第4話

 勇者を家に入れてから二時間ほど経った頃、イリナは膝を抱えてただじっと座り込んでいた。視線の先には、血だらけの服を脱がせて応急処置を施された少年が横たわっている。彼に蓄積されていた疲労は大きかったようで、しばらくは目覚める気配がない。


 イリナはポケットからナイフを取り出してみた。

 意識がない今なら、先ほどまでよりも簡単に、そして確実に殺せるだろう。


 しかしながら、森で知らせを受けた時からずっと彼女を突き動かしていた鋭利な殺意は、今はもう完全にそがれていた。イリナはため息とともにナイフをしまうのだった。


「なんでだろ」

 イリナは、白い縫帯にうっすらと血の色がにじむ少年を見つめながら、一人つぶやく。


 なぜ、殺せなかったのか、なぜ、殺したいはずの勇者を看病してしまっているのか。

 わからない。


 いや本当は理由など分かっている。記憶の中の憎い相手とは似ても似つかなかったから、既視感を感じてしまったから、あの時と。


 暗い記憶に襲われそうになったイリナは、かぶりを振って、少年のそばから逃げるように家を後にした。




 


 あてもなく家を飛び出したイリナは、森の中でかごを置きっぱなしにしていることを思い出し、取りに行くことにした。


 日が傾きだして橙色に染まった森の中では、薬草が半分入ったかごがそのまま放置されていた。

 植物を切り取ったときからは時間が経ちすぎており、かごの周りにはつんと鼻を突くような独特の苦い香りが漂っていた。


 イリナは、野草特有の匂いに顔をしかめながらも、座って肩紐に腕を通し、立ち上がろうとした。しかしながら、


「おわっ、とと」

 イリナは体勢を崩し、ぺたん、と音を立ててしりもちをついてしまった。幸い地面は雑草でおおわれていたためどこも痛みはなかったが、普段の半分ほどの荷物でこけてしまったことに驚く。


「はは、は」

 イリナの口から自然と乾いた笑いがこぼれた。どうやら彼女はこの数時間で、自身が思っていた以上に気が滅入ってしまっていたらしい。



 イリナが再び立ち上がろうとしたときだった。また、聞き覚えのある足音と、鈴の音が聞こえた。


「おっ、いたいた」

「……どこかで私のこと監視してたんじゃないでしょうね」

「?」

「なんでもない。それで、今度は誰からの伝言?」

 偶然にも二度、イリナが立ち上がる瞬間に現れた青年は、その絶妙な間のせいで自身が不名誉な疑いをかけられたことなど知る由もない。


「聞き捨てならん言葉が聞こえた気がしたがまあいい。伝言は特にない」

「だったらどうしたの」

「イリナ、大丈夫か」

 イリナの問いに青年は間髪入れずに聞き返す。


「……大丈夫よ」

 イリナはそう答えた。


「文脈が理解できて会話が成り立つってことは、お前、やっぱり無理してるな?」

「そんなこと……」

「大人をなめるなよ?お前の様子がおかしいことくらい見ればわかる。それに普段なら、『今度こそ本気で頭でも打った?正直に言いなさいよ、どの娘にみとれてたの』くらいは冗談言ってくるだろう」


 そんなことはない、とイリナは言おうとして、青年の言葉を否定できないことに気づき黙りこんだ。


 返す言葉がないイリナの様子を見て、はぁー、と息をつきながら、なおも青年は続ける。

「ほれみろ、そもそもお前、二年前からずっと無理してるだろ。しっかりしてませててもお前はまだ十三のガキなんだ。ガキはガキらしく大人に甘えろ」

 言葉こそ乱暴だが、青年の声は実に穏やかだった。


「ガキガキうるさい……」

「ああ悪かったよ。でもな、なにも一人で抱え込む必要ないんだよ。お前だって気になってるんだろ、あの勇者が。」

「……」

「お前や長老と話してるのを見てて思ったさ。勇者のくせに、俺たちと対等に、平和的に交渉してくるなんてどうかしてる。それにこっちが威嚇しても、反撃なんて頭にもなかったみたいだしな」

 思い返せば、少年は一度たりとも腰に佩いた剣に触れることはなかった。


「馬鹿みたいに人が良すぎだな、あいつ。あのクソ野郎と同じ存在とは思えねえよ。それこそ、おまえの兄貴―」

 勢いでつい口にしてしまった言葉に青年は、しまった、という表情をした。


「それ以上は、言わないで」

「……すまん」


 それ以降二人の間に沈黙が流れる。


 しばらくしてからイリナが口を開いた。

「とにかく、気遣ってくれてありがとう。早くしないと日が暮れるから、帰る」

「送っていこう」

「いい。……できれば一人にしてほしい」

「……わかった、なら俺はしばらくしてから帰ることにする。気をつけろよ」

「うん。ありがとう」


 しおらしくそう言ったイリナを、青年はただ静かに見送る。


 


 励まそうとして、彼女の空元気までも失わせてしまった己の迂闊さを、青年は呪うのだった。


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