第10話名前がないコーヒー
『こちらのコーヒーに名前をつけて下さい』
ある晴れた日、そんな宣伝文句に惹かれて、店のドアを潜った私は、空いた席を探す。
すると、その様子に気づいた女性店員が近づきながら
「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」
と訊ねてきた。
コクリと頷き、私は案内されるままに、彼女の後ろをついていく。
奥にあるお一人様専用の席に案内され、私は着ていた薄手のコートを脱ぎ、向かい側の藤の蔓で出来た椅子に掛けた。
それから、店の雰囲気に良く合っている、焦げ茶色のソファーに、深く腰掛ける。
落ち着いたところで、店員を呼び
「外の看板に『コーヒーの名付け親に』と書いてあったのですが?」
と、興味津々で訊ねた。
「それは、こちらの企画になります」
そう言って、店員が近くにあった小さなメニュー表を、目の前にそっと開いて見せる。
そこには、コーヒーカップの変わりに、オレンジ色のマグカップが映っていた。
「コーヒーカップが、マグカップになっているよ」
思わず私の口から困惑の声が漏れ出す。
しかし、挑戦するべくここに入ったのだから、一応名前を考えてみるつもりだ。
「今回はマスターがブレンドしたコーヒーですので、気を張らずに自由に名付けてみて下さいね」
店員は、気難しい表情をしていたであろう私にそう言うなり
「早速コーヒーをお持ち致します」
と告げ、足早にその場から離れた。
「名前……名前ねぇ……」
“まだ飲んでいないのに”と、自ら突っ込みを入れ、呆れ笑いを浮かべた私は、気分転換をする為、さり気なく辺りを見回す。
決して広いとは言えない店内には、太くて立派な柱が
天井の梁は、柱同様長年コーヒーを淹れているせいか、焦げ茶色に染まっている。
何処か懐かしいと思わせたのは、独特の香りが鼻を
“何故、今……懐かしいと感じたのだろう?”
ここへ入ったのは、今日が初めてなはずだ。
なのに、何故?
私の頭はいつしか“コーヒーの名付け”から、“お店の情報”へと興味が移っていた。
「お待たせしました、ブレンドコーヒーでございます」
色々と必死に考えていて頭が回らない私の耳を貫いたのは、先程の女性店員ではなく、低く張りのある男性の声である。
しかし、私の瞳は声の方ではなく、差し出されたコーヒーの入れ物に向けられていた。
「本当に、マグカップで持ってくるのですね」
“ここのお店は面白い事をする”と、私は妙に感心し、早速一口飲んでみた。
あまり得意ではなかったが、コーヒー特有のほろ苦いさが口一杯に広がっていく感覚は悪くない。
そして、コーヒーが3分の1までなくなった頃、私は背中を丸めて
「確かにブレンドコーヒーだ……」
と、小さな声でポツリと呟き、今度はマグカップの取っ手を握ったまま、上目遣いで近くにいるであろう店員の顔を拝もうとした。
その瞬間、私の表情が凍りつく。
彼の姿が、今の自分と体型等がそっくりだったからである。
いや、正確には
“年を重ねると、私はこんなに太るのか?”
驚きの眼で見つめる私に、彼は平然とした態度で
「お客様、いかがなされました?」
と、慌てて声をかける。。
「あっ、いえ……」
“何でもないです”と、言おうとしたその刹那。
今度はじわじわと後頭部に迫り来る痛みに襲われる。
それが頭痛だと分かった時には、店員とマスターに、“大丈夫ですか?”と、頻りに声をかけられていた。
(今度は……何だ…‥?)
波が押し寄せては引いていくような痛みに耐えかねた私は、答えなど分からない問いを投げかけ続ける。
「救急車でも呼びましょうか?」
マスターの悲痛な叫びにも似た問いかけに答えることもなく、私は気を失った。
「……なた」
(だ、誰の……声だ?)
