三十八話

 永正二年五月中旬、細川尚春ほそかわひさはるを総大将とする五千の船団が淡路湊城みなとじょうから出航した。

 目指す先は讃岐である。

 十河そごうらの都合の良い内応の話に一抹の不安を抱えつつも、敵地に有利な地形を持つ阿波よりも讃岐を戦場に選んだのである。

 淡路から讃岐への海路の旅は遠くもないが近くもない。

 エンジンの無い時代の船は風と潮、そしてを頼りとする。

 現在では2時間や1時間程度で到着する航路も1日を掛ける必要があった。

 尚春らの軍勢は小豆島の坂手に一日掛けて入港し、そこで軍議を開いてから高松の浜に上陸する予定としたのである。

 

 尚春らの軍勢が海路小豆島しょうどしまに向かって出港したのを撫養城むやじょうでは城主の撫養掃部助むやかもんのすけやぐらの上から見守っていた。

 掃部助は福良ふくらから海路、大毛島おおげしまに上陸して来るものとばかりに思っていたので、讃岐に向けての出航は予想外で大慌てした。

 阿波家の殆どの将は敵が鳴門に上陸すると思い込んでいるのである。

 讃岐の諸将も警戒はしているだろうが、予想外の敵の動きには狼狽して不利になりかねない。

 掃部助は転がり落ちるように慌てて櫓を降りると総大将の三好之長にこの事を報告したのである。

 ところが之長は報告を聞いても涼しい顔で


 「動いたか。ご苦労である。」


 そう言って特に慌てる風でもなく、一人碁盤の前で黙々と囲碁の手筋を勉強していたのである。


 「敵勢は讃岐に向かわれたのですぞ?お味方に急ぎ早馬を送り、後詰せねばならぬのでは?」


 掃部助が急かしてみたが之長は


 「まあ待て」


 と言って敵勢の動きに全く興味が無さそうに囲碁に興じていた。

 そのような之長の態度を掃部助はいきどおると聞こえよがしに大きくため息を付いて


 「ああ、拙者、若き頃から長きに渡り殿にお仕えして、殿と共に幾多の戦場を駆け巡り勝利する事、数十度、此度の戦も負けぬものと思っておりましたが、殿は既に勇衰え、知恵は枯れ果て申したか。時の流れとはなんとも無惨むざん、なんとも悲しきものでしょうや。」


 とわざとらしく泣き真似をしだしたのである。

 之長は掃部助がため息を付いたときから笑いを堪えていたが、最後の泣き真似を見て、ついに我慢ず吹き出してしまい、声に出して大笑いしてしまった。


 「何をお笑いなさる!お味方一大事に囲碁なんぞに興じる御方を見て、嘆かざるは忠臣ではあるまい。拙者三好家の家老として殿をお諌め申しておるのじゃ。嘆かわしきことぞ。」


 掃部助は之長が大笑いする姿に、蛸みたいに顔を真赤にして怒り狂うと自らの太ももをパシパシと叩いたため、気持ちの良い音が室内に響き渡る。

 そんな怒りに狂った掃部助の姿も滑稽だったが、之長はこれ以上笑い続けると掃部助の血の巡りが悪くなって倒れてしまうかも知れないと案じて、なんとか笑いを抑え込むと


 「もう良い、そなたの志は我が胸の奥までしっかりと届いたわ。」


 之長が涙目を直垂ひたたれそでで拭きながらそう言うと、掃部助が怒りを収めて胸を張った。


 「ようやく儂の言葉が殿の胸に響いたか、では後詰めの準備をせねばならぬな。」


 掃部助はそう言って急ぎ後詰めの準備をしようとするが、之長は慌てて引き止めると


 「待て待て、掃部、準備は良いが、出陣の準備は長秀に任せ、そなたは水夫かこたちに今夜の出航を準備させよ。海がいでおる故、今夜は水夫に活躍してもらわねばならん。事前に食事と昼寝でもさせておけ。」


 讃岐に後詰めに行くのに水夫の準備とはなんぞと掃部助は不思議そうにしていたが、もしや小豆島を急襲するのかも知れぬと思い返すと急ぎ船の準備に飛び出したのであった。

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