖の修行の保持による大いなる恩が有ると知ったならば、必ず、草の上のつゆの様にはかない命をいたずらに無駄にこぼして落とさず、山の様な徳に丁重に報いるべきである。

 慧可といった仏祖の修行の保持による大いなる恩に報いるとは、修行を保持する事である。

 慧可といった仏祖の修行の保持による大いなる恩に報いるための、修行の保持の功徳では、仏祖として修行を保持している私が存在しているのである。



 二十八祖の達磨と二十九祖の慧可は、「精舎」、「寺院」を建てず、雑草を刈るという忙しい務めが無かった。

 鑑智禅師と呼ばれる三十祖の僧璨と、大医禅師と呼ばれる三十一祖の道信も、「精舎」、「寺院」を建てず、雑草を刈るという忙しい務めが無かった。



 三十二祖の弘忍と三十三祖の大鑑禅師は、寺院を自らは建てなかった。

 三十四祖の青原の行思と南嶽の懐譲も、寺院を自らは建てなかった。



 三十五祖の石頭希遷は、草の屋根の小さな質素ないおりを大岩の上に建てて、岩の上で坐禅した。

 石頭希遷は、昼も夜も眠らなかったし、坐禅しない日が無かった。

 石頭希遷は、多くの務めを欠かさなかったが、日々の坐禅には必ず務めた。

 三十四祖の青原の行思の流れが、天下の世界に流通しているのと、人と天人に益をもたらしてうるおしているのは、三十五祖の石頭希遷の大いなる力による堅固な修行の保持による物である。

 今、雲門宗や法眼宗で心を明らめる所が有る人は、皆、三十五祖の石頭希遷の法の子孫である。



 三十一祖の道信は、十四歳の時に、三十祖の僧璨にまみえてから、九年間、労に服した。

 そして、道信は、仏祖の家風をいでから、六十年間近く、わきを床につけないで、寝ないで坐禅した。

 道信は、化の導きを敵対者にも親近者にもこうむらさせたし、徳を人と天人にあまねく及ぼした。

 三十一祖の道信は中国の四祖である。


 六百四十三年、中国の唐の二代目の皇帝の太宗は、三十一祖の道信の仏道の風味を受けて、三十一祖の道信の風体を見ようとして、三十一祖の道信に首都の長安へ来るよう命令した。

