心臓日記

その人と居ると「すべてが冒険のようで」あると感じる人物というのはごく稀に現れる。春に降る雪のように。

私は平生と変わらず一人むなしく、誰からも気に掛けられること無く飲み屋の片隅で安酒を飲んでいるだけなのに、何故かどこからかそういう人物が現れる。不図顔を上げた瞬間に目が合う。束の間の長い夢、菫色の夕焼けのような。取るに足らない物を、深遠な意味を持った素晴らしい何かであると勘違いしてしまいそうになる。一日の長さが三十時間にまで延長され、きらめく夜の光が転ばないようにと足元を照らしどこまでも続いていく。途切れがちな会話が風の隙間に消える。──これは、実際はほんの数日間の出来事で、間違い無くすべては元通りに、冒険には必ず終わりが訪れることを知る。

初めからここは見知らぬ人間たちが明るい電球のもと談笑する場で、彼らは誰一人として暗がりでうずくまるわたしの存在には気付かない。そして誰もが持っている、ありふれた取るに足らない物しかここには無いということを否が応でも目の当たりにする。最も優れている物はいつも他の誰かの手の中にありわが手中には無い。

老いさらばえうらぶれた私は、空いた右手で震えながらコップを掴み、数十年前と何一つ変わらぬ仕草で安酒を煽る。酔いが醒めないよう慎重に、間断無く。皺だらけの唇の端から唾液と酒が零れ落ちる。かつて誰かが隣に居たのに、今は誰も居ない。甘い記憶としてすら残ってくれなかった日々を、どうやって懐かしめばいいのか。

窓の外で小鳥の鳴き声がする。続いて男の咳払い。ヤニと埃と熟れた果実の香り。触れてはいけない物に触れることももう無い。何もかも過去のことだ。あと一杯で酩酊出来るのに、手持ちが尽きてしまった。頭を抱え眠りに落ちるのを待つ。

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