第409話 日英貿易摩擦
イギリス ビッグ・ベン(国会議事堂)
「最近では、このような“USUIHON”が日本から輸入されて若者の間で流行しているそうです!見るのもおぞましい!これは神への冒涜です!」
英国国教会の支援を受けているウェイ議員が議場で吠えていた。その右手には、英語に翻訳された日本の“薄い”マンガ本が握られている。
対独戦争が終わった頃から、日本の家電製品等の輸入が増加し、それに伴って日本の“マンガ”が若者の間で流行し始めていた。当初は宇宙戦争物や少女が変身をして悪の秘密結社と戦うといった内容の物が多かったのだが、だんだんと恋愛物のマンガも増えてきていた。イギリスと日本で多少文化の違いはあっても、ほのぼのとした学園恋愛物などは受け入れられてきたのだが、とうとう英国国教会を激怒させるような状況が発生してしまったのだ。
「この“BARA”や“YURI”といったジャンルのマンガは、男同士、女同士が恋愛する内容なのですよ!しかも、性的なシーンがこんなにもえげつなく描かれております!」
当時のイギリスでは、同性愛は違法とされていて刑罰が科せられていたのだ。その為、同性愛を助長するようなマンガは発禁処分を受けていた。しかし、ここ最近では“USUIHON”と呼ばれる、よりアングラ化された同性愛マンガが密かに流行しており、噂では北アイルランド独立派の資金源にもなっているらしい。
「政府の対策は十分とは言えません!徹底した取り締まりを要求します!」
チャーチルは野党からの突き上げに頭を痛めていた。
「日本政府との折衝はどうなっている」
ダウニング街10番地(首相官邸)に戻ったチャーチルは、懸案となっている日本との貿易摩擦についての報告をイーデン外務大臣に求めた。
「はい、日本との貿易については圧倒的に赤字なのですが、まあ、それは日本の技術を用いた製品の輸出で稼げているので良いのです。しかし、その日本の技術供与や特許の使用が停止されてしまっては、我が国の産業は立ちゆかなくなります。ここは、日本の要求を呑む以外に選択肢はないかと」
日本は高度な技術を提供する為に、よりいっそうの人権向上と、人権に反する法律の撤廃をイギリスに求めていたのだ。
特に日本が問題視していたのが“堕落と猥褻行為に関する法律”だった。この法律では、同性愛や獣姦など、神の定めた自然の“摂理”に反する行為を禁止していた。
※1861年にこの法律が施行されるまでは、1533年の「ヘンリー8世の定めた堕落罪」が適用されており同性愛者は死刑に処されていた。
その法律の改正工作をおこなっている最中に、英国国教会が日本の“USUIHON”を槍玉に挙げてきたのだ。
「しかし、その“USUIHON”が若者の間で流行していると言うことは、そういった嗜好をもつ者が多いと言うことなのだろう?まったく風紀の乱れには困ったものだな」
チャーチルはソファーに深く腰をかけて葉巻を吹かした。風紀の乱れはなんとかしたいが、USUIHONを取り締まってもさらにアングラ化するだけだ。そうなってはマフィアや過激派の資金源が増える可能性が十分に考えられる。
「チャーチル首相。国王陛下が至急宮殿に来て欲しいとのことです」
執務室に入ってきた秘書官が恭しくチャーチルに告げる。国王ジョージ六世から緊急の呼び出しとのことだった。内容は非常に重要な事なので、王宮に着いてから直接伝えたいらしい。
「やれやれ」
――――
「ウィンストン、よく来てくれた。さあ、腰を掛けてくれたまえ」
※ウィンストン チャーチルのファーストネーム
「国王陛下。いかがなさいましたかな?顔色がよろしくないようですが?」
王宮で待っていた国王の顔は蒼白で、誰が見ても明らかに挙動がおかしかった。その手はプルプルと震えていて、ティーカップを口に運ぶのも危ういほどだ。
「い、いや、その、実は王権にかかわる重大な事が発生していてだな、君に助言を請いたいのだよ」
そう言われたチャーチルの表情は瞬時に固まってしまった。ジョージ六世の兄であるエドワード八世も、離婚歴のあるアメリカ人女性と結婚するために国王の地位を投げ捨てているのだ。そんな大事件がまたもや起こるのかと。
「こ、国王陛下、落ち着いてください。まずは、いったい何があったのか教えていただけないでしょうか?」
そう言われたジョージ六世はチャーチルの目をまっすぐに見て頷いた。お互いの顔面には脂汗が激しくしたたっている。
「実はこれの事なのだが・・・」
ジョージ六世はスーツの内側から一冊の本を取り出してチャーチルの前に置いた。その本の表紙には美少年が二人描かれていて、そして薄い本だった。
「こ、これはまさか、“USUIHON”ですか?陛下にこんなご趣味があったとは・・・」
確かにこれはまずい。現国王に男色の趣味があったとなると国教会は黙っていないだろう。国王の自分に向けられていた親愛のまなざしも、実はそういうことだったのか。これが公になれば、間違いなく退位させられるだろう。さらに法律に従えば、国王を訴追しなければならない。