 道信は、三度、文書で謙遜し謝って辞退し、ついに、病気を理由に辞退した。

 太宗は、四度目に、使者に「もし結果として道信が来ないならば、(殺して、)道信の首を取って来い」と命令した。

 使者は、道信の山に至って、太宗の命令を道信に話して説得した。

 道信は、首を伸ばして、使者が持っていた剣の刃に首をつけた。

 道信の顔色は堂々としていた。

 使者は、三十一祖の道信の様子が尋常ではないと思い、長安に帰って、三十一祖の道信の様子を太宗に聞かせた。

 太宗は、いよいよ三十一祖の道信に感心して慕い、貴重なきぬを三十一祖の道信に与えて、皇帝という権力者に会う事を辞退するという三十一祖の道信の志を遂げさせた。


 三十一祖の道信は、「身体の命を(魂の真の)身体の命とせず、王や大臣に親近しない」として修行を保持した。

 「身体の命を(魂の真の)身体の命とせず、王や大臣に親近しない」という修行の保持には、千年に一度、会えるかどうかである。

 太宗は、正義感が有る、国の主であり、会うのは心が進まないという事は無いけれども、王などに親近しない先達の修行の保持が有ったと、学に参入するべきである。

 中国人の主である太宗は、首を伸ばして剣の刃に首をつけて身体の命を惜しまない人物である三十一祖の道信に感心ししたうのである。

 道信が肉体の命を惜しまなかったのは、いたずらな事ではなく、時間を惜しんで修行の保持を第一の事として専念したからである。

 道信が王に会うのを三回も辞退したのは、世にもまれな例である。

 現在の軽薄な終わりの時代には、自分から求めて権力者に会おうと願う人ばかりである。


 六百五十一年、道信は、突然、門人を戒めて「『一切諸法悉皆解脱』、『全てのものは解脱である』。

あなた達は各自『全てのものは解脱である』と心にまもって思うべきである。

『全てのものは解脱である』と未来に伝えて化して導くべきである」と言い終わると、坐ったまま亡くなった。

 七十二歳であった。

 破頭山に、道信の塔が建てられた。


 翌年、六百五十二年、道信の塔の戸が(物理的な)原因無しに自ら開いた。まるで生きている人が戸を開けた様であった。

 そのため、その後、門人は、あえて道信の塔の戸を閉じなかった。


 知るべきである。

 「一切諸法悉皆解脱」、「全てのものは解脱である」。

 「諸法」、「全てのもの」がくうに成るわけではない。

 また、「諸法が諸法ではなく成るわけではない」、「全てのものが、もの自体ではなく成るわけではない」。

 しかし、「全てのものは解脱である」のである。


 六百五十二年に道信の霊が塔の戸を開けたが、三十一祖の道信は、生前にも塔に入る前にも修行を保持したし、死後にも既に塔にいる時にも修行を保持したのである。


 生者は必ず滅ぶと誤って見聞きするのは、法の見方が矮小である。

 死者は思考や感覚が無いという知見に誤って至るのは、法の聞きかたが矮小である。

 道を学ぶには、誤って「生者は必ず滅ぶ」とか「死者は思考や感覚が無い」という矮小な見聞きのしかたを習う事なかれ。

 生者が滅ばない事も有るし、死者が思考や感覚を持っている事も有るのである。



 宗一大師と呼ばれる玄沙師備は、福州の閩県の人であった。「謝」家の人であった。

 玄沙師備は、幼い頃から釣りを好んだ。

 玄沙師備は、小船を南台江に浮かべて、諸々の魚の漁師に成った。

 八百六十四年、玄沙師備は、三十歳に成り、突然、俗世というちりを出る、出家を願った。

 そして、玄沙師備は、釣り船を捨てて、芙蓉の霊訓の所に身を投じて髪をり落とし、江西省の開元寺の道玄律師から出家者が守る大戒を受けた。

 玄沙師備は、布の袈裟をまとい、ススキ履物はきものき、わずかに気力をつなげるだけの食べ物を食べ、常に終日、坐禅した。

 他の僧達は、「玄沙師備の修行の保持は尋常ではない」とした。

 玄沙師備は、雪峰義存とは、もとは、同じ法門の兄弟弟子であった。

 しかし、玄沙師備は、雪峰義存の弟子であるかの様に、雪峰義存に親近した。

 雪峰義存は、玄沙師備の苦行を「頭陀」と呼んだ。


 ある日、雪峰義存は、「玄沙師備よ、『頭陀を行う僧』よ、あなたは何者か?」と質問した。

 玄沙師備は、「私は、ついに、あえて、人をだまさない」と答えた。

 別の日に、雪峰義存は、玄沙師備を呼んで、「玄沙師備よ、『頭陀を行う僧』よ、なぜ、法を尋ねるために、諸方を訪ねるために、去らないのか?」と質問した。

 玄沙師備は、「(中国へ来るために)二十八祖の達磨は東の地の中国へ来た訳ではない。

(法を伝えるために達磨は中国へ来た。)

(法を伝えられた)二十九祖の慧可は西のインドへ行かなかった」と答えた。

 雪峰義存は、玄沙師備の言葉を肯定した。


 ついに、玄沙師備は、雪峰義存が象骨山、雪峰山に昇った時に、雪峰義存と協力して寺を結び構えると、学の深い学徒が集まった。

 朝夕、変わる事無く、雪峰義存は、玄沙師備の部屋に入室して、質問し、結論に至っていた。

 諸方からの学の深い学徒の中で、結論に未だ至っていない事が有る人は必ず雪峰義存に教えを請い願ったが、雪峰義存は「玄沙師備に、『頭陀を行う僧』に質問しなさい」と言った。

 玄沙師備は、孔子の「論語」の「仁に当たっては、師にも譲るな」、「思いやる事では、師にも譲るな」、「慈善行為では、師にも譲るな」という言葉の通りにして、学徒へ教える事に努めた。

 玄沙師備の抜群の修行の保持が無ければ、雪峰義存が教育を玄沙師備に譲る行跡は無かったであろう。

 終日、坐禅するという修行の保持は、まれである修行の保持である。

 いたずらに人は色形や音声に奔走する事が多いが、終日の坐禅に努める人はまれである。

 今、後進の者としては、人生の残りの時間が少ない事を(正しく)恐れて、終日の坐禅に努めるべきである。



 長慶の慧稜は、雪峰義存の弟子の高徳の長老である。

 長慶の慧稜は、二十九年近く、雪峰義存と玄沙師備の間を行き来して学に参入した。

 長慶の慧稜は、二十九年近くの年月で、座布団、二十枚を坐禅して摩耗させて破った。

 千二百四十二年の人で、坐禅を愛する心が有る人は、長慶の慧稜の二十枚の座布団を坐禅して摩耗させて破った逸話を挙げて、古代人をしたう優れた行跡とする。

 長慶の慧稜をしたう人は多いが、長慶の慧稜に及ぶ人は少ない。

 そのため、長慶の慧稜の約三十年間の鍛錬は空しくは無く、ある時、長慶の慧稜は、夏用のすだれを巻き上げた時に突然に大いに悟った。

 長慶の慧稜は、約三十年間、郷土に帰らず、親族の所に向かわず、隣人と談笑せず、修行の保持を第一の事として専念して鍛錬した。

 長慶の慧稜の修行の保持は約三十年間である。

 長慶の慧稜は、約三十年間、疑ってとどこおった事を疑ってとどこおった。

 長慶の慧稜は、差し置く事ができない利発な素質の人であると言うべきである。大いなる素質の人であると言うべきである。

 修行の保持にはげむ志が堅固な人について、伝え聞く事ができるのは経典によって等であるが、

願うべき事を願い、恥じるべき事を恥とする人は、(経典の中で、)長慶の慧稜に会えるであろう。

 実を言えば、大衆は、ただ道心が無く、常日頃の行いが劣悪なので、いたずらに無駄に名声や利益に繋がれ縛られてしまうのである。



 大円禅師と呼ばれる大潙禅師と呼ばれる三十七祖の潙山霊祐は、三十六祖の百丈の懐海からの「授記」、「成仏の予言」を授かってから、ぐに高くけわしい潙山に行って、鳥や獣に交ざって、草の屋根の小さな質素ないおりを建てて、修練した。

