35.
稀有にも人が透明になった様を見たことはありましたが、更に稀有にも自分が透明になると、これもかなり複雑で新鮮な気分です。そういえばわたしもハーツさんがあの薬を飲んだとき目の前のこの人のような反応をした覚えがあります。
理由も原因もあまりに不明ですが、これを好機と見ない理屈もありません。
立っていた位置から少し離れます。足音を立ててしまったかもしれないと気がついたのは直後でしたが、都合よくそれもなくなっているようで、彼女は雲を掴もうとするように朧げに腕を伸ばしています。もちろん迅速なあの動きとは打って変わって、こんなパンチ、かわすくらいどうってことありません。
進路を妨げないようドアを開けるとすぐに反応し、外に飛び出していきました。読み通りです。同じ方向にゆく必要もありませんから二階に上り、見えていた木板橋へ向かいます。ガタガタと揺れはしますが慎重に歩けば問題ありません。窓から隣の家へ侵入し、動線を悟らせないよう板を下ろしておきます。家を渡っても同じように埃をかぶり、壁の一部は黒ずみ、八脚の虫もこんな場所に迷い込む愚か者を獲物と待ち構えています。
ひび割れた大鏡を見つけて近づきます。踏んづけた破片で転ばないよう注意し、正対すると、差し込む西日に照らされた鏡の向こうには風化して空っぽとなって薄暗い部屋が映っているだけです。いるはずの人物は映っていません。
手を切らないよう鏡の破片を一つ拾い、目元ギリギリまで近づけて……うわっ!きゅ、急に映りました。至近距離どころか、目と目がぶつかるくらいの近さでもなければまず見えないということでしょう。現象はおよそ理解しました。
探しの魔法をもう一度発動します。ドアから飛び出して少し遠くまで行ったようです。この分なら順調に見失ってくれるでしょう。皆さんは……少なくとも近くにいません。こちらはまさに見失っている最中でしょうか。親玉もいるかと深く探してみますが分かる範囲では確認できません。でも、この魔法に頼れば見つからずにひとりで帰ることもできるはずです。食堂まで辿り着けたならご主人さんを頼って他の皆さんの帰りを待つだけです。問題は広い街を隠れながらとなると明らかに時間がかかることですし、少なくとも日がもう落ちようという今日は難しいかもしれません。
鼻血をまた出さないよう、探しの魔法を使うのは定期的にしました。人が『眼』に映るたびにビクリと身体が跳ねる思いをしましたが、鏡の破片で確かめる限りまだまだ透明なままのようですからもし近づいてしまってもやり過ごせることでしょう。が、それでもピリピリとした感覚が肌の表面を駆け回って悪寒を立てます。
時間はすでに経ち、月明かりがただ青く冷たい陰影を落としています。寒い。袖の長いお洋服に包まれてもなお、夜の寒さを克服することはできそうもありません。クローゼットの中に収まって足を畳んで丸くなります。先住の服は元々おらず、わたしが間借りしました。代金として、少し埃を払って差しあげげました。
手元に大事に持っていた本をパラパラとめくりますが、当然ですが闇夜の世界は文字を溶かし切るので紙の匂いがふわりと広がる程度です。落ち着かない気持ちのまま髪結いを弄ると、ほろほろと解けてほとんど形を失いました。さっきまでの誘拐の一連が原因の大部分なのでしょう。ものとして失ったものは一切なくとも、これはわたしにとって大きな損失に感じられます。右手に掴みっぱなしの鏡の破片を指でゆっくり触ります。強く触ると切ってしまうはずが、弱く慎重に撫でると表面の凹凸や冷たい感触が優に感じられました。
一連を経て、わたしは丸くなった状態を続けます。寒さを誤魔化そうといろんな気の紛らわせ方を試してもみましたが、いよいよ限界のようです。アルカさんから教えてもらった炎の魔法は、この青白の世界に朱い炎は目立ちするかもしれません。今は明らかにウォーレンさんたちよりも誘拐一味に見つかる可能性のほうが高そうです。しかし、今晩はとても寒いです。昨日はこうではありませんでした。全身が痙攣して暖を取ろうとします。少しくらいならいいでしょうか?指先から自分の体でなくなったかのよう。刺すような緩い痛みを少しでも意識の外に追い出すためなのでしょうか。まだ、まだ夜は明けません。もう一度身体を震わせて、既に氷になったのではないかと耳を触ります。まだくっついています。大袈裟でしょうか。目を閉じて時間が過ぎるのを待ちます。ハーツさんと一緒に眠る時は、むしろハーツさんより先に寝まいと競争までしていたのに、今はむしろ目を閉じて意識を手放すまでこんなにも時間がかかることに苦痛すら抱きます。再び目を開いてはみましたが、当然暗いままです。時間を過ぎさせる魔法でもあればいいのに。クローゼットの戸を少し開きます。青い光の作る影は張り付いたようで変わらりません。その暗がりに見えない何かがいたような気がしてすぐに戸を閉めます。……寒い、寒い。まだ夜は明けない。暗い……。こんなことなら誘拐彼女の元から逃げ出さずに大人しく捕まっていた方が良かったのでしょうか。そっちはそっちで大変な思いをしたことでしょうが、少なくともこの寒さだけは何とかしてもらえた気がします。胸の真ん中がキュッと摘まれたように痛いです。誰か……誰かいないのですか……?誰か……。
目をぎゅっと瞑って気がつけば明日が始まっていないかと期待しながら、解け切ってしまった髪をまだ触っていると、急に階を登る音が聞こえました。心臓が跳ね起きます。寒さに気が行き過ぎてしばらくの間探しの魔法を使えていませんでした。なんたること。急いで使います。……知らない人です。誘拐彼女でもウォーレンさんたちでもありません。この時間に、こんな場所に。男の人です。昼間に見た冒険稼業の方々の格好に少し似ています。同業でしょうか?誘拐少女の方と一緒に行動している人とも考えられなくないです。心臓を押さえつけるように本を抱きかかえ、息を目一杯吸い込んでその一瞬をしのぎ切ることに全力を尽くします。室内、じっくりと探索するかと思えば、窓際から外の光を眺める程度です。あと少しでどこかへ行くでしょうか……。
ガコッ。完全に油断が招いた音は、わたしの足あたりから発せられたものです。畳んでいた足がそろそろ辛くて少し伸ばしてしまいました。クローゼットからの怪しい物音は気を引かせるにはもってこいです。月光を楽しんでいた彼はすぐにこちらの入居中のわたしの砦に近付きます。
「んだァ?ここからか……」
戸に手をかけられて、もちろんその間にわたしは逃げ出すことなど不可能で、そしてその好奇心は簡単に開け放ってしまうものでした。中身のわたしは確実に彼にその全身を認められ、彼の視線はわたしをまっすぐ貫きました。息をのみます。体が動きません。次にどうすればいいのかなんてありません。この状況は……。
「なんだ……?気のせいか」
目の前の彼はそう言ってクローゼットの戸をバンッと閉めました。き、気付かなかった……?ただ、わたしはハッとして自分の手に握った鏡片を覗きます。……映って、ない。そうでした。我ながらなんて初歩的なことを見落としていたことでしょうか。止まりきったとすら思える心臓をなでおろし、ゆっくりと活動を再開させます。吸った息をまた吐き出して、落ち着けて状況を再確認します。彼は少し疑いを持って部屋の中を見回していますが、じきに階下へ向かうでしょう。クローゼットの中は先程彼が勢いよく閉じた衝撃で溜まっていた埃が……舞って……それが、鼻元、を……、だ、駄目です……今はま、まだ、まだ、まずいで、す……。
は、……は、…、は、はくちゅっ!!!
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