四章 夏、きづく

 必要なものだけが詰め込まれた“狭い部屋”で、僕は目を覚ました。

 小さな窓から朝日が差し込む。あとほんの少し経てば、うるさいサイレンとともにこの建物にいるすべての人間が起床するだろう。

 寒い。布団から出たくない。

 だがうるさいサイレンに煽られて布団を出るのはもっと嫌で、僕はうつろな目をしたまま布団から体を出すと、ただその場に座って、サイレンを待った。


「お大事になさってください」

「…………」

 事務的で感情のない台詞に、僕は何も言わず会釈だけをした。

 自動ドアが開いた瞬間、人を不快にさせるには十分なほどに熱された空気が僕を包む。

 もう何日も着替えていない縒れたTシャツの胸元をつかみどうにか暑さをしのごうとするが、服の中を熱気が循環するだけで、いやに大きく見える太陽はただ小さな人間を嘲笑うかのように白く燦々と光っていた。

 帰路につき街の風景が変わって、ふと頭の中にメロディが浮かんだ。

 どこかで聴いたような気がするメロディだった。

 隣を歩く彼女が、同じメロディを小さく口ずさんだ。

 その曲、なんだっけ、と僕が尋ねる。

 彼女は一瞬だけ目を見開き、そして、自分の曲忘れたの、と笑って言った。

 あぁ、そうか、僕の曲か。道理で聴いたことがあるわけだ。


 街は暑さを煽るような喧騒に包まれていた。

 世間はいま夏休みらしい。

 普段のスーツを着た大人たちで塗れた街と同じ場所だとは思えないほどに、道行く人々の様子はいつもと違った。

 ふと、背後から呼ばれた気がした。

 そんなわけはないのだが、なぜか名前を呼ばれた気がして、僕は振り返った。

 誰もいなかった。

 確かにNana、と、そう聞こえたのに。

 いや、よく考えてみれば呼ばれたわけじゃない。

 名前を誰かが口にするのは聞いたが、別に声を張っていたわけでもない。

 人違いか、そう思った時すぐ後ろで信号を待つ、見た感じ彼女と同じくらいの年齢だろうか、男子数人の言葉が耳に入った。

 そしてすぐに、今までのことを理解した。

 彼らは、Nanaについて話していただけだった。

 彼の曲について、それは楽しそうに、話していただけだった。

 僕は少しだけ裏切られた気持ちになって、止めていた足をすぐにまた動かした。


 彼らの言葉はどれも重く苦しいものだった。

 作った本人の僕すら知らないことを、彼らは知ったような口調で、自慢げに目を輝かせて話していた。

 何も知らないくせに、と思うだろうか。

 そんなことを考えることすら、その時の僕はしなかった。

 うだるような暑さに足を前へ動かすことすら億劫で、僕はちょうど道の脇にあったコンビニへ入った。

 心地の好い冷風が汗ばんだ肌を撫で、むしろそれが少し寒くて、僕は身震いした。

 店内に入り、少し進んだところで僕は足を止めた。

 よく考えてみれば何が欲しいわけでもなく、だが入った以上何か買わないとただの迷惑客になってしまう。

 どうしたものか。

 そう考えているうちに、ストレスに似た何かに襲われる気がして、呼吸が苦しくなってきた。

 胸を押え何とか姿勢を保とうと近くにあった商品棚に手をついた。

 幸か不幸か、その時店員は品出しをしていたらしく、僕には気づいていなかった。

 呼吸を何度も繰り返し、朦朧としてくる視界の中、片手に持っていたビニール袋から錠剤を取り出し口に放り込む。