 潙山霊祐は、風や雪といった困難による労苦によって断念する事が無かった。

 潙山霊祐は、とちの木の実であるドングリやくりの実を食べ物にてた。

 潙山霊祐は、寺といった大きな建物が無く、定住しなかった。

 けれども、潙山霊祐は、四十年間、修行を保持して形成して現した。

 後に、潙山には、天下の高名な聖地として、竜やゾウの様な高徳の僧達が諸方から集まった。

 寺が形成されて現される事を願っても、人々について思いを巡らす事なかれ。法の修行の保持を堅固にするべきである。

 修練していても、寺といった大きな建物が無いのが、古代の仏の道場である。

 古代の仏祖が露地で野宿し樹の下の家で寝泊まりしなかった家風は、遠く時代を超えて、聞こえている。

 潙山霊祐がいた所、潙山は、長い間、「結界」、「僧のための領域」と成った。

 まさに、一人が修行を保持すれば、諸仏の道場に伝わるのである。

 終わりの時代の愚者よ、いたずらに寺の建築に労苦する事なかれ。

 仏祖は未だ寺を願った事が無い。

 自己の「ものを見る眼」を未だ明らめずに、いたずらに寺を建築する人は、寺を諸仏に捧げようとしているのでは全く無く、自分の名声や利益のための巣窟にしようとしているのである。

 古代の潙山の修行の保持を静かに想像するべきである。

 「想像する」というのは、自分が今、潙山に住んでいるかの様に想像する事である。

 深夜の雨の音は、コケ穿うがつだけではなく、岩石を穿うがつ威力の音だっただろう。

 冬の雪の夜は、出歩く鳥や獣がいないほどだっただろう。

 まして、人々が自分を知る事が有ろうか? いいえ! 人々が自分を知る事は無い!

 命を軽んじて、法を重んじる修行を保持するのでなければ、不可能な生活である。

 草刈りもすみやかにできないほど雑草が繁殖している。

 土木を営まず、ただ修行の保持を修練して、道をわきまえる鍛錬をするだけである。

 憐れむべきである。

 正しい法を伝えられて保持している正統な祖師である三十七祖の潙山霊祐は、どれだけ山中のけわしさにわずらわされたであろうか?!

 潙山について伝え聞く所では、池が有り、川が有り、氷が重なり、霧が深く重なるそうである。

 普通の人が忍耐できる棲家すみかではないけれども、道と秘奥が化して導く事は明らかである。

 潙山霊祐の様な人が修行を保持してきた道の会得の仕方を見聞きする時に、気軽な身心で聞くべきではないけれども、修行の保持の労苦に勤めるべきである、仏祖からの恩へ報いるべきである事や仏祖からの恩へ感謝するべき事を知らなければ、気軽な身心で聞くのかもしれないが、心が有る後進の者が、潙山霊祐の古代の修行の保持を目前の現在の事の様に想像して、どうして潙山霊祐を憐れまない事が有るだろうか? いいえ! 潙山霊祐を憐れむ!

 潙山霊祐の修行の保持の道の力の化す導く功徳によって、世界を支えている「風輪」は不動であり、世界は破壊されず、天人達の宮殿は穏やかであり、人の国土も保持されるのである。

 私、道元は潙山霊祐の法の遠い子孫ではないが、潙山霊祐は仏教の中興の祖師である。



 後に、仰山慧寂は、潙山に来て、三十七祖の潙山霊祐のそばで仕えた。

 仰山慧寂は、もとは、三十六祖の百丈の懐海の所で、十の質問に百の答えができる、釈迦牟尼仏の十大弟子のうち知の第一人者の鶖鷺子シャーリプトラの様な人であったが、さらに、潙山霊祐のそばで仕えて、潙山霊祐という牛を三年間もる鍛錬をした。

 仰山慧寂の修行の保持は、近頃は、断絶し、見聞きする事が無い修行の保持である。

 仰山慧寂が潙山霊祐という牛を三年間もた修行の保持について、何かを言い得る事を人に求めても不可能である。



 芙蓉山の四十五祖の芙蓉道楷は、もっぱら修行の保持を形成して現した本源である。


 中国の皇帝が定照禅師という称号と紫色の衣を与えようとしたが、芙蓉道楷は受け取らずに皇帝へ文書を記して辞退した。

 中国の皇帝は、とがめたが、ついに、芙蓉道楷は受け取らなかった。


 芙蓉道楷の、薄いかゆという法の味が伝わっている。


 芙蓉道楷が芙蓉山にいると、百人近くの出家者と在家者が川の様に集まった。

 しかし、一日の食べ物が薄いかゆが一杯だけだったので、多くの人が去ってしまった。

 また、芙蓉道楷は、誓って、食べ物を求めて在家者の家におもむかなかった。


 ある時、芙蓉道楷は、僧達に次の様に言った。

「出家とは、ちりの様な俗世の徒労を嫌うために出家するのである。

生死を脱け出す事を求めて、心や雑念を休息し、えんにすがりつく事を断絶するので、出家と呼ばれるのである。

どうして、なおざりに私腹を肥やして生に没頭して善いだろうか? いいえ! 私腹を肥やして生に没頭するなかれ!

