十二章 新たな商い

一 決断

 葉月(八月)一日、快晴の日和だ。

祝言後の挨拶まわりが終り、藤五郎と多紀、そして亀甲屋はいつもの日常に戻った。


「藤五郎さん」や「若旦那様」と呼ばれていた藤五郎は、本格的に「旦那様」と呼ばれ、多紀は「御内儀様」や「女将さん」と呼ばれるようになったが、藤五郎と多紀が行う事は、これまでと変りなかった。藤五郎は今までの様に亀甲屋の商いに精を出し、多紀はこれまでの上女中と同じ仕事をこなしている。


 しかしながら、馬喰町界隈を仕切る香具師の元締め藤代が、香具師たちの積立屋と損料屋を仲介するようになり、藤五郎は亀甲屋の薬種問屋と、越前松平家下屋敷留守居役松平善幸の商いの下請けに専念できるようになった。亀甲屋の薬種問屋は、薬種屋やくしゅや(薬剤の小売り)も営んでいる。



 昼四ツ(午前十時)。 

 奥座敷の座卓で大福帳を確認している藤五郎はふと奥庭に目を向けた。眩い陽光に離れが輝いて見えるような気がした。


 奥庭の離れは藤裳が他界して以来、時折、多紀が掃除するだけで開かずの間に等しい。香具師たちの話を聞くために設えた裏木戸も閉まったままだ。

 閉ざされた離れは俺のようだ・・・。


 これまで離れを見る度に、藤五郎は亡き妻の藤裳と娘の美代を想い涙を流したが、今は悲しみに包まれることなく、離れを見れるようになっていた。

 藤五郎は、多紀が上女中だったときから、多紀によって心が和らいでいるのに気づいた。


 今、多紀さんが俺の妻だ・・・。

 いつまでも、亡き藤裳と美代と家族の想い出に浸っていては、多紀さんに隠し事をしているのと同じだ・・・。

 離れを開けて、俺の思いを解き放とう。藤裳と美代と家族の記憶と共に・・・。

 奉公人を守り、流行病に苦しむ者を救い、裏木戸を開け放って香具師たちを守らねばならない・・・。

 藤代に積立屋と損料屋を任せ、両替屋も行おう・・・。

 働かずして利鞘を儲けるなど以ての外だ、と思っていたが、銭金ぜにかねがなければ薬剤は手に入らぬ。両替屋で得た利鞘を薬剤を仕入れる元手にすれば、病に苦しむ者のためになる・・・。


