第35話 走馬灯

 望は現在、海の中に居る。厳密に言うなれば居させられている、と言った方が正しいのかもしれない。


 ――このままではまずい! 


 望の首筋には鍛え抜かれているであろう太い腕で締め付けられており、振り解こうにも水中では満足に身動きが取れず、僅かな隙間すらも広げられずに身体が沈んでいく一方である。


 ――コイツ死ぬ気か!? 俺を殺す為なら命を捨てても構わないとでも言うのか!?


 片腕以外まともに動かせない程の満身創痍の身体でありながら、望にしがみ付いて決して離そうとしない。まさに正真正銘の命懸け。聞こえは良いが、それは人間としての生き方も死に方すらも捨てる様なものである。それを平然と選べるのは異常としか言えない。


 ――息が続かない!


 息を止めていられる時間は極僅か。肺に残っている空気が尽きてしまえば、忽ち体内は浸水していき窒息死する。何としてでもこの拘束を解いて浮上しなければならない。だが無情にも何も出来ないまま時が過ぎていくだけだ。


 ――この、まま……では死…………ぬ…………!


 視界が徐々に暗くなっていく。積み重なっていく息苦しさと同時に意識も朦朧とし始めていく。望は薄れゆく景色の中、どんな敵が相手だろうと死ぬ筈が無いと慢心していた自分を戒めようと目蓋を閉じようとした。



『貴様らの選択肢は二つに一つ。殺すか死ぬかだ。明日を生きたければ殺せ。死にたければ死ね』


 ――誰だ?


『――、仕事だ。場所は――』


 ――おれを呼ぶのは誰だ? 誰なんだ?


『まっ……待て!! 金ならやる!! だから命だけは――!!』


 ――これは……何だったか?


『ゼナ。……もしかしたら僕、今日死んじゃうかもね』


 ――ゼナ……? ……その名は……何、だったか?


『イタチ……何故だ……何故死んだんだ……』


 ――イタチ……? おれはイタチを知っている、のか?


『我らシンの掟は絶対なり……』


 ――海の中……。おれは死んだのか?


『ちょっと! 生きてるんでしょ!! 早く起きなさいってば!!』


 ――そうだ! 俺はまだ生きている! 生きなければならないんだ!! 今の俺には殺す事も死ぬ事も選択肢には無い!! ただ生きる!! 生きてやるんだ!!



 望が刮目すると同時に水飛沫が上がり、太陽の日の下に照らされる。どうやって浮かび上がる事が出来たのかは隣で肩を組んでいる男の姿を見て瞬時に理解出来た。不本意ながら、助けられたらしい。