 店員に悟られないようにするのが精一杯だった。

 呼吸が落ち着くのを待つ。

 乱れた心が薬で落ち着くのは心地良かった。

 冷凍ケースを無造作に開けてアイスコーヒーのカップをとる。

 薬のおかげもあって、もう大分落ち着いていた。

 音楽が聞きたいと、気づいたらそう思っていた。

 アイスコーヒーとビニール袋を持ってレジに行っても、少しばかり焦点のあっていない目に、店員は気が付かなかった。

 機械的に会計を済ませ、僕はレジ横にあるゴミ箱に持っていたものをすべて放り込んだ。

 店員が驚いたようにこちらを見る。

 その視線に気づいてはいたが、僕はそれを無視して足早にコンビニを出た。


 家に着く頃には既に症状は治まっていた。

 キーボードの前に散乱した薬を床に払って、パソコンを起動する。

 薄暗い部屋でモニターだけが不気味に光った。

 音楽を流すと、彼女の声が聞こえた。

 ニコニコ動画に投稿されたその曲は、彼女が口ずさんでいた曲だった。


 ひたすらに音楽を書き続けて数日。

 いつものように朝起きて、僕は枕元に置いてあったスマホを手探りで探した。

 何件か通知が来ていることを確認して、彼女からのメールを開く。

 メールを読み、着替え、顔を洗い、コーヒーを飲み、朝食のパンを食らう。

 パソコンの前に座り、散らばった薬を拾い上げて口に入れる。

 その場にあったコーヒーを見て少々思案し、まぁいいかとコーヒーで薬を流し込んだ。

 ノートパソコンをバッグに突っ込み、どこから出てきたか分からないブランド物のキャップを深く被る。

 玄関まで行って、靴を履き、そこでイヤホンを忘れたことに気が付く。

 クローゼットにしまっていた春物の上着のポケットにしまっていたことを、僕は何故か覚えていた。


 その日はいつもと違い、彼女の都合で現地集合ではなく駅から一緒に行こうという話になっていた。

 バッグに密着した背中がとめどなく流れる汗で気持ち悪かった。

 周りを歩く人々が僕のバッグをチラチラと見るのに気がついて、慌てて赤い札を外しバッグに放り込んだ。

 彼女と会う前に気がつけて良かった。

 そう思って胸をなでおろし、僕はまた帽子を深く被り直した。

 駅前につき、彼女の姿を探すでもなくしばらく何も考えずに歩いた。

 歩いていた方が涼しい気がしたから。

 そうして歩き回って、時々視界に映り込む広告の文字も目に入ったまま読んで、道行く人の観察にも飽きてきたころ、僕は人ごみの中にあの長い綺麗なツインテールを見つけた。

 暑さなんて既に忘れていた。

 汗で塗れた体も気にせず走った。

 人を押しのけ、風を切るのが気持ちよかった。

 彼女のツインテールが、小さく揺れた。

 イヤホンが外れそうになって、咄嗟に手で押さえる。

 肩がぶつかったらしいおじさんがこちらに向かって怒鳴ってくるのが見えた気がした。

 音楽と彼女だけになった僕の世界には、知らないおじさんが入ってくることなどなかった。


 話しかければ気づく距離。

 僕はなぜかそこで足を止めた。

 分からない。止まってしまったのだ。

 動けと念じても、膝が笑って動かない。

 異常なほどに激しい呼吸を繰り返しながら、僕は彼女を見ていた。

 声を出そうにも呼吸することだけに精一杯で、彼女の名前を呼ぶことすらままならなかった。

 頭の中で何度も繰り返す。


 SAKU。SAKU。さく。さく。

 

