過去 三十六 電車 

 明継あきつぐこう修一しゅういちせつは電車に乗っていた。


 温泉宿から近くの駅に出て、汽車で電車に乗り換えられる駅まで出た。

 道中初めての汽車に興奮した紅が何度も明継を質問責めにして居たのを、二人は苦笑いを浮かべながら先へ進む。

 新橋から長距離で名古屋まで出る電車に乗り、寄船場よりふねばの近くの駅まで向かって居る最中だった。


「二等席が取れて良かったな。」


 修一が電車のボックス席に座っている。目の前を明継が座り、窓際に紅と隣に節が座っている。

 汽車の時と違いか窓が開け放れている。

 田園風景を紅と節が遠くを見ている。

 流れて行く景色に紅は飽きる事を知らない。


「紅が居るから一等席でも良かったのだけれども……。」


 電車には車両によって等級がある。三等席が庶民が乗る値段の席があり、其の上に二等席が値段の二倍掛かり、一等席は金持ちが利用している。


「確かに一等席に乗れば身元の知れた客しかいないが逃げ場がないのだよ。追い詰められたら反撃出来ないよ。」


「馬で逃げると時間が掛かり過ぎるか……。仕方ないな。何時かは電車に乗ると思ってたよ。」


 修一が伸びをする。腰を左右に振り凝りをホグした。


「二等でも席が固いから疲れるな。デッキに出るなら俺を連れて行けよ。」


 車両と車両の接合部に乗り降りのための、吹きっさらしがある。気分転換に客は良く其処に行くのだ。


「紅。外に出たいなら云いなさい。」


 紅の肩をとんとんと明継が叩く。彼は振り向くと目を輝かせた。


「デッキに出ても良いのですか……。」


 明継の袖を引っ張る。


「なら先生も一緒に……。」


 節が外から視線をずらさず呟く。


「狭いから二人しか出られないわ。護衛として林くんを連れて行って。伊藤くんは残ってあげて私が何とかするから……。」


 紅の顔がイブかしくなる。

 節の顔を見てから彼は俯いた。


「では良いです。我慢します。」


 明らかに不本意な表情に明継が頭を撫でる。


「行っておいで。私は大丈夫だから……。」


 節は紅の方に向き直ると溜息混じりに言葉を発した。


「大丈夫よ。誰も取って食おうとはしないから……。二人共に守ると云ったでしょう。」


 紅は明継の顔に視線をずらす。彼と節は笑っていた。


「宜しくお願いします。」


 紅は頭を下げると修一が立ち上がった。彼の後に従う紅。

 何度か後ろを振り返りながら、紅はデッキへ向かった。

 席に残った二人は微笑みながら手を振った。


「紅は何故あんなにも田所さんを敵視しているのでしょうか……。」


 節は既に頬杖を付いて窓の外を見ている。明継が紅の席に擦れて窓際に来た。


「其れは、本人に聞いて……。無粋な真似はしたくないもの……。」


 明継が此れ以上は答えてくれないと察し話題を変えた。

 電車は進んでいる。


田所たどころさんは、修一と仲が宜しいのですか……。」


「林くんは私の先輩に当たるわ。」


慶吾隊員けいごたいいんとしてですか……。」


「林くんは、中学を卒業したら直ぐに天都てんとに出たの。私は女学校を出てから民間の新聞記者になってから故郷に帰ったから……。」


 節は、明継に訝しい顔をした。


「機密事項よ。答えられないわ。」


「田所さんは、何を隠しているのですか……。」


 節は遠い目をした。

 少しの沈黙の後に、呟いた。


「云っても分からない事があるわ。」


 明継は其れは以上は問い掛けなかった。


「伊藤くんが好きな人に似ているからかしら……。」


 節の眼は遠い所を覗いている。今ではない何処かな気がした。


「此処ではない何処かで知らない人達に囲まれて楽しく過ごして居るの。私と伊藤くんは知り合いで、段々仲良くなるのよね。でもね。何かの因縁か仕事を始めると疎遠になっていくのよね。だから、私は……。」


 瞳を瞑る節の横顔を見ていた。


「何でもないわ。冗談よ。」


 明継は何も答えられなかった。電車がトンネルを抜けて行く。一瞬暗くなり又明るくなった。





 紅と修一は一等車両とのデッキにいた。

 遠くから運ばれて来る風は柔らかい。紅の色素の薄い髪が靡いている。

 紅は腰を卸しステップに足を乗せていた。

 枕木が見たくて前のめりにると、修一は紅の腰を掴んだ。


「此れ以上は危ないよ。」


「有難う御座います。」


 修一は又、紅の後ろに立ち、鉄の柱に体重を預けた。一等車両から人が出てくる気配はない。


「紅は本当の所どうしたいのだい……。」


 風が棚引く中修一は紅に尋ねた。


佐波さわ様の意見を尊重するべきなのは解っています。倫敦に行っても日本が戦争を始めれば、其処からも逃げなければならない……。だから、日本にいた方が安全だと思います。でも……。」