「――何故?」

「勘違いするなよな。僕の可愛い後輩が今にも飛び込みそうだったから代わりに飛び込んだだけだよ」


 ふと視線を岩礁の方へと向けると、其処には暴走している紗希とそれを取り抑えている彼女の友人達の姿があった。男の言っている事は本当の様だ。


「望っ!!!」


 誠也と共に陸に上がり、身体に入り込んできた海水を吐き出していると真っ先に紗希が駆けつけてきた。


「……申し訳ありません、少し足を滑らせて――」


 一息吐いてからいつもの微笑みと共に顔を上げると、望は思わず言葉を失ってしまった。何故なら、紗希が怒り交じりに涙を浮かべていたからだ。


「心配したじゃない……!! 馬鹿……っ!!!」

「……猛省しています。だからどうか泣かないで下さい、紗希」

「泣いてない!!!」


 ――嗚呼、俺は何て愚かで、未熟で、浅はかで、矮小な男だ。あんな取るに足りない小物相手に不覚を取るなんて、風間紗希の従者が聞いて呆れる。


 ――このままでは駄目だ。


「……の、望? どうしたの? まだ苦しい?」

「――いえもう大丈夫です。さて俺はそろそろ行きます。バーベキューの作り直しをしなくてはいけませんからね」


 そう言って望は心配している紗希を横切り、今頃は炭の残骸だらけとなっているであろうグリルの所へと向かう。


「……高河さんもどうですか。助けて貰ったお礼に焼きたて一本を御馳走しますよ」

「……いただこうか」


 その前にこの男に一つ確かめておかなければならない事がある。望はさり気なく誠也を呼びつけて誘い込もうとすると、彼もそれを察してた快諾したのだった。



「……何で居るのですか」


 新しく食材を通した串を回しながら望は困惑した様子で問い掛ける。それは近くで本を読んで寛いでいる誠也に対してではなく、ずっと後ろで張り付いている紗希に対してであった。


「何? 私が居たら迷惑なワケ?」

「そういう訳ではありません。ただ、こんな何の変哲も無い調理作業を見ていたって面白く感じるものではありませんよ」

「私の面白い面白くないと感じる基準をアンタが勝手に決めないでくれる?」


 紗希の減らず口が止まらない。こうなってしまってはもう手の付けようが無い。望は日を改めようと調理に専念するのだった。


「……?」


 そんな中、望の方へ何かが宙を舞いながら飛んできたので思わず反射的に掴み取る。


「ああ、すまない。それは僕のだ」


手に握られたのはあるを除けば何の変哲も無い栞。そしてその持ち主は言わずもがな傘の陰で読書をしている誠也のものだった。普通ならば何も考える事無くそのまま返すのだろうが、微風そよかぜ一つ無い凪でこの様な軽い物が飛んでくる筈が無い。明らかにこの男が意図的に飛ばしたのだろう。


「……どうぞ」

「ありがとう」


 あからさまな誠也の誘いに乗ってやる形で望は渡された栞を男に返す。近くに居る紗希に感付かれないように自然な形で受け渡していく。


 ――午前0時、部屋で待つ――


 読唇でそう読み取る事が出来た望は微かに首を縦に振ると、誠也は栞を受け取って日陰の元へと戻っていった。


「……ねぇ望」


 ほんの一瞬のやり取りを終え、望もまた本来の持ち場に戻って調理を再開すると突然紗希が神妙な面持ちで呼び掛けた。


「さっきから高河先輩とコソコソ何をしてるの?」


 細心の注意を払っていた筈だが、やはりこの女は嫌に勘が働くらしい。望は特段焦っている素振りを見せず、串を返しながら白を切る。


「……別に何もしていませんよ」

「嘘つかないで。アンタさっきからヘンなんだけど? 私に隠し事なんかしてタダで済むと思ってるワケ?」


 ここぞとばかりに食い下がる紗希に望は思わず溜息が出た。こうなってしまってはもう引き離すのは容易ではない。どうしたものか、と愛想笑いを零しながら誤魔化していると、思いがけない所から助け船が出てきた。


「風間さんも野暮だねぇ。男二人がコソコソ、と言ったらしかないと思うんだけど」


 誠也が何処か可笑しそうに、揶揄うような口振りに思わず紗希が振り返る。そして彼女は男がこれ見よがしにヒラヒラと振っているのは、これでもかと言わんばかりに如何わしいタイトルと官能的な表紙であった。


「風間さんも読んでみる? これはね、男の領主が女の奴隷を襤褸ぼろ雑巾の如く御奉仕させる――」

「ッ!!! 望の馬鹿!!」


 思い掛けない答えに呆然自失する紗希。我に返った瞬間、茹蛸の如く顔を紅潮させ、望に罵倒するや否や激怒しながら海辺で遊んでいる絵里香達の所へと離れていったのだった。


「……何だいその顔。僕に感謝して欲しいくらいなんだけどな?」

「……アリガトウゴザイマス。トテモカンシャシテイマスヨ」


 一応彼のお陰ではあるが、彼の所為で紗希との信頼に綻びが生じたような気がして、素直に感謝出来ない望であった。

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