 気づいて、さく。


 僕はここだ。


 ここにいる。


 さく、お願いだ。


 早く。


 ねぇ。


 どこに行くの。


 僕をおいて。


 どこに行くの。


 なんでおいていくの。


 さく、君がいなきゃ僕は。



 僕は。



 振り向いた。

 彼女はツインテールを揺らしながら、ゆっくりとこちらに振り向いた。

 驚いたように目を見開いて、それから一瞬だけ笑って、次は怒ったように頬を膨らませた。

 ころころと変わる彼女の表情で、僕の鼓動はすぐに穏やかなものになった。

 僕は今、どんな顔をしているだろうか。

 ちゃんと、彼女が不安にならないように、表情を作れているだろうか。

 彼女が口を開いた。

「やっと見つけた。ずっと探してたんだよ、ななさん」

「……探してた? 僕、を…………?」

 何とか声を振り絞る。

「当たり前じゃん。前から決まってたし、それに朝ちゃんとメールしたのに、全然いないんだもん」

 彼女は安心したようなだけど少し怒ったような顔で言う。

「なんかあったんじゃないかって、心配してたんだよ」

 頭が回らなかった。

 彼女がこちらを見て、僕に気づいて、声をかけてくれたことへの安心感が全身を覆って、それだけで彼女の言葉を咀嚼する余裕はなかった。

「ていうか、そんな格好してるとまた警察にお世話になっちゃうよ。ほら、帽子外して!」

「あ……」

 背伸びをして、僕の頭から帽子を奪い取る。

 それを自分でかぶって、彼女は柔らかく笑った。

 日よけを失った僕には眩しすぎて、彼女の笑顔を直視することなんてできなかった。

 だけどその笑い声は、僕を救うのには十分すぎるほどだった。


 いつもと同じスタジオで、いつものようにレコーディングを終わらせた。

 さくが気に食わないと言って何度か録り直し、それならばと僕も何個か要望を出して、2人が満足する頃には始まってからかなりの時間が経過していた。

「もうこんな時間。帰らないと……」

「門限?」

「うん。門限の1時間前になったら何処にいるか調べて、電話されちゃう」

「友達と遊んでることにすれば?」

「あー、…………とも、だち、……。うん、そう、だね……。それもいいかも」

「うん」

 軽率な発言をしたことに後悔した。

 何となく分かっていたはずなのに、なぜ言ってしまったのかと自分を責める。

 だがここで謝りでもすれば、彼女をもっと悲しませるだろう。

 そう考えて、僕は咄嗟に話題を変えた。


「いま……、もうちょっと違うテイストの曲も作りたいなと思ってて、さくにも意見を聞きたいんだけど。どうかな。あ、でも具体的にはまだ何も」

 言い終わって、少し早口だったことに気がつく。

 焦りが彼女にバレてしまっていないだろうか。

 ダメ押しにもう一度「どうかな」と尋ねる。

「……うん! すごいいと思う! 私も新しい歌い方とか、チャレンジしてみたいし!」

 彼女の笑顔が僕を安心させる。

 別に顔色を窺って会話をしているつもりはないし、さくを怒らせたら怖いとか、そんなこともない。

 だけど。

 彼女が笑うと安心した。

 心が落ち着いていくのが分かる。

 笑顔を見ると全てが合ってるような気がして、まるで「君は君のままでいい、大丈夫」と言ってくれているような、そんな気がした。

 誰からの称賛よりも、彼女が笑っていればそれでよかった。

 無意識に顔がほころんだ。

「そっか。よかった。じゃあ考えてみるよ」

「ジャンルとかの幅が広がれば、もっと色んな人に聴いてもらえるだろうし! いつも通り、ギターは相談してね」


「でも、今まで作ったことのない方面って言っても、あんまり浮かばないな……」

 日も延びてきていつもと同じ時間でもまだ明るい街を並んで歩きながら、僕は何となく頭に浮かんだ言葉をなぞった。

 隣を歩く彼女は小さくうーんと唸り、それから何か思いついたように、あ、と呟いてから言った。

「旅行とか、行ってみれば何か浮かぶかも」

 そう言えば、旅行なんてもうずっと行っていなかった。

 最後に行ったのは……、昔の恋人とだったか、それとも大学のサークルだったか。

 どちらにせよ、もう詳しいことなんて忘れてしまうほどには昔の話だった。

 彼女に言われるまでそんな発想もなかった。

「旅行かぁ……」

 特に何か考えているわけではないが、会話を続けるためにそれとなく呟く。

「私は……親が、あれだから、日帰りじゃないと無理だけど…………」

 その言葉を聞いて、彼女と共に旅をする情景が驚くほど自然に、そして鮮明に頭の中に描かれた。

 彼女と旅がしたいと、心の底からそう思った。

 行きたい場所ならたくさんある。

 だが―――。

「行きたいけど……。でも、たぶん怒られちゃうから。遠出はやめといたほうがいいかな」

 誰に、と彼女は聞かなかった。

 ただ「そっか」と笑って言って、彼女はまた別の話を楽しそうにするのだった。


 いつもとは違う曲が書きたい。

 そう心では思っていても、中々思いつくものでもなかった。

 何か浮かばないかと色々考えているうちに、頭に浮かぶのはいつもと同じような曲ばかりだった。

