第28話

 五十嵐先生に出会えたことは俺の人生の中の数少ない幸運だった。


 現行犯で捕まった時、絶対に少年院か、よくて鑑別所に行くことになると思ったけど、俺たちの車上荒らしのメンバーの中に、親が金持ちで、その親に色んなコネのあるやつがいて、ソイツの親がありとあらゆることをしてくれたお陰で俺もついでに塀の中を免れた。樹里杏のためにも塀の中には行きたくなかったけど、正直、親がなんとかしてくれるような家に生まれたくせに車上荒らしなんかをやるソイツにめちゃくちゃ腹が立った。


 その時は分からなかったけど、何に腹が立っていたのかが今なら分かる。ソイツが俺にはないものを持っていたからだ。


 選択肢ってやつだよ。


 俺は金のために車上荒らしをするしかなかったんだ。ソイツは車上荒らしなんかしなくても家に金があった。まあその選択肢のあるやつのおかげで、塀の中には行かずにすんだけど、保護観察がついた。保護司の渡辺のじいさんは、民政委員の竹本のババアよりは、俺を見張ろうとしているだけまだましだった。その渡辺のじいさんが俺を連れて行ったのが地域の就学支援サポートの会とかで、そこにボランティアで来ていたのが親の介護で、教員を休職していた五十嵐先生だった。


 勉強なんて、まともにやったことがなかった。小学校ではあらゆる教師に名前のせいで馬鹿にされ、母さんのせいで関わりたくないと思われていた。「先生」と呼ばれる人とまともに話したのも五十嵐先生だった。


「三国くん、これやってみましょうか」


「やだよ。どうせちんぷんかんぷんだよ」


「そう? みんな最初からちんぷんかんぷんになるわけじゃあないの。私は三国くんがどこからちんぷんかんぷんになったか知りたい。そこからやり直せばいいんだから」


「やり直したって、できないもんはできないよ」


「まあだまされたと思って、やってみて? どうせ、毎日ここに来るように渡辺さんに言われているんでしょう? 何もやらないのは暇よね?」


「ふん」


 俺は五十嵐先生からプリントをひったくって就学支援サポート「ひまわり教室」の机の一つに座って問題を解きはじめた。


 この時もし、小学生のドリルとかを渡されていたらやらなかったと思う。五十嵐先生は自分の手作りのプリントをここに来ている子どもに配っていた。俺みたいなどうしょうもないガキにもプライドとか、心に柔らかいとこや、触られたくないとこがあることを五十嵐先生は知っていたんだと思う。


 後から分かったけど、俺が勉強に躓いたのは小三からだった。俺は渡辺のじいさんに樹里杏も「ひまわり教室」に連れてきたいと言った。


「おお、そうか」


 短くそう言った、いつも仏頂面の渡辺のじいさんが少しだけ笑ったのを見たのはそれが初めてだった。


 それから、俺は放課後と土曜日に樹里杏を連れて「ひまわり教室」に通った。樹里杏も勉強は遅れていたから最初は嫌がっていたけれど、ほんの数分で五十嵐先生のことが好きになったみたいで、分からないことをどんどん五十嵐先生に聞くようになった。


 俺も樹里杏も五十嵐先生に理想の母親像を求めていたのかもしれない。こんな「お母さん」だったら……。そう思うことは罪なのだろうか? 母親がいるだけましだと思わなければいけないのだろうか? 俺たちがこういう楽しみを見つけるのを母さんは嫌ったから、ずいぶん用心深くやったつもりだった。


 でも、母さんは俺たちから楽しそうな匂いがするとすぐにかぎつけてしまう。樹里杏が「ひまわり教室」で借りていた九九のカードを見つけてばらばらに床にまいた。樹里杏が泣きながらカードを拾い集めると母さんは鼻で笑った。


「九九なんか今から覚えてどーすんの? 勉強なんか、なーんの役にも立たないんだから」


「母さんの役に立たなかったからって、樹里杏の役に立たないって決めつけることないだろ?」


「役に立つわけない。私の子なんだから。慈愛杏登、あんたまさか高校行こうとか馬鹿なこと考えてないよね。高校なんか行かせるお金なんかないんだからね。まったく、あんたがドジ踏まなきゃ、こんなに竹本のババアが来ることもなかったし、渡辺のじいさんみたいなのに関わらなくて良かったのに」


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