「多紀さんっ。離れを開けてくれっ。

 裏木戸を開けて、裏からも客が入れるようにしてくれっ」

 藤五郎は妻の多紀を呼んだ。


 店の座敷から、

「はあいっ」

 活き活きとした多紀の声がする。


 離れを開けてくれ、との藤五郎の声を聞き、多紀は安堵した。


 やっと旦那様が離れを開く気になった。旦那様が心を開いた証だ。これで旦那様はすこやかになる・・・。

 旦那様の商いが、抜け荷の咎を着せられる裏商いにならぬよう口添えするにはどうすれば良いか・・・。

 裏木戸を開けて裏から客が入れるようせよ、とは、積立屋と損料屋を再開するのか・・・。

 藤代さんが、香具師たちの積立と商売道具の貸し出しを仲介して御店の積立屋と損料屋に出入りしている・・・。

 旦那様は何をする気か・・・。


 多紀は見ていた大福帳を片付けて店の座敷を立ち、外廊下へ歩いて渡り廊下を渡り、離れへ行った。

 既に藤五郎が渡り廊下を渡り、離れから奥庭に降りて裏木戸の傍に立ち、離れを眺めていた。


「多紀さん。この離れで両替屋を開こう。土蔵の金蔵も近い。離れと裏木戸の周りに警護を配置して両替屋を守らせるのだ」


「それは・・・」

 多紀は驚いた。

『働かずして利鞘で儲けるなど、そんな悪辣あくらつな両替屋などできぬ』

 と言い続けていた藤五郎だ。

 いったい、旦那様は何をする気か・・・。


「両替屋の利鞘で儲けた銭金を薬剤の仕入れに充てる。

 亀甲屋の薬種問屋を本格的な薬種屋にし、流行病に苦しむ者たちが一人でも多く、安い薬を得るようにしたい。

 御上も行わぬ事を成すのは、間違っているだろうか」


 多紀は藤五郎の説明に納得した。

「いいえ。良い事だと思います」


「では、両替屋をどのように切り盛りすれば良いか、多紀さんの智恵を貸してください」

「えっ」

 多紀は藤五郎の言葉に驚きを隠せなかった。


「驚かなくていいですよ。多紀さんが思うことを何でも話してください。

 多紀さんの前だから、「私」なんて畏まらずに、「俺」と言うよ。

 俺はずっと亀甲屋の商いと香具師の商いを見ていろいろ憶えてきたから、亀甲屋の問屋としての御店おたなの商いと、香具師の辻売りの商いしか知らない。

 多紀さんから見て、どのような両替屋が繁盛すると思うか、考えを聞かせて欲しい。

 どんなことでもいい。多紀さんの思ったことを話してください」

 藤五郎はじっと離れを眺めながらそう言った。


 旦那様は離れを見てるが、心は離れにはない・・・。

 離れを、積立や商い道具を借りに来る香具師相手や、銭金を借りに来る客相手の、商いの場にする気なのだろう・・・。

 だけど、香具師といっても、今は紛れもない正統な亀甲屋の客。もはや、裏木戸から入れて旦那様が香具師の頼み事を聞くような、後ろめたい思いを香具師にさせるのではなく、御店の暖簾を潜らせて御店で客として扱わねばならない・・・。

 そう思って多紀は藤五郎を見詰めた。

「商いは、仕入れた品を仕入れ値より高い値で商う事、と思います。

 人目を避けてなさる商いは、いずれ破綻するように思います」

 多紀は、香具師たちを正統な客として扱うよう、そして、藤五郎の薬剤の仕入れ方法が抜け荷の咎を着せられぬよう、釘を刺した。


「はい」

 藤五郎は、多紀が考えるている事がわかり、離れを見詰めながら次の言葉を待った。


「両替屋は、元手金の銭金を貸し、貸した銭金に金利を上載せして返して貰う商いです。

 積立屋と両替屋を離れに設け、客を裏木戸から入れていたのでは、亀甲屋の繁盛を妬み、

『見ての通り、亀甲屋が裏木戸を開けて裏商いをはじめた』

 と誹る者も現れましょう。事によっては、悪辣な者が裏木戸から侵入して、離れの両替屋と積立屋を襲うやも知れません」

 多紀は、香具師たちを正統な客として扱え、とは言わず、商いの安全性を話した。


「そうですね・・・」

 商いにおける妬み嫉みは数えたら切りが無い。多紀の説明は尤もな事実だ・・・。

 そして、今や香具師は単なる積立客ではない。両替屋の元手金を積み立ててくれる亀甲屋の正統な客だ。香具師という無宿人の身分だけで、今までのような、裏木戸から出入りさせるなどと、後ろめたい思いをさせてはならない・・・。

 藤五郎は、多紀が香具師たちの立場を気にしているのを理解していた。


 多紀は、藤五郎が多紀の思いを知ったのを感じ、藤五郎の意を察して言った。

「旦那様は香具師たちの積立金を、両替屋の元手金にするお考えと思います。

 それなら、

『香具師たちの積立金を両替屋の元手金にする。その代わりに両替屋の金利の儲けを香具師の積立金に上乗せする』

 と積み立てする香具師たちに約束するのです。

 そして、積立屋と両替屋を正式に御店に設け、亀甲屋を正式な両替屋と積立屋にするのが良いと思います。

 積み立て金に金利が上乗せされるのを知れば、積立をする香具師が増えるばかりか、一般客も積立をするようになりましょう。

 損料屋も、香具師相手だけでなく、一般客も見越して、御店に設けるのが良いと思います。

 積立屋と両替屋は扱うのが銭金ですから両替屋で積立を行えば良いのです。

 ですから両替屋の店構えを建て増し、多額の銭金が動きますから、頑丈な金蔵と、信頼できる警護が必要に思います。

 土蔵には金蔵があります。この離れは土蔵の横にありますから、離れに客を近づけるのは避けた方が良いでしょう。

 その他に損料屋の店構えも建て増しが必要です・・・」

 多紀は藤五郎から離れに視線を移した。


「・・・」

 藤五郎は多紀の説明に驚き、多紀を見詰めてしばし呆然とした。


「旦那様。あたし、妙なことを言いましたか」

 多紀は希有な目差しで藤五郎を見詰めた。


「いや・・・。

 多紀さんはいつからそんな事を考えていたのかと思ったのだ。俺より商いを理解してる。

 確かに商いは人の信頼から成り立ってる。

 無宿人の身分だけで香具師を裏世界の者と見なしていた俺も香具師の一人なのを忘れていた。それなのに、香具師たちに積立をしてやるのだから、その積立金を俺が勝手に両替屋の元手金にしても構わぬ、などと思いあがっていた。

