第22話 氷雪の世界
高山が寒いということは知っていたが、空気が薄いというのは初めて知った。
「おおざっぱに言いやすと、高度5000メートルで空気はゾーイの半分、8000メートルでは3分の1というところでさあ。高い山は一気には登れねえんです。高地に身体を慣らしながらゆっくり登るんでさあ」
「一気に登るとどうなるの?」
「高山病になりやす。身体が動かなくなり、倒れちまいやす」
シローに出会えたのは幸運という他ない。
彼の話を聞かなければ、わたしはやみくもにカイシュタイン山に登り、途中で倒れていただろう。
「カイシュタイン山の山頂付近の大氷河にいるエリエル様を救出する。それが登山の目的よ」とわたしはシローに伝えた。
「山頂付近の大氷河?」
オウム返しに言って、シローは首を傾げた。
「4000メートルより上は、全部氷雪の世界でやすよ」
衝撃を受けた。わたしは高山のことをなにも知らないのだと思い知った。
「月光神はカイシュタイン山にいるのでやすか?」
母からはエリエル様は堕天使だと聞いたが、ヴァレンティン王国では月光神。
そのことは触れない方が良いだろう。宗教的な論争は避けるべきだ。
「エリエル様がカイシュタイン山に降臨されたという伝説と、エリエル様がソル様に追われて大氷河に封じられたという伝承があるの。エリエル様がカイシュタイン山の大氷河に封じられているというのは、わたしの推測よ。残念ながら、確報ではないの」
「封じられているとは、氷の中に閉じ込められているということでやすか?」
「そうよ」
「ふたつ疑問がありやす。仮にエリエル様がいるとして、生きているのでやすか?」
堕天使は超常の存在だ。死んではいないはず。
月光神だとしても同じ。
「神は死なない。生きているわ」
「どうやって大氷河から解放するのでやすか?」
「ちょっと待っていて」
わたしは黒水晶を保管している部屋から、ひと塊を持ってきた。
ハンマーを振り上げて、シローとアイザックの目の前で黒水晶を砕いた。部屋の中に、大小さまざまな黒水晶が散らばった。
「これにはいろいろな使い方があるの。まずは防寒に使う場合ね」
黒水晶の欠片のひとつに軽く触れて、小さな熱の放出口を開けた。
わずかずつ熱が出て、周りの空気がじんわりと暖まった。
「大氷河を溶かすときには、もっと熱くするわ」
別の欠片に強く触れ、大きな熱放出口を開けた。
多量の熱気があふれ出し、たちまち部屋全体が暑くなった。
「黒水晶の熱で大氷河を溶かし、エリエル様を解放するのよ」
「さっきも言いやしたが、4000メートルより上は、全部氷雪の世界でやす。すべて溶かすつもりでやすか」
「とうてい無理ね。頂上付近に狙いを絞って溶かすわ」
「氷を溶かすと、その下でなだれが起きやす」
「なだれ?」
「雪の崩落でやす。高山の表面には大量の雪がかぶさっておりやす。溶けた水が雪を刺激し、なだれが起きるでやしょう」
わたしは呆然とした。
「どうすれば良いの?」
「北側の氷を溶かすとき、登山隊は全員南側にいるとかでやすね」
「そうするわ」
「いずれにせよ大量の黒水晶が必要でやすね。備蓄はどのくらいあるのでやすか」
「ゾーイに1000キログラムほど。ライリーには少なくとも2000キログラムはあると思うわ」
「合わせて3000キログラム。ひとり10キログラムずつ運ぶとして、300人必要でやすね」
「300人……」
想定していたより遥かに大規模な登山隊を編成しなければならないようだ。
「食糧や装備品なども大量に必要でやす。ざっと見積もって、登山隊の人数は600人でやすね」
「そんなに必要なの……?」
途方もない話になってきた。
「アイザック、600人をカイシュタイン山に派遣できる?」
「私には決められません」
万人隊長は顔を蒼ざめさせて、首を振った。
わたしは慌ててジルベールに相談した。
彼ですら血相を変え、「ガスパール将軍と相談する」と言って、王太子の間から出て行った。
わたしは待った。
シローがさらにむずかしいことを言い出した。
「高度3000メートル付近にベースキャンプを設営しやす。そこで最初の高地順応をしやす。1週間ぐらいはそこにとどまってくだせえ。そこから500メートルずつ登っていき、キャンプを設営していきやす。8000メートル付近は第11キャンプとなりやす」
「高山を登るって、すごく時間がかかるのね……」
わたしの想定はあまりにも甘かった。黒水晶で防寒しながら、20人くらいで登ればいいと思っていたのだ。登山に要する日程はなんとなく7日くらいと想像していた。
「登山隊員の大部分はベースキャンプまで荷物を運ばせて、帰らせやしょう。死を覚悟して上をめざす者が100人ほど欲しいでやすね。第11キャンプまで何度も往復し、黒水晶を運び上げるのでやすよ」
シローの話を聞いていて、吐きそうになった。
「8000メートルより上は、生還困難なデスゾーンと言われてやす」
「シローは頂上をめざしてくれる?」
小柄な山男は黙りこくった。
ジルベールが帰ってきて、「将軍は承知してくださった。600人出してくれる」と言った。
「アイザック、人選してくれ」
「承知しました、元帥閣下」
「仕方ないでやすね。クロエ様だけ死なせるわけにはいかないでやす。おともしましょう」とシローは言った。
「カイシュタイン登山はやはり自殺行為なのか?」
ジルベールが深刻な表情で、シローに尋ねた。
「そのとおりでやす。死にに行くようなものでやす」
王太子はわたしを見て、何度も左右に首を振った。
「クロエ、登頂はあきらめろ」
わたしは悩んだ。どうすれば良いのだろう。
ゾーイで無為に過ごし、ジルベールと他の人との婚約を、指をくわえて見ているというのは嫌だ。
「とにかく挑戦します。カイシュタイン山へ行きます。あきらめるのは、やれるだけのことをやってからです」
わたしの恋人は山男に目を向けた。
「おまえの名前は?」
「シロー・トードーと申しやす」
「シロー、クロエの生存を最優先事項とし、エリエル様の捜索は彼女の生命を保障できる範囲で行え」
「承知しやした。ほとんどなにもできないかもしれやせんが……」
「クロエ、死ぬことは許さない。きみのやるべきことは子を生み、次代の夏冬の聖女を育てることだ」
「あなたの子を……」
「もちろんだ」
ジルベールはシローの前に立ち、彼の肩に手を置いた。
「頼んだぞ、シロー」
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