ぐに、両極端を手放し、中間もほうり下ろしなさい。

音声に出会っても、色形に出会っても、石の上に華を植えたかの様に、根づかない様にしなさい。

利益を見ても、名声を見ても、名声や利益は眼の中についたくずに似ているかの様に、洗い落としなさい。

まして、遠い過去から今まで、全ての物を経験しなかったわけではないし、また、全ての物の成り行きを知らないわけではない。

全ての物について、頭を変えて尾と成しているに過ぎない。

この様な物である、全ての物を、どうして、しきりに愛着してむさぼって善いだろうか? いいえ! 全ての物について愛着してむさぼるなかれ!

今、全ての物への愛着を止めなければ、いつ止めるのか?

そのため、古代の聖者は、人を教える時に、ただ、必ず、今という時間に全ての力を尽くさせて、全ての物への愛着を止めさせる。

今という時間で全ての力を尽くして全ての物への愛着を止めれば、心中には何事も無く成る。

もし心中で無事を得れば、仏祖への意識も敵と成る様な物である。

全ての物への愛着を止めれば、一切の俗世の物事に対して自然と冷淡と成り、初めて、あの、仏の心に相応ふさわしく成る。

あなたは見聞きしなかったか?

三十五祖の馬祖道一の弟子である、山で隠者と成ったので隠山と呼ばれる潭州龍山は、死に至るまで、あえて、人に会わなかった。

趙州真際大師は、死に至るまで、あえて、人に真理を告げなかった。

匾担は、とちの木の実であるドングリやくりの実を拾って食べ物とした。

大梅山の法常禅師は、ハスの葉を衣にした。

『紙衣道者』と呼ばれる克符は、ただ紙の衣を頭からかぶっていた。

玄太上座は、ただ、布を衣としてまとっていた。

石霜山の慶諸は、枯木で寺を建て、他の僧達と共に坐禅し、寝た。

ただ、自身の(悪い)心が死に果てる事を求めたのである。

投子大同は、米の処理は他の僧にしてもらったが、他の僧達と共に米を煮て食べた。

私事を省略する事を求めたのである。

この様に、諸々の聖者の手本が有る。

もし諸々の聖者の手本の苦行に長所が無ければ、どうして諸々の聖者は苦行に甘んじて取り組んだのか? 諸々の聖者の手本の苦行には長所が有る!

あなた達は、もし諸々の聖者の手本の苦行によって仏の心を体得すれば、欠点が無い人、完全な人と成れるであろう。

もし諸々の聖者の手本の苦行によって仏の心を体得しなければ、恐らくは、今後、力を深く浪費するだけであろう。

私、芙蓉道楷は、修行において、、長所が無いのに、かたじけなくも、寺の主である。

どうして、日々を浪費しながら古代の聖者から付属された法を忘れる事ができようか? いいえ! 日々を浪費しながら古代の聖者から付属された法を忘れる事はできない!