「な、何を言っているんだ、ウィンストン。これは私のものではない。実はリリベットが隠し持っていたんだよ。問い詰めたら友達の間で回し読みをしているらしい。どうやら女子国防軍の中で流行っているそうだ」
※リリベット エリザベス二世の家庭内での愛称
※女子国防軍 英国女子国防軍。女性だけで構成される地方隊。貴族の女性が多数入隊している。
どうやら英国女子国防軍に入隊している貴族子女達の間に、“USUIHONの汚染”がかなり広がっているようだった。
「もしもだ、このことが公になってしまっては英国を揺るがす大スキャンダルになってしまう。リリベットだけではない。かなりの伯爵家や侯爵家にも影響が出てしまうのだ。なんとか公にならないようにするが、君にも議会工作をしてもらいたいのだよ」
ジョージ六世は必死の形相でチャーチルの手を掴んだ。まさに鬼気迫るものがある。イギリス軍がダンケルクに追い詰められていた時でも、こんな表情を見せたことはなかった。
「陛下、議会工作というと例の?」
「ああ、日本から要求のあった“堕落と猥褻行為に関する法律”改正の件だ。なんとか改正を早期に実現して欲しいのだ。そうすれば、万が一この“USUIHON”が公になったとしても、とりあえず違法ではなくなる」
ジョージ六世の言葉に、チャーチルは深く頷いた。
――――
議会で“堕落と猥褻行為に関する法律”の改正審議がされている頃、英国国教会の大主教がジョージ六世を訪ねてきた。
「国王陛下。現在議会で審議中の改正案について、反対の意見を述べていただくことは出来ないでしょうか?」
英国国教会としては、当然“堕落と猥褻行為に関する法律”の改正には反対なのだが、それを確実なものとするためにジョージ六世の同意も得ようとしていたのだ。
「大主教猊下。気持ちはよくわかるのだが英国は立憲君主制の国だ。私は政治的なことに発言を控えるべきだとおもうのだがね」
ジョージ六世は大主教に正論を返して、そして困ったような表情を向けた。チャーチルに対して政治介入していたことに多少の罪悪感を覚えながらも、本当に困った表情をする。
「しかし国王陛下。このままでは日本の圧力に屈して我が国の良識が覆されてしまいます。同性愛は聖書で厳しく禁じられているのですよ。本当にそのような事になってもよろしいのでしょうか?」
英国国教会としては当然の主張だった。旧約聖書にも新約聖書にも同性愛(特に男色)は“罪”であると何カ所にも書かれているのだ。
「大主教猊下。確かにその通りですが、では“コリント人への手紙”にある神の国を相続できない者の中に“貪欲な者”“酒に酔う者”があります。しかし、大金持ちになることやパブで深酒をする事が犯罪にはならないでしょう?それと同じなのではないでしょうか?」
ジョージ六世も必死だった。これほど気合いを入れて誰かを説得したことがかつてあっただろうか。対独戦に際して国民に演説をしたとき以上に、力が入っているのをジョージ六世は感じていた。
「確かに法律的には犯罪にはなりませんが、国教会では“罪”とされるのです。その罪と向き合うため、貪欲によって大金持ちになった者はそれを施し、深酒をした者は、翌日には家族のため国家のために労働するのですよ」
「おっしゃるとおりですな。しかしそうであるならば、同性愛の人たちも軍務に就いたり国家のために労働を捧げれば赦されるのではないでしょうか?それに、過去には地動説が罪だった時代もありました。天動説を説いていた聖職者達は、神がお作りになったこの世界(UNIVERSE)を否定していたのです。だからといって、今から過去の聖人達の名誉を剥奪するようなことは無いでしょう?このように時代と共に価値も変わっていかなければならないと思いますよ。大主教猊下」
ジョージ六世はまっすぐに大主教の目を睨んだ。必死の形相だ。大主教にジョージ六世の熱意が伝わってきた。確かに地動説や人間の進化については、聖書の記述と合致しないこともある。それに、聖書では偶像崇拝は固く禁じられているが、カンタベリー大聖堂の入り口にはキリスト像が掲げられているのだ。
“時代と共にか・・・”
「わかりました、国王陛下。国教会としてはこれからも同性愛には反対します。しかし、同性愛だからという理由だけで投獄されるような事では、自らの“罪”に心から向き合うことは出来ないでしょう。投獄という形ではなく、奉仕や祈りによって神の赦しを得ることができるよう協力いたしましょう」
「ありがとう、大主教」
チャーチルの議会工作も功を奏し、“堕落と猥褻行為に関する法律”から同性愛の条文が削除されることになった。また同時に、パブや劇場等において有色人種やアイリッシュの入場を制限することも禁止された。そして、日本からの技術供与制限も回避できた。
イギリスでは伝統的に同性愛者が多かったのだが、この法改正によって多くの人たちが救われることになった。そして一人の天才数学者も、この法改正を心から歓迎したのである。
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