勅命

 普段は人の立ち入らない海勇魚船わたないさなふねの底の狭い部屋に佳鈴声よしすずこえは横たえられていた。

 統木すばるきの花嫁が硬く締められた引き戸を容赦なく開ければ、佳鈴声の臥せる床を見下ろしている二人の人物が目に入る。

 薬師の翁と陰陽師の保志門ほしかど招揺しょうようだ。二人して目元だけを出した頭巾で顔を覆っている。

 戸が開け放たれた音に二人してびくりと警戒に身を強張らせたが、相手が花嫁と認めると薬師の翁は即座に額を床に当てる。

 逆に花嫁の存在に少しは慣れている招揺はすくっと立ち上がり花嫁の行く手を阻んだ。

退け」

「御身に穢れが移ってはなりませぬ」

 花嫁の後ろに付いて来た今言いまこと雲手弱くものたおやが懸命に頷いて招揺を援護する。しかし花嫁がちらりと肩越しに振り向いただけで二人はぴたりと首の動きを止めて澄まし顔を見せた。

 花嫁が招揺に向き直っても二人はもう微動だにしなかったが、その眼差しは強く招揺に期待を訴える。

「吾は穢れなぞ自ら祓ふべし」

「いえ、まぁ、御身の強さは知ってますが、そういう話ではなく……」

 どんな穢れでも自分が負けないから関係ないと言い張る花嫁には、招揺も威勢が弱くなる。

 それでも花嫁が前に出ても身を差し込んで出鼻を挫くのは、式神を使役する陰陽師の矜持だろうか。

 そうして、主神の現身うつしみと陰陽師の鬼才はしばし睨み合いを交わす。

 空気が張り詰めて火花が散りそうな光景に、今言と雲手弱は息を飲む。

 花嫁は招揺を透かして佳鈴声の姿を見る。瞼は重く閉ざされており、被さった布団は汗を吸い込んで重たそうだ。

「佳鈴声の具合や如何に」

「海の邪鬼に憑かれたかと。体は火食ほばみ、腹を下しています。水を多く飲ませ塩を舐めさせています」

「薬は」

 花嫁が鋭く問うと、薬師の翁は冷や汗を額に噴き出してさらに床に平伏する。

「薬はどれが効くか分からず、与えておりません。そもそもこの船に載せられた薬は乏しく、すめらぎ御為おんためにこそ使われねばなりません」

 海皇かいこうが体調を崩した時に不足しないように、他の者には気軽に薬を与えられないと宣う薬師の翁に、花嫁はすっと目を細める。

 薬草を採取して増やす事が出来ないこの海勇魚船において、限りある薬を無駄にせず、より効果のある形で分配するというのは薬師の翁の重要な役目であり、その点で責める謂れがあるとは花嫁も思えない。

 しかしその命の選別がなされる現状を招いている自分の不甲斐なさにはほぞを噛みたい思いがした。国を統べ栄えさせてる神霊であるのに、息も苦しかろう自分の女房に薬の一匙も与えられないでいるのは全て自分に責任がある。

わたくしの見立てでは、佳鈴声に憑いている邪鬼はけして強いものではありません。人の身が強くあれば自然と快復するでしょう」

「佳鈴声が身は弱かる」

 招揺の診断を聞いても花嫁は少しも心休まらない。

 そもそも佳鈴声は人に比べて体が弱く、風邪でなくても熱を出すような娘だ。

 招揺の言う通り、今回の邪鬼はそれこそ多くの者にとっては臥せるよりも前に打ち勝つようなものであるのだろう。

 しかしそんなものでも、佳鈴声にとっては命に及ぶ。

「人も侵せぬ鬼になればに触るるもあたわず。吾が佳鈴声をむ」

 花嫁はずいと身を乗り出した。

 事もあろうに花嫁が佳鈴声の看病に名乗りを上げて、気が気でないのは女房達だ。

「お待ちください! 花嫁様がされることではありません!」

「そうですよ! 鈴声の面倒はうちらでちゃんと見ますから、花嫁様はお引きくださいまし!」

 雲手弱と今言の懇願はもはや悲鳴だった。

 招揺も唖然として反論の言葉も出せないでいる。

 そして花嫁はそんな人々の制止で意見を翻さない。神とは意志が強く自分の主張をそう簡単には曲げないものであるのだ。

 それぞれの意見が妥協もなくぶつかり合って、喧々囂々けんけんがくがく、どちらも一歩も退かない言い争いが始まった。

 普段から身近に接しているとは言え、いざこうなれば花嫁にも物怖じしないで真正面から意見をぶつける今言、そして時に鋭い援護を挟む雲手弱に、招揺は舌を巻く。

 名のある陰陽師が式神に対してであっても、こんな歯に衣着せぬ物言いをすれば手痛い呪いを受けるというものだ。

「なんだ、騒がしいな」

 そんな収拾の付けようもない言い争いを一言でしずめたのは、ふらりと現れた航君わたぎみだった。

 招揺は袖を合わせた内側で手を組んで跪き、女房二人は部屋の隅に引っ込んで三つ指を付いて身を伏せる。

 ただ花嫁だけがそのままの体勢で花夫はなづまと向き合った。

「よい。楽にせよ」

 海皇はまずは許しを出して、それで拝礼する三人はそれぞれに身を持ち直す。

如何いかに」

「そなたが海勇魚船神わたないさなふねのかみを起こしたであろう。何事かと思って駆け付けたのだ。確かにそれだけの一大事ではあるようだな」

 花嫁がどうしてここに来たのかと訊ねるが、海勇魚船神は海皇の所持する神器でもあるのだからその動向はそのまま伝わるようになっているのだから、考えてみれば不思議はない。

 花夫は床に臥せる佳鈴声を見て、花嫁と同じくその苦しみを重く捉えていた。

「翁よ」

「は、ははっ!」

 花嫁の登場からずっと身を床に擦り付けていた薬師の翁は、さらに海皇からも声を掛けられて身を震わせる。

「そう畏まるな。よい、佳鈴声に薬を与えよ。熱冷ましと腹下しの薬であれば、効かぬという事はあるまい」

「……はっ」

 海皇に言われてしまえば、薬師の翁に否やと言う事は出来ない。

 翁は命じられるままにいそいそと薬を宝物庫から取り出すために部屋を出て行った。

 さらに海皇はこの場にいる三人にも目を向ける。

「我が花嫁は可愛い女房が心配でならぬようだ。花嫁が看護する故、そなたらはその手助けに励め」

「……ずるくないです?」

「君のお言葉です。流石に口を慎みなさい」

「……わかりました」

 今言、招揺、雲手弱、当然だがその誰もがこの海勇魚船に住む全ての民を治める海皇のみことのりに逆らえない。

 かくして、花嫁は思いも寄らない形で自分の思った通りの振る舞いが出来るようになったのだった。

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