今は、古代の聖者が法に住み保持していた具体例を学ぼうとしている。

諸々の人と相談して、山を下りない事、食べ物を求めて在家者の家におもむかない事、人々に布施を求めない事を決定した。

ただ、寺の荘園に課した一年分の所得を、三百六十等分して、一日に一日分を取って用い、人数によって増減させない。

一日分の米で人数分の御飯を用意できれば、米を御飯にする。

米を御飯にすると不足するならば、米をかゆにする。

米を普通のかゆにすると不足するならば、米を薄いかゆにする。

新たに山に到達した僧とまみえる時は、御茶だけである。

しかも、御茶をれず、茶室を一つだけ用意して、自分で、茶室に行って御茶をれて飲んでもらう。

重要な事だけに務めて、他の諸々の関係を省略して、道をわきまえる事を第一の事として専念する。

寺は、生活については足りていて、風景は粗末ではない。

華は咲いて微笑む事を理解している。

鳥は鳴いて歌う事を理解している。

木は馬の様に音を鳴らす。

石は牛の様に善く動く。

遠くの緑の山は、かすんで、色が淡い。

耳元では、泉の音が無音に成る。

山上でサルが鳴く。

つゆは中天の月を湿しめらせる。

林でツルが鳴く。

風は、清らかな『あかつき』、『夜明け』に、松を巡る。

春風が起こる時、『枯木龍吟』、『枯木が竜の様に歌う』。

秋に、木の葉はしぼんで落ちる。

寒い林の木は花を散らす。

階段はコケの紋様を敷く。

人も顔にかすみを帯びる。

山では騒音も静かである。

山では動静は自然のままである。

大海の味が普遍に同一である様に、周囲の風景は物寂しくて、思考するべき事は無い。

私、芙蓉道楷は、今日、諸々の人達の面前で、仏教という家門を説いたが、上手く無かった。

しかし、どうして、堂に上ったり入室したりして、つちをひねって、害虫を払うための毛がついた棒である払子を立てて、怒鳴ったり棒で軽く叩いたりして、まゆり上げ目を怒らせて、発作ほっさを起こしたかの様に成るべきであろうか? ただ、自分より上の人達をおとしめてしまう、だけではなく、古代の聖者達の期待にそむいて失望させてしまう!

あなたは見聞きしなかったか?

二十八祖の達磨は、西のインドから中国へ来て、『少室山』、『嵩山』のふもとに到達して、九年、壁に向かって坐禅した。

二十九祖の慧可は、雪の中で立ち続け、腕を断つに至った。

慧可は辛い困難を受けた、と言うべきである。

けれども、慧可が腕を断つまで、達磨は何もしなかったし、慧可は一言も質問しなかった。

しかし、達磨は『人のために何もしない人』である、と言えるだろうか? 慧可は『師を求めなかった人』である、と言えるだろうか? いいえ!

私、芙蓉道楷は、古代の聖者達の行跡を説いて明らかにするたびに、地上に身を置く事ができないという感覚を覚えてしまう。

後世の人が軟弱である事を恥じる。

後世の人は、多数の珍味を仏に捧げてから自分の物にして、『私は、衣服、飲食物、寝具、薬という四事が足りてから、仏道に心する』と言う。

恐らく、後世の人は、手足の所作を変えられずに、一生、道から離れて去ってしまう。

時間は飛んでいる矢の様に速く過ぎ去ってしまう。

深く時間を惜しむべきである。

けれども、他人の長所に従って他人を仏土へ渡すのである。

私、芙蓉道楷が、あなたに強制的に教える事はでき得ないのである。

あなた達は、次の様な古代人の詩を見聞きしなかったか?


山の田の殻を取っただけで精白していない玄米の御飯という質素な食べ物。

野菜の淡い黄色の塩漬けという質素な食べ物。

食べるかは、あなたに委ねる。

食べなければ、あなたは身を『迷い』である『この世』に委ねる事に成る。


思いますに、同志達よ、各自、努力してください。

ご自愛ください」


 これが、代々の仏祖が単一に伝えてきた「骨髄」、「理解」である。

 高祖である四十五祖の芙蓉道楷の修行の保持は多いが、この一つの知を挙げる。

 今、私達は後進の者である。

 芙蓉道楷が、芙蓉山で修練した修行の保持をしたい、学に参入するべきである。

 これは、祇園精舎での釈迦牟尼仏の正しい手本でもある。



 洪州の江西の開元寺の大寂禅師と呼ばれる三十五祖の馬祖道一は、漢州什邡県の人である。

 三十五祖の馬祖道一は、十年余り、三十四祖の南嶽の懐譲のそばで仕えた。

 ある時、馬祖道一は、郷里に帰ろうとして途中まで至った。

 馬祖道一は途中で帰って南嶽の懐譲に焼香して礼拝すると、南嶽の懐譲は詩を作って馬祖道一に次の様に言った。

「君、馬祖道一に勧める。郷に帰る事なかれ。郷に帰れば、道が行われない。隣人の老婦人は、あなた、馬祖道一が俗世にいた時の名前を言うであろう」

 馬祖道一は、南嶽の懐譲の法の言葉をもらって、敬い、「私は、いつまでも、故郷に行きません」と誓って言って、故郷に向かって一歩も歩まなかった。

 馬祖道一は、江西にだけ住んで、十方の者達を来させた。

 馬祖道一は、わずかに「即心是仏」を言い得た他は、一つの言葉も人の為に言わなかった。

 けれども、馬祖道一は、南嶽の懐譲の正統な後継者であり、人と天人にとって命である。


 「郷に帰る事なかれ」という言葉は何か?

 「郷に帰る事なかれ」とは、どうあるべきか?

 東西南北へ、郷に帰るのは、ただ、自己への反逆である。

 実に、「郷に帰れば、道が行われない」のである。


 「道が行われない」のは「『郷に帰れば』なのか?」と修行を保持する。

 「道が行われない」のは「『郷に帰れば』ではないのか?」と修行を保持する。

 「郷に帰れば」、なぜ、「道が行われない」のか?

 道を行わない事が、道をさえぎる、とするのか?

 自己が、道をさえぎる、とするのか?


 「『隣人の老婦人』は、『あなた、馬祖道一が俗世にいた時の名前を言う者である』」とは言わなかった。

 「隣人の老婦人は、あなた、馬祖道一が俗世にいた時の名前を言うであろう」という、言葉の会得である。


 南嶽の懐譲は、どうして、言い得たのか?