 何も見えない暗い道をさまよい続けて、たまたまそれを見つけることが出来る時は人によって異なる、何かきっかけのようなものがある。

 僕の場合はいつも電車に乗っているときだった。

 特に何も考えずに電車に揺られ、気が付くと音楽が頭を埋めつくしていた。

 もちろん例外はあるが、大抵は電車に乗っている時に見つけていた。

 その曲を見つけたのも、電車に乗っているときだった。

 見つけた、なんて表現すると語弊があるかもしれないけど、創作なんて結局既存のものを組み合わせただけで、つくった、などと胸を張って言えるものじゃないと思う。

 僕はただ、先人たちがつくったものを見つけるだけ。


 休日の朝、その女性は1人で抱えて歩き回るには無理があろうと思えるほどの荷物を持ち、朝だと言うのにどこかやつれた顔で立っていた。

 何ともなしに、僕はその女性に視線をやった。

 ゆっくりと女性の口角があがった。

 何か話している。

 電車の音にかき消された声は僕の耳には届かない。

 誰かと楽しそうに会話する女性の表情は柔らかかった。

 別段、美しく端正な顔立ちをしているわけでもない。

 だが、その表情は僕には他の何よりも輝いて見えた。

 ふわりと小さく笑う女性が僕の心をくすぐる。

 その笑顔が、ふと彼女のそれと重なった。

 気が付いたら勝手に指が動いていた。

 音楽が、メロディが、降ってきた。

 頭で考えるよりも先に、指が見えない鍵盤をたたく。

 作った自覚がないのに、確かにその曲は僕の曲だった。

 電車の走る音が心地いい。

 車窓に切り取られた風景が、車内の匂いが、流れる空気が、全部心地よかった。

 この感覚は、何だろう。

 何なのだろう。

 感じたことがない、この胸の高鳴りは。

 隣に座る彼女が笑う。

 楽しそうだね、と彼女が言う。

 そうか、僕は今、音楽を楽しんでいる。

 彼女が僕の作った曲を口ずさんだ。

 僕の曲は空っぽだ。

 彼女が歌うと、それが満たされいく気がした。

 気のせいかもしれないけれど、ただ確かなのは、すぐ横から聞こえる彼女の歌声は僕の全部をぶち壊すほどに、美しかった。


 勢いに任せて、力いっぱい扉を押した。

 が、頭の中で思い描いていたようにはいかなかった。

 ドアノブをつかんだ右腕が負荷に耐えられず、体が扉にぶつかる。

「うおっ」

 変な声をあげながら、ゆっくりと重たい防音扉を開けた。

「あ、ななさん! 今日は遅かったね」

「ごめん、ぎりぎりまで調整してて」

 いつもの部屋の、いつもの席で、彼女はいつもと同じように本を読んでいた。

 背後から扉の閉まる音がして、部屋がしんと静まり返る。

 完全防音のこの部屋は、外部から音が入ってくることもなく、ただクーラーがうなっているだけだった。

「今回はギターなしだから、今日はボーカルの録音だけなんだけど……」

「うん」

「いつもと違って、かなり要望出しちゃって、ごめん。どう? 歌えそう?」

「うーん……。正直言うと、ななさんの理想像になれるかどうか、自信はない、かな…………」

「……そっか」

「でも! 頑張る! いっぱい練習したし!」

「練習の時は結構よさそうだったから、そんなに気負わないで。僕たち二人でつくる音楽だから、ね」

「うん」

 彼女の笑顔が眩しかった。

 僕は気が付かないふりをして、ミキサーに手を伸ばした。


 見慣れた光景が目の前に広がる。

 分厚いガラスの奥には、ヘッドホンをしてマイクの前に立つ彼女がいた。

 服に着いた埃を払ったり、髪を気にしたり、彼女はどこか落ち着かない様子であった。

 発声練習をする声が震えているような気がした。

 彼女のタイミングに合わせていつでも始められるように音源の確認を何度か繰り返す。

 ミキサーとパソコンをいじる指が震えていた。

 震えを抑えようと拳を強めに握る。

 それなのに何故か、自然と口角が上がっていることに気付いた。

 不思議な感覚だった。

 緊張を隠しきれていない彼女がガラス越しに見える。

「お願いします」

 大きく息を吐く音と、彼女の声が聞こえた。

 彼女がこちらを見て少し照れくさそうに笑った。

 緊張が彼女にも伝わったのだろうか。

 僕は小さく笑い返して、それから―――。


 音楽が流れ始めた。

 僕の曲だ。

 頭の中で、作りながら、完成してから、何度も何度も聞いてきた曲。

 それでもやっぱり、まだ空だった。

 中身は、感じられなかったし、そもそも入れた覚えもない。

 これから、彼女の歌が始まる。

 この曲が、僕の音楽が、全部が、満たされ始める。

 彼女が満たしてくれる。

 緊張はあったけど、でもなぜか僕はワクワクしていた。


 彼女がゆっくりと口を開いて、そして歌い始めた。

 何か、違和感を感じた。

 彼女は歌う。

 微かに感じる違和感の前で僕を置いて。

 僕の作った音楽が世界を染める中で、君の声がそれを彩ろうとしている。

 違和感の正体を探る暇もなかった。

 だけどやはり、何かおかしい。

 この曲は、僕の音楽じゃ、ない……?

