第49話 イロトリドリノセカイ4

蘇芳が纏う黒は、いつもどんな景色の中でもはっきりとした輪郭を保つ。それを知っているかのように、蘇芳は自分の髪や瞳の色に溶け込むような色合いを身に着ける。ダークグレーのシャツ、黒いジーンズとショートブーツ、少しだけその深い漆黒を和らげるかのように、首元で揺れる白地のストールと耳に白く光るピアス。


そして、いつも背負っている黒いリュックの代わりに、今日はずっしりと大きなボストンバッグを肩にかけ、いつもどおりの涼しげな表情でおれを見下ろした。


「起きていてくれてよかったです。今日はあんまり時間がないので、叩き起こさないといけないかと思ってました」


「……もう、行くのか」


恭介にあの話を聞いてから、数日しか経っていない。おれは毎日このルーティーンを崩さずにこの男が現れるのを待っていたのだが、昨日も一昨日おとといも蘇芳は姿を現さなかった。もうずっと会えなくなるわけではないにしても、なんだかあまりにも呆気ない。


蘇芳はおれの呟きを聞き取って不思議そうに瞬きした。


「知ってたんですか? ちょっとバタバタしてて、言いそびれてたんですよね。今日の夜の便なんで、このまま空港行きです」


「……そ。ずいぶん急だけど、準備とかちゃんとしたか?」


そう言って芝生から立ち上がり、白衣についた落ち葉を払いながら尋ねる。蘇芳は担いでいた黒いボストンバッグをどさりと地面に下ろした。足元で、がさりと枯れ葉が擦れ合う音が響く。


「そんなに大した準備はないんですけどね。学校に絵を描きに行くだけだし」


「だけってことはないだろ……。まぁ、蘇芳らしいといえば、らしいけど」


本当にこともなげに言ってのける蘇芳のいつもどおりすぎる声色に、思わず苦笑してしまう。でも、こうして向き合う蘇芳の表情は涼し気なだけではない。それも、今のおれにははっきりとわかってしまう。


一見クールに見える整った顔立ちは、プレゼントの箱を開けるのを待っている子どものように生き生きと綻んでいる。漆黒の瞳は、すべてを呑み込む色の奥に、何にも染められない確固たる信念の炎を燃やす。


いろいろな色を湛えてまっすぐに立つこの男に、おれはいつだって圧倒され、同時に強く惹きつけられる。そんなことにも、おれだけ今さら気づかされる。


目ざとい蘇芳に気づかれないように小さく唇を噛んで、それから顔を上げた。


「気をつけて行って来いよ。元気でな」


「どうも。それを言うなら彩さんですけどね。しばらくは色喰い現象も落ち着きそうとはいえ、おれがいない間にその辺で野垂れ死なないでくださいよ」


「…………別に、平気だよ。数年くらい、おれにとってはどうってことない」


言い聞かせるつもりで呟いた言葉は、意外なほど頼りなく響いた。おれが越えてきた時間に比べれば、本当にどうということはないほどの時間。この黒が、しばらく視界から消えるだけだ。それでもなんだか自分の輪郭が揺らいでしまいそうで、咄嗟に俯きかけたおれの頭上から、蘇芳の訝し気な声が降って来た。


「…………数年?」


「え?」


「数年って、なんです? おれが行くの、ですけど」


「……いっかげつ?」


「そうですよ。授業だってあるし。彩さん、おれを留年させたいんですか?」


「……いや、だって、おまえ『学校に絵を描きに行く』って、言ったじゃん。学生課で手続きなんかしてたし……美術系の大学に転学とか、留学とかするもんだと、てっきり……」


「あぁ。そういうことですか。おれの言ったのはそのまんまの意味ですよ。廃校になる学校の壁に、絵を描きに行くんです。この間彩さんと会ったときは旅費の学割申請してただけです。町おこしのプロジェクトらしくて、全国からプロアマ問わずの公募をかけてた。応募して採用されたんですよ。すごいでしょう」


蘇芳は珍しく得意げに表情を緩めてそう言う。ゆっくりとその言葉の意味を咀嚼したおれは、へなりと身体の力を抜いた。


「…………なんだよ。そういうことかよ……。すごいよ、すごいけど……おれの苦悩を返せ」


「おれがいなくなると思って、苦悩したんですか?」


「…………そういうことじゃない」


「そういうことでしかないでしょ。……彩さん、可愛いですね」


にっと口角を上げた蘇芳が、じりじりと距離を詰めてくる。大きな掌が頭に乗せられ、髪を撫でた。それが、表情の割にすごく優しい触れ方だったから、「馬鹿にするな」と振り払うタイミングを逃してしまい、顔にはよくわからない熱が集まった。


「子犬サイズなら連れて行ってあげるんですけどね」


蘇芳はまだおれの髪を柔らかく撫でながら、ちらりと足元に置いた黒いボストンバッグを見下ろす。


「犬扱いすんな!」


やっとまともな感触の戻ってきた手で、蘇芳の掌をやんわりと払いのけながら顔をしかめてみせると、蘇芳は可笑しそうに笑った。


「……写真、撮ってきてくれよ。おまえの絵、見たいから」


そう言うと、蘇芳は足元のボストンバッグを拾い上げて軽々と肩に担ぎながら微笑んだ。


「撮ってきますけど、本物も見せてあげますよ。いつか」


「え?」


「いつか、あなたの『使命』が終わったら、いろんなところに連れて行ってあげます。いろんな土地で、おれが描く絵を見せに」


「…………うん。楽しみにしてる」


蘇芳がくれる、この上なく優しく鮮やかな約束に、思いきり笑顔を返したいと思った。けれど、視界に映る見慣れた黒と、青空の色はぎこちなく滲んだ。蘇芳はそんなおれを眺めてふっと微笑み、もう一度おれの頭に手を置いた。まるで大きな掌にその色を染み込ませようとするようにおれの金色の髪を撫でてから、いつもどおりの涼し気な足取りで歩いて行った。

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