 馬祖道一は、どの様にして、南嶽の懐譲の法の言葉を受け入れたのか?

 その道理とは、自身が南に向かって行く時は、大地も同じ南に向かって行くのである。

 自身が南以外の方向に向かって行く時も、大地も同じ方向に向かって行くのである。

 須弥山や大海を量として「そんなはずは無い」と疑い危ぶんだり、太陽と月と星々をはかって疑いとどこおるのは、矮小なものの見方である。



 大満禅師と呼ばれる三十二祖の弘忍は、黄梅県の人である。

 弘忍は、「周」家の人である。弘忍は、母の家名を名乗った。弘忍は、生まれた時には父がいなかったからである。例えば、老子が「李」家の人であると名乗った様に。

 弘忍が、七歳で法を伝えられてから七十四歳に至るまで、仏祖の「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」に住んで保持し、密かに袈裟と法を三十三祖の大鑑禅師に付属したのは、抜群の修行の保持である。

 弘忍が袈裟と法を神秀に知らせず三十三祖の大鑑禅師に付属したので、正しい法の寿命が不断なのである。



 道元の亡き師である、天童山の五十祖の如浄は、中国の越の近くの人である。

 如浄は、十九歳で仏教学を捨てて学に参入すると七十歳に及んでも、なお不退であった。

 中国の皇帝の寧宗は、紫色の衣と称号を如浄に与えようとしたが、如浄は皇帝へ文書を記して辞退した。

 そのため、十方の僧達は、共に、如浄を敬い尊重した。

 また、遠近の、学が有る者達は、共に、如浄の修行の保持を喜んだ。

 そして、かえって、寧宗は、如浄の修行の保持を大いに喜んで、御茶を如浄に与えるに留めた。

 如浄の修行の保持を知っている者は、世にもまれな事だと、たたえた。

 実に、如浄の修行の保持は、真実の修行の保持である。

 なぜなら、名声を愛着する事は、禁を犯すよりも悪い。

 禁を犯すのは、一時の誤りである。

 しかし、名声への愛着は、一生、重ねてしまう。くり返してしまう。

 愚かさによって、名声への愛着を捨てない事なかれ。

 学に暗くて、名声を受け入れる事なかれ。

 名声を受け入れないのは、修行の保持に成る。

 名声への愛着を捨てるのは、修行の保持に成る。

 六代の祖師などの各々に称号が有るのは、皆、死後に与えられた称号である。

 祖師の称号は、祖師が存命中に愛着した名声ではない。

 そのため、すみやかに生死する名声への愛着を捨てて、仏祖の修行を保持できる様に願い求めるべきである。

 名声を貪欲に愛着して、動物的人間に等しく成る事なかれ。

 重んじるべきではない自分を貪欲に愛着する思いは、動物にも有る。

 重んじるべきではない自分を貪欲に愛着する思いは、動物的人間にも有る。

 名声や利益を捨てる事は、人や天人でもまれであるが、仏祖で未だ捨てなかった人はいない。

 ある人は、誤って「全ての生者に益をもたらすため、名声や利益を貪欲に愛着する」と言うが、大いなる邪悪である。法に付きまとおうとする外道である。正しい法の悪口を言う「魔」、「仏敵」の党派者である。

 仏敵の党派者の言葉通りであれば、名声や利益をむさぼらない仏祖は、生者に益をもたらさないのか?

 仏敵の党派者を笑うべきである。笑うべきである。

 また、むさぼらない事によって生者に益をもたらす事が有る。どうだ?!

 生者に益をもたらす手段が、どれだけ有るか学ばずに、生者に益をもたらさない事を「生者に益をもたらす事である」と嘘をつく人は、「魔」、「仏敵」のたぐいである。

 仏敵の党派者のおかげで利益をむさぼれた生者は、地獄に堕ちるたぐいの人である。

 仏敵の党派者は、一生が暗い事を悲しむべきである。

 無知蒙昧な事を「生者に益をもたらす事である」と嘘をつくなかれ。

 そのため、皇帝からの称号の授与を皇帝へ文書を記して辞退するのは、古代からの優れた行跡である。

 後進は学に参入して究めるべきである。

 道元は、目の当たりに、亡き師である、如浄を見たが、真の人に出会えたのである。

 如浄は、十九歳から郷を離れて師を訪ね、道をわきまえる鍛錬に六十五歳に至っても不退転であった。

 如浄は、最高権力者に親近せず、最高権力者に会わず、権力者に親近せず、役人に親近しなかった。

 如浄は、紫色の衣と称号を辞退しただけではなかった。

 如浄は、一生、まだら模様の袈裟をまとわず、常日頃、堂に上ったり入室したりする時は、全て、黒い袈裟や黒い裰子を着た。

 如浄は、僧達に教訓として次の様に言った。

「坐禅と仏道の学に参入するには、道心を持つ事を第一とする。

道心を持つ事は、道を学び始める第一歩と成る。

二百年前の、千年頃から、祖師の道はすたれている。

悲しむべきである。

まして、真理の一句の言葉を会得した皮袋である人は少ない。

私、如浄が、昔、径山に留まっていた時、光仏照が当時の寺の長の僧であった。

光仏照は、堂に上って、次の様に誤って言った。

『法、坐禅、道では、必ずしも他人の真理の言葉を求めるわけではない。ただ、各自、ことわりを会得しなさい』

光仏照は、この様に誤って言って、寺の中を全く監督せず、また、僧達、兄弟弟子を全く監督せず、ただ、客と会う事を追い求めるばかりであった。

光仏照は、特に、法の重要な点を知らず、ひとえに、名声や利益を貪欲に愛着するばかりであった。

もし法が各自でことわりを会得する代物であれば、どうして、師と道をたずねる、きりの先が使い古されて丸く成る様に円熟した長老がいるのか?