 そんなはずはない。

 何度も聞いた。

 何度も何度も、直した。

 訳が分からなかった。

 正体を探すのに夢中になって、彼女の歌声をちゃんと聞いている余裕なんてなかった。

 僕はおもむろに、ミキサーに手を伸ばした。

 そして静かに、彼女の声を、ボーカルの音量を、0にした。


 気味の悪い違和感がなくなった。

 何か大きな仕事でも終えたかのような、すっきりとした気分になった。

 再び白黒の音楽の世界が、僕のすべてを満たす。

「……ななさん?」

 突然肩をたたかれ、座っていた椅子から転げ落ちそうになった。

 急いでヘッドホンを外し、それから気配のする方に素早く視線を移した。

 彼女が心配そうな、不可解そうな表情でこちらを見ている。

「ななさん? どう、したの……?」

「あ、ご、ごめん。ちょっと、疲れてて、頭、回らなくて」

「そう、なんだ……」

 彼女は納得したような表情をしていたが、それでも腑に落ちない様子を隠しきれてはいなかった。


 彼女が気を使ってくれて、少しの休憩を挟んだ後に彼女はまたレコーディングブースへと向かった。

 彼女が歩くのに合わせて、2つに縛った髪の毛が揺れる。

 初めて会った時のことを思い出した。

 路上ライブをしていた彼女のことを、その彼女の声に惹かれたことを。

 その彼女が、いま目の前で僕の曲を歌おうとしている。

 だが……。

 やはり違った。

「さっきのレコーディング……、結構よくできたと思うんだけど、どうだった? なおすところとか、ある?」

 言葉が喉をするりと抜けて、淀みなく口から出ていった。

「全部」

「……え」

 僕の言葉を聞いて、彼女は表情を曇らせた。

 困惑した顔をこちらに見せて、視線が泳ぐ。

「何が違うかって言われると……、全部だ。さくなら…………、もっと……」

 彼女と目を合わせることはしなかった。

 ミキサーに視線を落として、僕は静かに次のレコーディングの準備をした。

 状況を受け入れきれていない彼女が何か言っている。

 別に無視する気があった訳じゃないけれど、彼女の言葉は右から左へただ流れていくだけだった。


 また、彼女が歌い始めた。

 僕は直ぐに、音量を下げた。

 やはり、違った。

 どうして。

 さっきと何も変わってないじゃないか。

 僕はミキサーを強く叩いた。

 音は伝わっていないものの、その様子を見た彼女が歌うのをやめ、驚いたようにこちらを見る。

 遅れて拳に鈍い痛みが伝わる。

 こちらのマイクをオンにした。

 彼女が何か言っている。

 そっちは切ってるから、何も聞こえないよさく。

「違う……。全然違う。そうじゃないよ、さく」

 吐き出すように、さらけ出す。

 彼女はただ謝っていた。

 声こそ聞こえないものの、彼女の表情と口の動きを見ればわかった。

 次はできる、と彼女が言った。

 彼女を否定する言葉が喉の途中まで出かかって、すぐに飲み込んだ。

「……次はちゃんと、歌ってよ。僕はさくの歌が、聴きたいんだ」

 彼女は何度も顔を縦に振り、頷いていた。

 その光景が、少しおかしかった。


 数分後。

 またあの鈍い痛みが拳を襲った。

 じんじんと響く痛みは心を伝って口から出た。

「だから違うって! 何度言ったら分かるんだ、何で! 分かってくれないんだ……。もう、君には無理だ…………。君は、僕の理想じゃない。僕の音楽は、君じゃあ完成させられない」

 意味もなく、反発した。

 彼女の歌に、彼女自身に。

 理由なんてなかった。

 ただ何となく彼女の歌が、受け入れられなくて。

 いつもと同じはずの彼女の歌声が、僕の耳には煩わしくて。


 もう、戻れない……?


四章 夏、きづく 終

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