九章 残された家族
一 その後の商い
藤五郎は、二十六歳の師走半ばに愛する者たち、藤裳と美代と祖母のトキ、義母のお咲を亡くし、心の隙を埋めるのは、祖父の右衞門と義父の庄右衛門だけになった。
藤五郎は悲しみを振り払うように商いにのめり込んだ。その一方で商いについて、祖父の右衞門と義父の庄右衛門、心に残る藤裳や祖母のトキや義母のお咲や美代に相談するが、藤代たち香具師の元締めを心の支えにしなくなった。
しかしながら、助けを求める香具師たちには、惜しみない援助を続けた。この事が藤五郎の心の支えになったのかも知れない。
話は、昨年、藤五郎二十六歳の弥生(三月)十五日に溯る。
これまで藤五郎が下請けしていた、松平悠善の商いは次のように変わってきていた。
最初の流行病が下火になったおり、松平善幸は、藤五郎が藤裳のために咳止め用に阿片を手に入れたいと切望しているのを知り、暗に藤五郎の抜け荷を認めた。
ただし、商いの実態が御上に知れて、宝石と阿片の商い許可証文である公儀のお墨付を持たぬ亀甲屋が抜け荷を疑われても、松平善幸は己が
そして、鍼医の室橋幻庵が大名屋敷に届ける、石(宝石)と阿片を二重底の下段に仕込んだ菓子折は、亀甲屋が直接、室橋幻庵に届けることにしたのである。
藤五郎の抜け荷を見逃す見返りとして、松平善幸は、二重底の菓子折を月に二度に分けて一つずつ、つまり二十個入りの菓子折にすれば四つ分が欲しい、それも月に二度に分けて納めよと言い渡した。
流行病が下火になる度に、藤五郎は月に二回、それぞれの日に二重底の菓子折を一つずつ松平善幸に納め、目付役の松平悠善には月に一度、悠善お気に入りの饅頭、大福、最中、葛切りをそれぞれ五個入りした二十個詰めの菓子折を納めた。
その一方で、鍼医の室橋幻庵が大名家に届ける、石(宝石)と阿片を二重底の下段に仕込んだ菓子折を、亀甲屋が直接、室橋幻庵に届けた。
愛しい者たちを亡くして半年が過ぎた。
藤五郎二十七歳の皐月(五月)初旬。
松平悠善は二十四歳、室橋幻庵の子息良磨(後に二代目室橋幻庵となる)は三十二歳になった。
藤五郎は亀甲屋の跡継ぎとして商いの表舞台に立つことが多くなった。祖父の右衞門と義父の庄右衛門が、心の沈んでいる藤五郎を気遣い、あえてそのようにしていた。心が沈んでいるのは、祖父の右衞門も義父の庄右衛門も同じだったが・・・。
これまで、香具師たち独り独りが、原材料の仕入れ、露天で使う道具の賃貸、独立の積立を通じ、亀甲屋の顧客として亀甲屋の暖簾を潜れたが、これは亀甲屋藤五郎の立場より、香具師の元締めの藤五郎と香具師たちの個人的な付き合いであった。それがために、裏木戸を正式に裏門として、香具師たちが香具師の元締め・藤五郎に揉め事を伝えられるようにしていた。
亀甲屋は廻船問屋と薬種問屋だ。香具師を思ってはじめた、原材料の仕入れ、露天で使う道具の賃貸は評判になり、亀甲屋は損料屋も開業した。損料屋は、町人であれば比較的自由に始められる商売の一つだった。
香具師たちのために始めた「積立」を、「積立屋」として亀甲屋が正式に開業するには、「両替商」として御上(公儀・幕府)の許可が必要だった。
『御上に口添えできる者をたてて、御上の許可を得ねばならぬが・・・。
松平悠善殿に相談するか・・・』
藤五郎は霊岸島の越前松平家下屋敷に、松平善幸への饅頭二十個を二段重ねにした饅頭四十個入りの菓子折と、松平悠善への饅頭と大福と最中と葛切りをそれぞれ五個入りにした締めて二十個詰めの菓子折を届ける折、松平悠善に、
「今、私は亀甲屋藤五郎ではなく、香具師の藤五郎として香具師仲間の積立を行っておりますが、今後は、亀甲屋の商いの一つに、「両替商」として『積立屋』を開業したいと思っております。
そのためには、御上に両替商の許可を得ねばなりませぬ。
つきましては、留守居役の松平善幸様のお力をお借りしたいと思っておりまするが、如何なものでしょうか」
と相談した。
前回、藤五郎が松平善幸に、亀甲屋宛ての宝石と阿片の商い許可証文である公儀のお墨付を松平善幸の口添えで得て欲しいと依頼した折、松平善幸は藤五郎の依頼を快く承諾したが、公儀(幕府)は松平善幸からの、
『亀甲屋宛ての宝石と阿片の商い許可証文である公儀のお墨付を得たい』
との依頼書の提出に、
『亀甲屋は薬種問屋でもあるから、宝石と阿片の商い許可証文は本人から公儀(幕府)に申請すべきであるが、松平善幸が宝石と阿片の商いをしており、亀甲屋がその下請けをしているのだから、そのまま松平善幸の下請けとして、松平善幸の商いを続けるように』
と妙な理屈を述べて松平善幸の依頼書を却下した。藤五郎はその事を気にかけていた。
「藤五郎さんがやっと商いに目を向けるようになりましたなあ・・・」
松平悠善は、藤五郎が最愛の妻と娘、そして祖母と義母を、流行病で亡くした半年前を思い返していた。あの時から藤五郎さんは笑わなくなり、商いを口にしなくなっていたが、またこうして商いに精を出し始めた。何とかしてこの気力を無くさないように助力したい・・・。
「分かりました。
なあに、私も同席します故、お気になさらず、従叔父上に依頼なさいませ。
従叔父上とて、これまで藤五郎さんには多大な功を受けておりまする。藤五郎さんの依頼とあらば、快く承諾しまする」
松平悠善の言葉通り、松平善幸は藤五郎の依頼を快く引き受けた。松平善幸は亀甲屋藤五郎の後見人として、藤五郎共々、公儀(幕府)勘定所に、亀甲屋藤五郎の両替商許可を願い出た。
越前松平家下屋敷留守居役の松平善幸が後見人とあって、亀甲屋藤五郎の両替商許可申請は事無く進み、異例の早さで、亀甲屋藤五郎は両替商開業を許可された。
松平善幸の口添えで「両替商」として公儀(幕府)の許可を得た亀甲屋藤五郎は、正式に「両替商」として「積立屋」を開業した。
藤五郎には、積立と両替を行っても金銭の貸し付けは行わぬ、との考えがあった。金銭の貸し付けによる利息で金儲けするのは、働かずして銭金を得るのと同じで、
だが、金銭の貸し付けによる利息で金儲けする事が、いとも簡単に藤五郎の思いを変えてゆくとは、この時の藤五郎は思ってもいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます