第149話 本当の悪魔

1939年9月10日午前3時


 宇藤大尉がノモンハン日本軍陣地の野戦病院に運び込まれた。


「すぐに輸液の用意だ!」


 軍医が看護兵に指示を出す。


 宇藤大尉は、やはり拷問を受けていた。


 顔は元の二倍くらいに腫れあがり、前歯は全部折られている。指や腕の骨も折られ、体中あざだらけだった。


 これだけ全身に打撲を負って骨折もしていれば、損傷した組織からカリウムやミオグロビンが血液中に流れ出し、いつショックを起こしてもおかしく無い。


 ショックを防止するために、生理食塩水に重炭酸ナトリウムを加えて輸液をする。軍医も血液のpHを7.45以下に、尿のpHを6.0~6.5に保つよう、重炭酸ナトリウムの量を常に調整している。


 宇宙軍からの技術提供によって、負傷した際の治療技術はめざましく向上していた。今までなら助かる見込みの無い負傷でも、多くの兵が命を拾うことが出来ている。


 軍医は、宇藤大尉になんとか持ちこたえて欲しいと神に願った。


 ――――


 早朝、フルンボイル飛行場に宇藤大尉が救出されたとの連絡が入った。現在、ノモンハン陣地の野戦病院で治療を受けているそうだ。


 陸軍航空隊の隊員は、隊長の救出に沸き立つ。面倒見が良く、皆から尊敬され信頼される中隊長だ。生きていて本当に良かった。


 しかし、どの部隊が救出したのだろうと、皆不思議に思った。


 槇村も、救出の一報を聞いて本当に良かったと思う。高城大佐はああ言ってはいたけど、やはり救出隊を組織してくれたんだと感謝をした。


 ――――


9月10日午後1時


 陸軍航空隊と宇宙軍航空隊の兵士が、司令に呼び出された。


 全員、司令に敬礼をする。


「今朝、ソ連軍陣地より救出された宇藤中佐は・・・・・・」


 そこにいる兵士は“中佐”という階級を聞いて心臓が締め付けられた。息が止まる。宇藤隊長は“大尉”のはずだ。それが、中佐と呼ばれている。司令が階級を間違えるはずは無い。皆、その意味をすぐに理解した。


「・・・宇藤中佐は、本日11:00、前線の野戦病院にて戦死した。激しい拷問を受けており、治療の甲斐無く、先に靖国へ行ってしまった・・・」


 ※通常、戦死者の辞令は現地で発行されることはないが、宇藤大尉の功績を考え、特例で現地任官する事になった。


 ノモンハン事件が始まって以来、多くの航空兵が戦死したり捕虜になったりしている。戦友の死を聞かされるのは珍しいことでは無い。


 しかし、宇藤大尉は皆から兄貴のように慕われていたのだ。


「司令!戦死の原因は拷問ということでしょうか?私は、私はそんなことをするソ連を許すことが出来ません!弔い合戦をさせて下さい!全機に出撃をご命令下さい!」


 陸軍航空隊の隊員達は、口々に司令に嘆願をする。みな、泣いていた。


「出撃は無い。お前達が今出撃しても、敵新型機の餌食になるだけだ。宇藤中佐もそんなことは望んでいない。そして、お前達は内地に戻って機種転換訓練を受けてもらう。お前達の新しい愛機は、九九式戦闘機だ」


 ――――


「槇村大尉。先ほど司令から、宇藤中佐が戦死されたとのお話がありました」


「・・・・・・・・そう」


 浅野少尉が槇村に伝える。


 それを聞いた槇村は、少し驚いた表情をしたが、すぐに視線を落としゆっくりと話し始めた。


「宇藤中佐は、戦闘の傷で亡くなられたの?それとも、拷問で亡くなられたの?」


「はい、槇村大尉。拷問によって死亡したそうです」


「ありがとう。もう下がっていいわ。少し疲れたみたい。仮眠を取るからそっとしておいてね」


 明治天皇が発布された「軍人勅諭」では、「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」とあり、兵の命は羽毛よりも軽いとされていたのだが、今世では1936年(昭和11年)に今上天皇が新たな勅諭を出し修正されていた。


「義は山嶽よりも重く死もまた山嶽ほどに重しと覚悟せよ」


 これは「義を果たす前に、簡単に死を選んではならない」と解釈され、例え捕虜になったとしても、生きて帰り平和になった日本で働くことを天皇は望んでいると教育されるようになっていた。


 そして、昭和11年中期防衛計画でもそれは反映され、最も重要なのは“国民の生命”で二番目が“兵士の生命”と明示されている。


 “捕虜になっても、ソ連相手だと良いことは一つもないのね・・・”


 ノモンハンに赴任前のブリーフィングで、“ソ連軍は捕虜を平気で虐待するので、捕虜になるような無理な戦闘は絶対にしないように”と注意されていた。


 戦争だから、お互いに殺し合っているのだから、いまさらきれい事を言うつもりはない。しかし、無抵抗の相手をいたぶって殺すなど、やはり人間のする事では無いと思う。


 槇村の心が、怒りに支配されそうになるのがわかった。


 高城大佐からは、例え戦友が戦闘で死んだとしても、敵を恨んではならないし、怒りに身を任せてもいけないと教育を受けたが、親しい人が拷問で殺されれば、怒りを抑えることは出来ない。


 “本当の悪魔って、人間の心の中にいるのかもね・・・”


 ――――


1939年9月10日


 ソ連軍はついにポーランド国境を越えた。

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