第10話

 その日、14時過ぎに起きた沙那さなはむしゃくしゃしていて、母親に熱湯をかけて背中にやけどを負わせた。泣きながらうめく母親をおいてキャバクラに出勤する。母親の携帯電話はとっくに解約して回収業者に売り払ってある。わたしが帰ってくるまでこの女は苦しみ続けるだろう、沙那は思った。後で必ず後悔に変わる、一時の優越感に浸りながら出かけた。キャバクラに出勤したところでそれはやはり激しい呵責に変わった。自責の念に駆られていたところに店長が言う。「今日って1時まで入ってもらえる?」「0時まででいいですか?」「はあ?人数足りてないの分かってるよね?」「すみません。でも母が病気で…。」「先週は向こう一ヶ月閉店時間まで入れるって言ってたよね?そのつもりで予定組んでました。責任果たしてくれないと」何も言えなかった。母親の病気の詳細も、それを保護責任者として放置していることも、出勤前に大やけどを負わせた母親のために早く帰って様子を見てやらねばならないことも、なにひとつ詳しく説明するわけにいかなかった。

 アパートに帰って母親のやけどを見るのが恐ろしくて、ずっと久屋大通公園にいた。そんなときはじめから電話がかかってきた。どんなことを言っていたかは覚えていない。でも最後に一言「ふたりで楽になろう」と言っていたことだけは覚えていた。虚無感に支配されながら栄に向かって歩いていく。東山線の入り口で創と落ちあい、オアシス21の楕円形の天板のうえに上がる。屋上に着くと創が耳元でささやく。「辛かったよね。地獄だったよね。消えたいね。俺も消えたい。ふたりでイこう」沙那は虚ろな声で答えた。「一緒に逝こ」伏見方面に走っていくパトカーのサイレンが鳴り響く中を、ふたりは飛び降りていった。

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