 これからは香具師を正統な客として扱い、

『積立金を両替屋の元手金にして儲けた金利を積立金に上乗せするから、積立金を両替屋の元手金に使わせてくれ』

 と香具師たちの許可を得よう。

 多紀さんの考えのように、積立屋を含めた両替屋と、損料屋を亀甲屋に建て増しし、警護の者たちは香具師から選び、香具師たちにも、亀甲屋で働いてもらう・・・」

 藤五郎は多紀の考えに同意してその様に即断した。


「はい・・・。えっ、ええっ・・・」

 多紀は驚いて言葉が無かった。今までいつも思っていたことをそのまま述べただけだった。



 これまで様々な揉め事解決のために、藤代たち香具師が裏木戸から、離れに居る藤五郎に会いに来ていた。

 前妻の藤裳が亡くなった後も、人数こそ減ったが、藤代たちは裏木戸からひっそり藤五郎を訪れ、何かと藤五郎を気づかっていた。

 藤五郎を気づかうそうした藤代たち香具師の心情は、世間が香具師を無宿人とさげすむ様なものでなかった。


 亀甲屋の取引相手には灰汁あくどい商いをする商人も居た。

 香具師たちの縄張には、町人や香具師たちに因縁を付けて不当に利を得ようとする無頼漢ごろつきも居た。

 亡き藤五郎の父藤吉も藤五郎も、そうした者たちを徹底的に戒め、北町奉行所の与力の藤堂八十八や子息の与力藤堂八郎に引き渡していた。

 藤吉や藤五郎に協力していた藤代たち香具師は、江戸市中の治安維持に北町奉行所に協力し、北町奉行所から信頼されて頼りにされ一目置かれている者たちばかりだった。


 そうした香具師たちの行い全てが、亀甲屋の薬種問屋から薬を仕入れるなど香具師仲間がまっとうに暮らせるように取り仕切ってきた、香具師の総元締めで藤五郎の亡き父藤吉の成せる行いの結果だった。そして、その跡を継いで香具師たちの暮らしをより良いものにしようと努力してきた藤五郎の賜物でもあるのを、亀甲屋の上女中として多紀は見ていた。

 それなのに、ここまで香具師たちを思う藤五郎が、なぜ、裏木戸から香具師たちを入れて離れで対応するか、疑問に感じ続けていた多紀だった。


 その訳が無宿人の立場にある香具師たちの身分制度と知り、多紀は愕然とした過去があった。

 藤五郎に会いに来る香具師たちは、皆住いがあって無宿ではなかったが、先祖が無宿人と決められたばかりに、子も孫も、住いがあっても無宿人と呼ばれる身分制度を理不尽に感じ、多紀は身分制度を、

『あたしが商家に奉公していても、あたしは高崎宿近郷の郷士酒井忠興さかいただおきの次女、酒井多紀だいうことか・・・』

 と思う一方で、身分制度と関わりなく、義理と人情に厚い藤代たち香具師が、灰汁どい商人や無頼漢より、遥かにまっとうな生き方をしているのを理解していた。


 身分とは関係無しに、このような藤代たち香具師を、何としても亀甲屋の正統な客として扱わねばならない・・・。あたしは旦那様に今までいつも思っていた香具師たちの事をそのまま述べただけだ・・・。

 そう思う多紀の心に、藤五郎と藤代たち香具師を思う、新たな心が宿っているのを多紀は気づかずにいた。



 多紀の言葉に、藤五郎は心の霧が晴れたように思い、改めて多紀を見詰めた。

「多紀さん。離れに住うのは、嫌か・・・」


「いえ、多紀はゴロウさんの女房です。仰せのとおりに致します。うふふふふっ」

 多紀はじっと藤五郎を見つめている。

 この目差しは・・・、ふじも・・・。いや、そんなことは・・・有り得ぬ・・・。

 そう藤五郎は思った。

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