まことに、光仏照は、禅に参入した事が無いのである。

今、諸方の、道心が無い老僧どもは、光仏照の弟子である。

どうして法が如浄以外の人の手中に有り得ようか?

残念、残念」

 如浄は光仏照を非難し、光仏照の弟子どものうち、如浄による光仏照への非難を耳にした者は、多かったが、恨まなかった。

 また、如浄は、次の様に言った。

「禅に参入するとは、(古い)身心を脱ぎ落とす事である。

焼香、礼拝、念仏、懺悔ざんげの修行、経をる事を用いず、ひたすらに坐禅して初めて得られる」

 実に、千二百四十二年に、中国の諸方で、禅に参入したと名乗り、祖師の法の遠い子孫を名乗る皮袋である僧は、百人や二百人だけではないが、稲、麻、竹、アシの様に多数いても、打ち坐る人を打ち坐る事に勧誘する人は、絶えて、風の噂にも聞かない。

 打ち坐る人を打ち坐る事に勧誘する人は、天下世界の中で、天童山の如浄だけである。

 諸方の僧達は同じく如浄をほめるが、如浄は諸方の僧達をほめなかった。

 また、如浄について全く知らない寺の主もいた。

 千二百四十二年に如浄について知らない人は、中国に生まれたといえども、動物的人間のたぐいである。参入するべき人に参入せず、いたずらに時間を無駄にするからである。

 憐れむべきである。

 如浄について知らない輩は、疑わしい道についての説を騒がしくするのを仏祖の家風と誤認している。

 如浄は、日頃、次の様に、普遍に説いていた。

「私、如浄は、十九歳から千二百二十七年の今まで、あまねく諸方の寺を訪ねたが、人のための師はいない。

十九歳から千二百二十七年の今まで、一日一夜も、座布団を離れて坐禅しなかった日夜は無い。

寺に住む前から今まで、故郷の人と語ったりした事は無い。

時間が惜しいからである。

寺に留まっても、寺の中、寮舎に全て入って見て回る事はしない。

まして、風景を遊んででる事に鍛錬を浪費した事は無い。

僧堂という正式な場所での坐禅の他に、建物の上や、仕切りや垣根で囲まれた様な隠れ場所を求めて、独りで行って、穏やかな場所で坐禅する。

常にそでの中に小さな座布団を携帯して、岩の下でも坐禅する。

常に、釈迦牟尼仏が坐禅した金剛石ダイアモンドの様に硬い『金剛座』を摩耗させて破るくらい坐禅しよう、と思っている。

これが目標である。

臀部でんぶの肉がただれてしまう事も時々有るが、逆に、いよいよ坐禅を好んだ。

今年、千二百二十七年で、六十五歳に成る。

老いて頭も衰え、坐禅を完全には会得できていないが、十方の『兄弟』、『同胞』を憐れんで、山の寺の主と成り、諸方から来る人をさとし教え、生者のために道を伝えている。

諸方の老僧どもには、どこに、どんな似非えせ仏法が有るか、わかった物ではないからである」

 この様に、如浄は、堂に上って普遍に説いた。

 また、如浄は、諸方から来た僧達から土産を受け取らなかった。


 趙提挙は、中国の皇帝の寧宗の子孫である。

 趙提挙は、明州軍を率いる明州の知事であり、管内の勧農使でもある。

 趙提挙は、如浄を招いて、明州の役所で、法を説いてもらい、銀貨一万鋌を布施しようとした。

 如浄は、法を説いた後に、趙提挙に向かって、次の様に言って、布施を断わった。

「私、如浄は、いつもの様に、山を出て、法を説き、『正法眼蔵涅槃妙心』、『正しくものを見る眼と寂滅した妙なる心』を開演しました。

つつしんで、趙提挙の亡き父の御冥福をお祈りいたします。

ただ、銀貨は、あえて、受け取りません。

僧は、この様な物を必要としません。

たくさんの布施は、今まで通り、御返しします」

 趙提挙は、次の様に言った。

「如浄様。私、趙提挙は、かたじけなくも、皇帝陛下の親族なので、至る所で貴ばれて、財宝をもらう事が多いのです。

今日は、父が亡くなった日なので、亡き父の冥福に役立てたいとほっしたのです。

如浄様、どうして納めてくれないのですか?