 紅は両手で顔を抑えた。

 泣いている訳ではない。此の少年は明継がいなければ泣けない。


「情勢が解っているから余計か……。」


 修一は煙草を出した。燐寸を靴底で擦り風下になりながら火を着ける。


「自分の立場も分かっているのだね……。」


 二等車両の柵に背中を押し付けて修一は煙草を吸っている。


「明継には話しているの……。」


 景色は流れていく。途中で短いトンネルを抜けた。外気が下がった。独特な車両のぶつかる音を聞きながら二人は動かなかった。


「否。何も伝えていません。」


 紅はトンネルを抜けた後に話した。

 修一は煙草の煙の行き先を見ながら溜息を吐いた。


「紅が子供の振りをしなくても良いのだよ。明継が子供で有る事を望んでも……。」


「先生は自由にさせてくれています。其れは修一さんも分かっているでしょう……。」


「分かってるけど、普通は身分の高い少年に懐中したら自分の立場を上げる様にするのが当たり前だと思うのだけれども……。」


「先生は其の様な事はしません。」


 修一は煙を吸い込んだ。


「明継の性格を知っているなら、そうだと分かるよ。でもね。殆どの上層部は思わない。紅が何を云っても信じて貰えないよ。」


 肺から煙を吐き出した。

 出口から出てきた男の子が煙をモロに浴びてしまう。

 紅と同じ身長だろうか、二等車両から出て来た少年は、顔を向けて睨んで来た。


「えっ……。」


 修一の煙草から灰が零れ落ちた。


「修一さん何してるのですか……。」


 少年は笑みを浮かべた。紅も其の少年を見た。


「貴方が紅隆こうりゅう様ですか……。」


 ステップに座っている紅を見ながら少年は答える。


「何をしてるのだ……。常継つねつぐ兄の嫡子。ハル。」


「修一さんこそ紅隆様の護衛中ですよね。煙草など吸って不謹慎ではないですか……。もっと先行していると思いましたよ。私達は追い付こうとして急かして大変でしたのに……。」


 晴は顔をハラいながら鼻を摘まんだ。


「もしかして……。同伴者が居るのか……。」


「御婆様です。」


 修一は頭を掻いた。伊藤の家の者に出会い過ぎると溜息を吐いた。


「明継のかあちゃんか……。と云う事は常継兄から紅の警護に回されたのか……。」


 修一のボサボサな髪の毛が棚引く。


「ええ伊藤家で一番の適任ですからね。御婆様は、一等車両にいらっしゃいますよ。席も二人分余計に買いましたしね。」


「もう、明継のかあちゃん帰されたのか……。道中一緒には無理があるだろう。」


「御婆様を甘く見てはなりません。流石伊藤家の方です。」


 修一は無言で頷いた。

 煙草を咥えながら話した。

 晴は咄嗟トッサに彼から離れた。


「で、晴は何で二等車両で何していた……。」


 修一は二人とは逆向きに煙を吐く。


「見回りですよ。父さんに如何イカなる時も、注意は怠るなとね。三等車両は行かれましたか……。」


「いいや。行ってない。」


 晴は無表情で修一に近付いた。

 声を潜めたいらしい。


「六人組の無頼ゴロツキがいましたね。紅隆様を一等に御連れした方が宜しいかと……。」


 紅は強めの口調で云い放つ。

 意思は曲げるつもりも無い様だった。


「独りでは行きません。先生も一緒に……。」


 晴は我が儘な子供をイサめる様に優しく諭す。


「分かりました。明継叔父さんも連れて来て下さい。修一さん。お願いします。」


 修一は煙草を靴の裏で火を消す。其れを線路の玉砂利に投げた。

 晴は紅を姫様の様に手を差しのべた。


「初めてまして、紅隆様。伊藤 常継の嫡男、伊藤 晴いとう はると申します。紅隆様と同じ年齢です。父上から御噂は兼ね兼ね聞いています。」


 紅は立ち上がる。


紅隆御時宮こうりゅうおんときのみや……です。」


 明継との血の繋がりを感じながら紅は戸惑った。


「明継叔父さんとは会った事が無いのですよ。御婆様と会うのも久しぶりですし、本家に里帰り等初めてです。紅隆様は、何時……。」


 矢継ぎ早に話す晴を止める様に紅が口を開いた。


「紅で良いです。紅で……。」


「有り難う御座います。紅も晴と御呼び下さい。父上から明継叔父さんの事は聞いています。」


 紅は遮る様に云う。


「同年代ですから敬語を使わなくて良いですよ。」


 流石に晴の表情が曇ったが、少し考えてから直ぐに喋りだした。


「分かった。紅も敬語は辞めよう。身分が分かってしまうから普通に話そうね。明継叔父さんは、今時に接していたのだな。父上は其の様な話を……。」


 止めもなく話す晴に、一松の不安を感じながら紅は苦笑いをした。

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