第6話 咀嚼音(1)~クチャクチャの記憶
その男が最初に「幻」に来たのは、雨が降ったり止んだりの午後だった。
季節は、桜前線が東京を通過した頃。
カウンターの一番奥に座って、「コーヒー、ひとつ」って、それだけ。
背格好は中くらい。たぶん、身長170ってとこ。
スーツの肩がちょっと落ちてて、ネクタイもゆるくてね。
仕事帰りっていうより、どっか途中でやる気がなくなった感じのスーツだった。
コーヒーを出して、私がカップを拭いてると、
ぽつりと、こんなふうに言った。
「娘に泣かれたんです」
……唐突すぎて、スポンジを握ったまま止まってしまった。
。。。
娘さんは元・コンサルタント。いわゆる、かっこいいキャリア系の女性らしい。
コロナ禍を機に事業を始めて、結婚して、妊娠して。
久々に実家に戻ってきた、って話だった。
いい話のように聞こえるだろうけど、彼の語り口はずっと沈んでてね。
「家に着いた娘が、開口一番こう言ったんですよ。
『パパ、今妊娠してて過敏になってるから、食べる時にクチャクチャ音立てないでね』って」
……笑い話になると思った。最初は。 でも、彼は笑わなかった。
。。。
「妻からも前に言われたことがあったんです。
“あなたの咀嚼音、娘は昔からダメみたいよ”って。
でも、まあ、冗談だろうと思ってたんですよ」
その日、夕食後にソフトクリームをすすめられて、
テレビを見ながら何気なく食べてたらしい。
そのとき、妻が急に言った。
「クチャクチャ食べるのやめてくれる? 娘が泣いて苦しんでるのよ」
彼は、一瞬意味がわからなかったらしい。
振り返ると、娘さんがソファーで苦しんでいた。
顔をゆがめて、泣いていた。口を押さえて。
「自分では、そんなに音を立ててるつもりなかったんです。
それなのに……そんな顔をされるなんて、思ってもみなかった」
。。。
言葉が見つからなかったんだろう。彼は、ずっと俯いてた。
「水を飲んで、口の中を流したんです。いや、洗ったって感じですね。
甘さも味も残ってる気がして、無性に、全部消したくなった」
そんなふうに言いながら、コーヒーを飲んだ。ぬるくなってたのに。
「俺、子育て間違えたんでしょうかね」
私は何も答えなかった。
いや、答えることが出来なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます