過去 二十八 仮眠
馬が駆けていく。
白んで来た空を、
馬の息が上がっている。
先行する
「先生。そろそろ馬を休ませた方が……。」
真っ直ぐ見据えた侭の明継が、頷く。
声には出さないが、二人分の体重を支えているので負担があった。
「節さん……。停まって下さい。」
紅が大声を出した。
聞くはずのない紅の声に肩を震わせた。直ぐに、手綱を緩め節の馬が停まる。
明継達に近付きながら、
「紅様、如何しましたか……。」
と答える。
「馬も、先生も休ませて上げてください。」
「馬と同じですか……。」
明継は微笑むが、額から汗が顎まで垂れていた。無精髭がうっすら出てきている。
紅は胸元から手拭いを取り出し、明継の汗を拭った。
「関所まで馬を交代させましょう。何としても抜けるわよ。」
「先生を休ませて下さい。此の頃、休んでいないのです。節さん達の為に先生がどれ程心休まらなかったか、解りますか……。」
紅が自力で馬から下り、明継から手綱を取って、頑丈な木の幹に括り付けた。
「まだ、大丈夫だよ。先を急ごう。まだ、辰五ツまでは走るつもりだよ。」
「では、其の時間まで眠って下さい。」
紅は木の裏側に周り、自分の毛布を地べたに敷いた。明継を馬から引っ張り卸ろし、肩に掛かっている毛布を剥がした。
「有り難う。」
座り込むと肩で息をしている。
節が同じ幹に、自分の馬を括り付けている隣で、バックから水筒と弁当と薬箱を紅が出した。
「情けない……。」
紅の顔色が蒼くなった。
「先生に無礼な態度は止めて下さい。軍人と一般人を一緒にしないで下さい。」
節が目を丸くした。
「流石、
節も馬に水を飲ませる。ゴクゴクと音を立ている。
「
紅は明継の世話をし節は馬の世話をしている。
「林くんにも、私が軍人だと云わないでね。誰にも知られたくないの……。」
明継が茶を煽っている。
直ぐに額から汗になって、流れてくる。
「私達に危害を加えないならば……。」
紅が額の汗を拭いながら、明継に握り飯を差し出した。
「私は加えないわ。間違えなくね。だから、大丈夫。」
「其の言葉は信じられません。」
明継が
「部隊名と階級、所属隊長は誰です。嘘偽り無く、答えて下さい。」
紅が立ち上がって節を見た。
「云わないわ。でも、此れだけは信じて伊藤くんと紅様の事を悪い様にはしないわ。軍人にだって、良心はあるのよ。」
「信じません。佐波様の文にすら、貴方は出て来なかった……。貴方は必ず障害になる。証拠はありませんが、其の様な気がします。」
「林くんより信用がないのね……。」
「修一さんは、先生の友達です。其れも親しい間柄です。外の情報も、新聞も運んでくれます。」
節が明継に視線を落とす。
直ぐに、紅が後を振り返り彼を抱き留めた。上半身の重さだけで押し潰されそうになる。
「新聞配達もしてたの林くん。本当に御人好しよね。」
節が近付き秋継を支えてあげる。紅が座っている位置をずらした。
肩と首を支えながら頭を紅の膝に降ろした。次に足首と膝を引っ張って寝転がさせる。
「本当に寸前まで我慢してたのね。馬から卸ろして良かったわ。」
紅が明継の手から、食べ掛けの握り飯を取り食べる。手を付けていない残りを又、蓋を占め直している。
明継の拳から赤黒くなった包帯を剥がす。血は固まっている。オキシドールで傷を拭い、新しい脱脂綿と油紙を乗せ、包帯を巻く。
化膿してないと紅が、安堵している。
「体調は崩さない人ですが眠気には弱いので……。」
「本当に夫婦ね。貴方達。」
「役割分担がはっきりしているだけです。先生は可愛い人、何ですよ。」
膝枕になっている紅は明継の髪を撫でた。
「節さん。足元の毛布を取って先生に掛けてあげて下さい。」
節は紅に云われる侭体に掛ける。
「所属名は云えないの指示なのよ。御免なさい。」
「其の人の指示は、私達を二人とも倫敦に行かせる事ですか……。」
「今の所は合っているわ。」
「指示が変わる可能性は……。」
紅が秋継の汗を拭いながら呟く。
そよそよと風が吹いている。
「五分五分。」
紅は言葉を返さなかった。
少しの沈黙。
「では、何故先生と会った時、自分を新聞記者と偽ったのですか……。」
「前職が新聞記者だったの。其の伝を使って、任務をしてるのよ。」
「
「否定はしないわ。紅様が思ってる通りだもの。でもね。誰かがやらなくてはいけない任務なのよ。」
「尚の事、先生に近付かないで下さい。」
節の瞳に愁いが表れた。
紅の瞳から侮蔑した視線を感じ取ったからだった。
「伊藤くんに近付いたのは、
節は馬の方へ脚を向ける。
「馬の番は私がするので、紅様も眠って下さい。」
寝息を立てている明継の顔を見ている。
「いいえ、大丈夫です。」
紅は強い口調で答えた。
振り替えることもないはっきりした拒絶。
「其れより、伊藤君が居ないと紅様は、性格がきついのね。猫被ってるのかしら。」
「先生と居る時が自然です。」
「伊藤君は紅様と居る時の方が、肩に力が入ってる感じがするわ。」
紅が、太陽光が強くなったので手拭いを、明継の目蓋に載せた。
「先生と同じ初等教育を受けていただけですよね。私は三年間も一緒にいます。此れから……は、もっと長い時間を共にします。」
節は首を傾げた。
女の感は鋭かった。紅を馬鹿にするでもなく、
「紅様は、私に嫉妬しているのですね。又、何か昔話でもして紅様が機嫌を悪くさせるのは、申し訳ありません。紅様が敏い方だと知っています。」
紅の後ろ姿は、
「無意味な敬語は要りません。」
「建前は、私は佐波様に使えている身分です。紅様に失礼があっては駄目です。」
「先生の話をする時だけ、言葉を砕くの止めて頂けますか……。不愉快です。」
紅の背中が、彼女を拒絶していた。
側に置いてある握り飯を、紅は食べ始めた。不愉快を食べて紛らわしている。
明継の顔に落ちない様に注意を払って食べているのが、節には解った。
「伊藤君とは、同郷ですもの。紅様とは立場が違うわ。」
「其れでも嫌です。見ているだけで腹が立ちます。もうこれ以上、先生に話掛けないで下さい。」
紅の食べる勢いが勝る。
節は諦めた様な表情になった。今の紅に何を述べても、火に油な感じがした。
「伊藤君と私は何もないわよ。気にしないで……。」
「其れでも嫌です。」
飯を一つ食べると、又紅が握り飯を掴んで食べ始めた。明継の分は残す様で、紐で閉じている。
「先生を休ませたいので、黙ってて貰えますか……。」
紅が苛立ちながら、茶を飲んだ。
既に日が上がっており、暖かな太陽が出ている。
明継の髪を撫で続けながら、紅が大きな息を吐いた。
自分でも幼稚な態度を取ってしまったと、後悔した。
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