第44話 知らない人から食べ物は貰ってはいけない
「ん〜…!」
顔を上げて腕を伸ばした。ずっと下を向いていたから首が痛い。今日は朝から、もうすぐ始まる定期試験の勉強をしていた。
日夜勉強漬けする気はないけど、一切しないで下位になるのも駄目だから。私のせいで家の面子を潰すわけにはいかないし、最低でも二十位くらいには入らないと。
時計を確認すると、もう午後だった。私は立ち上がりながら、シエナを呼んだ。
「お兄様はまだ勉強中だよね?」
「はい、ずっと自室にいらっしゃいます」
「……そう。私は今から出かけるから準備を手伝ってくれる?」
「畏まりました」
最近キオンは睡眠時間を削ってまで勉強しているようで少し心配だった。
テストが近いからアイリスたちも来てないし、一人で外出するのは久しぶりだ。
髪を結び、外出用のドレスに着替える。本当はドレスよりも制服の方が動きやすいんだけどな。さすがに着ることはできないので我慢した。
「今日はどこに行かれるのですか?」
シエナに見送ってもらい馬車へと乗る。護衛として着いてきたエリオットに尋ねられ、私はこれから向かう店の候補を頭に浮かべた。
「魔法商店と、あとは帰りにお兄様にお土産でも買おうかな」
鍛錬するノクスとアイリスを引き合せる作戦は失敗に終わったけど、全く得るものがなかったわけではない。私は〝アリス〟というカードを手に入れた。もしかしたらまた役に立つかもしれないから、どうせなら取っておくべきだ。
だからいつアリスが必要になってもいいように、魔法薬を常備しないと。備えあれば憂いなしと言うし。
「到着致しました」
「……!」
首都のど真ん中にある魔法商店は、公爵領にある店よりもかなり大きかった。
時間もあるしと一通り回ってみれば、雑貨から書籍、壺のようなものまで売ってあり驚いた。
お目当てである魔法薬も、カラーリング薬だけじゃなく、声や瞳の色を変える物など種類が豊富にあった。
「……」
「公女様?」
私は額に手を付き、息を吐く。グレイが『普通にお前だって気付かれてる』と言った意味を遅れて理解した。
カラーリング薬はあくまでも髪色を変えるだけで、顔まで変わるわけじゃないのだ。つまり、カラーリング薬だけで完全な別人になるのは不可能で。
「……悩んだところで仕方ないか」
アリスと名乗ってしまった以上、今更どうすることもできない。
私とノクスには特に接点もないし、そもそも私の顔を覚えていない可能性もある。希望的観測を胸に抱いて、魔法薬に視線を戻した。
「結構な種類があるんだね。エリオットはこういうの使ったことある?」
「私はありません。使う機会もないので……」
それもそうだね。私は納得した。他の人は一体どんな時に使っているのだろうか。
カラーリング薬は、グレイがくれたブラウンやブラックなどの普通の色から、レインボーの奇抜な色まで品揃えしていて、本当にどんな時に使うのか気になった。
私は悩んだ末に、ブラウンを数瓶と、ブラックを一瓶手に取った。こういう時は無難なのが一番だ。
買い物を終えて外へ出れば、かなりの時間が経過していた。キオンへのお土産を買って帰る前に、どこかで一度休みたい。
最も近くにあったカフェへ入ると「あっ!公女様!」と誰かに声を掛けられた。
呼ばれた方へ反射的に顔を向ければ、そこにはモニカがこちらに手を振っていた。隣にはデビュタントの時に彼女が紹介してくれたエルネストと、もう一人知らない人が座っている。
さすがに無視するわけにいかず、私も挨拶を返す。
「モニカさん、お久しぶりです」
「デビュタント以来ですね!今日はお一人ですか?良ければ公女様も一緒に座りません?」
「……兄へのお土産にテイクアウトをしに来ただけなので、お気持ちだけいただきます」
私はすぐに予定を変更した。モニカだけならともかく、話したこともない他人がいる中に混じれるほどの社交性はなかったので。
残念ですと呟くモニカに「次の機会があれば是非」と社交辞令を伝えて、その場から退散した。
モニカにああ言ってしまった手前、何も買わないわけにもいかず、私はいくつかの焼き菓子を購入して店を出た。これなら食べやすいだろうし、勉強中のキオンには丁度良かったかもしれない。
「もう用事は済んだし、そろそろ帰ろう」
「では馬車を呼んで来ますので少々お待ちください」
「うん、お願い」
エリオットに頷き、私はその場で待機する。手に持っているお菓子の香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。
ぐぅぅ〜っとお腹が鳴る。
「……」
いや、私ではなく。音は真隣から聞こえてきた。いつの間にか、私の隣には知らない少年がしゃがんでいた。
ぐうぅぅ〜、再び鳴る。先程よりも大きな音が。
「……食べる?」
私は紙袋を漁り、中に入っていたお菓子のうちの半分を差し出した。ちなみにカヌレとクッキーだ。隣に居た少年はじっと私の手元を見つめてから、それらを受け取る。
「……ありがとう。ちょうどお腹、空いてた……」
だろうね。普通は知らない人から食べ物は貰ってはいけないと言いたかったけど、未だにぐぅぐぅ鳴り続けている音を聞いてしまえば声にはならなかった。
身なりを見る限り、以前のステファンみたいに窮困しているわけじゃなさそうなのが幸いだ。
私に慈愛の心はないけど、子供が苦しんでるのを見て見ぬふりするほど非人情でもない。
「君、一人なの?大人は?」
「一緒に来た人はいたけど、どこかに行った……」
「迷子ってこと?」
「違うと思う……多分。そのうち会えるだろうから、大丈夫……」
良く分かんないけど迷子ではなさそうだ。気にはなったけど、人様の家庭の事情にあまり首を突っ込むわけにもいかない。
「なら良かった。じゃあ私は行くから気をつけてね」
「……うん。またね」
そう言って少年はゆるりと微笑んだ。
馬車に乗り、窓から外を見るとその姿はもう消えていて、ちょっと不気味だった。私は幽霊は信じないタイプなのに。
紙袋に入っていたお菓子は減っていて、幻ではないようだった。
***
「ウィル!テメー今までどこに居やがった!勝手に居なくなりやがって!」
「……アーロン、うるさい……」
その小さい声にアーロンは苛立ったけど、ウィルの手にあった食べ物を目にして口角を上げた。
「イイもん持ってんじゃねぇか。俺にも一つ寄越せ」
「……ダメ」
「ああ?」
ウィルからの拒否にアーロンは片眉をあげる。食い物の一つくらいでなんだと。
「……これは、食べずに取っておくから……」
「ハァ?それじゃあ腐んだろうが」
「……大丈夫」
何が大丈夫なのか全く理解できないアーロンだったけど諦めた。対話を試しみるよりも、自分で食料を手に入れた方が早いと考えたからだ。
「……アリア・ウォレス……」
ウィルの呟きは、闇の中に溶けて消えた。
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