今日は、ありがとうございました。

『大いなる慈悲』、『大いなる思いやり』によって、小さな布施を手元に留めてください」

 如浄は、次の様に言った。

「趙提挙様の命令は厳守する必要が有るので、あえて謙遜して謝って辞退しているわけではないのです。

道理が有るのです。

私、如浄は法を説きましたが、趙提挙様は法を悟って法を聴いて法を会得できたかどうか」

 趙提挙は、「私、趙提挙は、如浄様から法を聞けて嬉しかったです」と言った。

 如浄は、次の様に言った。

「趙提挙様は、聡明で、私、如浄の言葉を聞いて下さいました。

恐縮です。

望むのは、趙提挙様の亡き父の御来臨と御冥福です。

さて、私、如浄は、法を説いた時、どんな法を説く事ができ得ましたか?

試しに、言ってみてください。

もし言い得たら、銀貨一万鋌を受け取ります。

もし言い得なかったら、銀貨を返すので、趙提挙様は受け取ってください」

 趙提挙は、立って、如浄に向かって、「思いますに、如浄様の法の様子は、所作が、ありがたい物でした」と言った。

 如浄は、次の様に言った。

「趙提挙様の、その言葉は、私、如浄が法を説いて挙げて来た奥底です。

では、趙提挙様が、聴いて会得した奥底とは、どんな物ですか?」

 趙提挙は、とまどった。

 如浄は、「趙提挙様の亡き父への冥福の祈りは円満に成就して終わりました。布施については、少しの間、趙提挙様の亡き父の判断を待ちましょう」と言って、去る事を趙提挙に請い願った。

 趙提挙は、「如浄様が布施を受け取らない事を恨みません。如浄様に会えて嬉しかったです」と言って、如浄を送った。

 浙東と浙西の仏道の人と俗人の多くが、たたえた。


 この事は、平侍者の日記に記されている。

 平侍者は「如浄の様な人は、得難い人である。どこで、容易に、見る事ができ得ようか?」と言っている。


 諸方で、銀貨一万鋌を受け取らない人が、誰かいるだろうか?


 古代人の仏祖は、「金銀、宝玉を見る時は、排泄物、排泄物で汚れた土の様に見るべきである」と言っている。

 たとえ、金銀を金銀として見てしまっても、金銀を受け取らないのは、「僧の家風」、「仏教の家風」である。

 如浄には、銀貨を受け取らない仏教の家風が有った。

 千二百四十二年の僧達には、金銀財宝を受け取らない仏教の家風が無い。

 如浄は、次の様に、常に言っていた。

「三百年前の、九百年から千二百年の今まで、私、如浄の様な善知識を持つ者は未だ出現していない。

諸々の人達よ、明確に詳細に道をわきまえる鍛錬をしなさい」



 如浄の会にいた、西蜀の綿州の人である、道昇という人は、道教の人であるが、仲間の五人と共に、誓って、「私達は一生の間に仏の大いなる道をわきまえて理解しよう。郷土に帰らない様にしよう」と言った。

 如浄が、道昇達の善言と善行を喜んで、歩く時も、道の業を修行する時も、道昇達を僧達と共に一緒にさせ、道昇達を女性の出家者の下に置いたのは、世にもまれな優れた行跡である。



 福州の僧の善如は、誓って、「私は一生、南に向かって一歩も移動しない。もっぱら仏祖の大いなる道の学に参入しよう」と言った。



 如浄の会には、この様な正しい人達が多数いて、道元は目の当たりに見た。

 如浄以外の所には正しい人はいなかったが、これが、千二百四十二年の中国人の僧がむねとしている修行の保持である。

 私達、日本人には、この心構えが無い。

 悲しむべきである。

 仏法に出会っても、なお、日本人には心構えが無いのである。

 仏法に出会っていない時の身心は、恥じ足りない。

 静かに想像するべきである。

 一生は長くは無い。

 たとえ、「『三三両両』でも」、「わずかでも」、仏祖の言葉を会得したら、仏祖の道を会得した事に成る。

 なぜなら、仏祖は身心が唯一である。

 仏祖の言葉は、一言目も二言目も、全てが、仏祖の暖かい身心である。

 仏祖の身心が来て、私の身心を理解する。

 まさに、私が道を理解した時は、私の理解が来て、私の身心を理解する。

 今のこの生で、生を重ねてきた身心を理解するべきである。

 そのため、仏祖と成った時に、仏祖を超越するのである。

 修行で保持している、「三三両両の」、「わずかな」真理の言葉は、仏祖の身心である。

 いたずらな、無駄に成る、色形や音声に過ぎない、名声や利益のために奔走する事なかれ。

 名声や利益のために奔走しなければ、仏祖が単一に伝えている修行の保持と成る。

 大いなる真の隠者にも矮小な未熟な隠者にもすすめると、一つだけでも、半端でも、万事を投げ捨てて、万の多数のえんを投げ捨てて、修行を保持して、仏祖の修行を保持しなさい。



 正法眼蔵 行持(修行の保持)


 千二百四十二年、観音導利興聖宝林寺で書いた。

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