第37話 捧げる身命
合宿と言う名のバカンスから帰ってきた望と紗希。あれから何事も無くいつもの様に家事を進めていく望。だが心中は穏やかではなかった。
――オメェを殺す為の多少の巻添えは一切不問とする、らしいぜェ。
自分が何者だったのかを全て思い出せた。そして思い出してしまった事を今になって後悔している。やはり自分があの時、死んでいた方が良かったのではないかと考えてしまう程だ。
「――望! 望ってば!!」
我ながら心此処に在らずの様らしい。鼓膜が張り裂けそうな程に大きな声を聞き、延々と同じ皿を洗い続けていた望は漸く我に返った。
「……紗希。いきなり大きな声を出さないで下さいよ」
「さっきから呼んでるのに無視するからでしょうが」
「申し訳ありません。……して、用件は?」
「組長さんが昨日愛知から帰ってきたらしいから今日ちょっと様子見に一緒に行くわよ」
「ええ、喜んで。では皿洗いを終わらせるので少し待ってくれませんか?」
そう言って望は皿洗いを再開する。するとその直後に紗希のスマホから着信が鳴り始めたので彼女は電話を取った。
「もしもし、組長さん? ああ、愛知から帰ってきたんでしょ? 私も今日行こうと思ってたところ。……は? 何言って――もしもし?」
噂をすれば何とやら。電話の発信者は吉川社長らしい。だが紗希の反応からしてどうにも様子がおかしい事が窺える。
「――危ないから来るな? どうしたの? 何が――」
紗希が問い質そうとしたその瞬間、離れた場所に居ても聞こえてくる程の断末魔と雑音が周囲を
「組長さん!? どうしたの!? 返事をして! ――ねぇ! ねぇってばっ!!」
相当危険な状況なのが見て取れる。望の手が思わず止まる。通話が途切れると同時に紗希は強張った表情を浮かべていた。何があったのか仔細を知るべく望はまだ汚れている食器を投げ出して近付こうとした瞬間、彼のポケットに入っていたスマホが鳴り響いた。発信主は吉川社長だった。
「――もしもし」
『よォ、一日ぶりくらいだなァ?』
声を聞いて全身の血液が凍り付いたかと錯覚してしまった。声の主は間違いなく、カナメだ。何故吉川社長の携帯電話から聞こえてくるのか、考えなくても分かる事だろう。
「……御用件を伺いましょう」
『せめてもの情けだ。後で位置情報を送る。今日の零時、その場所に来い。そうしたら殺すのはオメェだけにしてやる。オメェが懇意にしているガキには手を出さねェ。なんならイタチも殺さないようにするぜェ?』
「……それは本当でしょうか」
『オメェならオレの事くれェ分かるだろォ? 殺さずに済むなら殺しはしねェ』
「……分かりました。ではまた後程」
『おう、首洗って待ってな』
潰える筈だった命の灯火が今度こそ掻き消される。どうやらその時が来たようだ。送られてきた位置情報を確かめた後、望はゆっくりとスマホを仕舞い、覚悟を決めてからいつもの微笑で紗希の元へと向かった。
「……紗希、危険な予感がします。家で待機しておきましょう。組長さんの事は明日になってから確認しましょう」
「……そうね。そうするわ」
本当は気が気でない筈の紗希も只事ではないと察したのか、すんなりと言う事を聞いてくれた。最初にやるべき、今日一日彼女を家に留まらせる事は達成した。後は秘密裏に済ましておく事を全部済まして、後悔の無い様にしなくてはならない。何せ、もう後戻りの出来ない片道切符なのだから。
※
時刻は十一時頃。昼間の内に準備を済ませて部屋で待機していた望は紗希達が起きない様にゆっくりと階段を降り、懐に入れておいた退職届の封筒をテーブルに置いた。
「……夜分遅くに失礼します、メイド長」
『あらどうしたのノゾムちゃん?』
「紗希とソーニャを頼みます」
『は? 何言ってるのノゾムちゃ――』
電話越しに用件だけをメイド長に伝え、望はスマホの電源を切り、ゆっくりと、名残惜しそうに退職届の隣に置いた。
「――よし」
――本当はもっと居たかった。ずっとずっと一緒に居たかった。無念で、不本意で、後悔ばかりだ。だがいつまでも此処に居るわけにはいかない。自分一人の命を捧げるだけで死なずに済む命があるなら、惜しむ事なんてあってはならない筈だ。
――それに本来は光を知らず影に呑まれたまま命を終える自分が、何の因果か風間紗希と言う太陽に照らされてきた。これ以上高望みをしてはいけない。
――どうか、お元気で。我の事など、早く忘れて……。
「何処に行くの」
玄関へと向かおうとした瞬間、聞こえる筈が無い聞きなれた声を耳に入れ、思わず驚愕する。振り返ると、なんと寝ていた筈の紗希が立っていたのだ。
「……急で申し訳ありませんが、俺に
「退職手続きは最低でも二週間前でないとならない。民法第627条にも記載されている決まり事よ」
そう言って紗希は机に置いてきた退職届をこれ見よがしに破り捨てた。そんな彼女は怒っているかに思えたが、何処か悲しい表情を浮かべていた。
「……望。何かあったんでしょ? この際だから全部言って」
「……紗希には関係の無い事です」
そう吐き捨てた瞬間、紗希は台所の方へと駆け、直ぐ戻ってきたかと思えば手には望が調理の際にいつも丁寧に使い、丹念に研いで切れ味を保たせていた包丁を持っていた。そしてそれを此方に目掛けて一突きするのかと思えば、彼女は切っ先を自身の喉元へと突き付けた。
「話さないなら、私は此処で死ぬ」
「……おふざけが過ぎますよ、紗希」
「本気かそうじゃないかくらい、アンタなら分かるでしょ? ……それとも、私が聞き耳立ててたのも寝たフリしていたのも気付かないくらい節穴にでもなった?」
どうやら此方の事情は既に筒抜けらしい。いつも彼女の身に何か無いか機敏に感じ取っていた筈の気配を察知する事は出来ないどころか、気の迷いとはいえ殺そうとしていたのも感付かれていた。其処まで自分は鈍り切っているらしい。
「……俺も焼きが回ったようですね」
「――今から三つ命令を出すわ。その命令に従うなら、此処までの非礼を許してやろうじゃない」
――どうやら俺は最期の最期までこの小娘に心惑わされる事になるらしい。
潔く断ち切る筈だった迷いを仕留め損なってしまい、望は大きな溜息と共に両手を挙げて観念を示した。
「……承知致しました。ですが俺にはもうあまり時間が無いんです。手短にお願いします」
「分かってるわよその位。今からあのガラの悪いクソヤローの所に行くんでしょ? 取り敢えず此処座って」
そう言って紗希はいつも料理を召し上がっているテーブルの椅子を引き、其処に望を座らせると対面に座ってしかと向き合う形に直った。
「じゃあ最初の命令。――記憶、全部思い出したんでしょ? じゃあ全部話して。望の過去。望の考え。私は知りたいの」
紗希は刮目し、ゆっくり耳を逸らさぬようにしながら問う。自分の過去。聞いて何になるのかは理解出来ないが、命令を聞いて納得してくれるのなら、包み隠さず話すべきなのだろう。
「……分かりました。話します」
望はゆっくりと深呼吸をし、唇を動かし、過去の記憶を最初の方から辿って行くのだった――。
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