「あなた?」
「うーん……」
「ちょっと、あなた!」
“大丈夫?”と言いながら、私の顔を憂い顔で覗き込む女性が1人。
私の妻である。
そして、もう1人は無邪気な顔で彼女と同じ行動を取る、私の幼き娘。
「パパ、起きた?」
「う、うーん……痛ててて」
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
娘に心配をかけたくなかった私は、上手く誤魔化し
「私は何故、ソファーに寝ているんだ?」
と、キョトンとしている妻に、話しかけた。
そして、辺りを見回して、ここが自分の家だと確認する。
薄い緑色を基調とした部屋は、外でのストレスを抱えて帰ってくる私にとって、安らぎを与えてくれるとても大切な
そんな、物思いに耽る私に呆れた口調で妻が
「台所で倒れていたから、リビングに運んだのよ」
と、状況説明をする。
それに言葉を付け足すかのように
「パパ、料理をしてて、油を零しちゃって。
タオルで拭こうと思って動いたら、滑って転んじゃったんだよ」
と、娘が体をくねらせて細かく説明した。
その可愛さに一瞬胸が熱くなったが、彼女が持つマグマップを見て、みるみるうちに青冷める。
それは、喫茶店で見たオレンジ色のマグマップそのものだったからだ。
驚きと共に不思議な感覚が、私にある挑戦を決心させる。
「なぁ……」
まだ痛む後頭部を恥ずかしそうに擦る私は、、隣りで娘の相手をしている妻に
「40才になったら、喫茶店を始めてみないか?」
と、いつになく真剣な眼差しでそう訊ねた。
「どうしたの?
急にそんな事言いだして……」
“やっぱり、明日診察してもらいましょう”と、今にもそんな言葉が口から飛び出しそうな妻に
「資金(カネ)なら、頑張って貯めるから。
それに、最初は土日限定で店を開けば、会社には負担がかからないだろう?」
と、私は矢継ぎ早次々とにアイデアを伝えていく。
更に不満な表情(カオ)を浮かべて耳を傾ける妻に
「それに……
確かめたい事もあるんだ」
と、喫茶店を開く最大の理由を、“もう一押し”と言わんばかりに伝えた。
「確かめたい事って?」
“あっちに行っててね”と、じゃれつく娘に笑顔で言った後、妻は困惑顔で私に訊ねる。
「それは……」
私は彼女の瞳の奥に感じた小さな怒りに、一瞬怯んで言葉を呑み込もうとしたが、ここはどうしても譲ってはいけない気がして……
「一杯のコーヒーで悩める人達の心を、少しでも明るく和ませられたらと思ったからだ」
私は改めて決意を固め、はっきりと理由を告げた。
(これで駄目なら、私1人だけでも喫茶店を開く)
“私はあの喫茶店で出会ったマスター達の正体が知りたい!”
誰にも言えない思いを胸に秘め、妻の答えを待つこと数十秒。
「まぁ……
生活に支障がない程度なら、やってもいいわよ」
「本当にいいのか?」
「他人の人生を変えられる程の
それに、少しだけ困っているお客さんが、笑顔で帰ってくれればいいなと思ったの」
妻は苦笑して胸の内を明かし
「40才まで時間がないから、今から色々考えないと」
と言って、その場から立ち上がる。
「それなら、半年や1年に1回でもいいから、お客さんに新しく提供するコーヒーの名前を決めてもらうというのはどうだろう?
私が淹れたコーヒーではなくても、名付けに困るマスター達が淹れたコーヒー《モノ》でも構わない」
“どうだい、いいアイデアだろう?”
自信に満ちた瞳で語る私の態度は、嘸(サゾ)かし滑稽だったに違いない。
その証拠に、妻はクスリと笑い
「何処にもなさそうなアイデアだから、やってみましょう」
と、私の提案に乗ってくれた。
斯くして、私の途方もない夢物語は、家族の協力の
未来にある不思議な喫茶店で飲んだコーヒーの味に近づく為に……
令和3(2021)年4月12日22:00~4月18日6:40作成
Mのお題
令和3(2021)年4月12日
「一杯のコーヒーが人生を変える」
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