三章 春、つくる

拝啓


 春らしい陽ざしを感じるこの頃、いかがお過ごしでしょうか。

 貴方がそちらへいかれてからもう幾年かが過ぎました。こうしてお手紙を書くのも、何回目でしょうか。空虚な私が貴方を失ってから今まで苦労せずに生きてこられたのは、ひとえに貴方のおかげです。あの日、貴方の言葉が今の私をつくったのだと思います。

 これからどうなるか、私には検討もつきません。もしかしたら貴方は知っているかもしれません。教えていただきたいですが、貴方は口数が少ないから、きっと無理でしょう。

 前のお手紙でお伝えした彼女から、今メールが届きました。きっと私の今後を決める、とても大事な内容です。また近いうちにお手紙を書きます。貴方のことはそれほど心配していませんが、そちらにギターはありますか。もし無いのなら、きっと持っていきます。

 そちらではどうか、健やかにお過ごしくださいませ。


敬具


お父様




 百均で買った、純白で面白みのない便箋に、父親から譲り受けた年季の入った万年筆を走らせる。

 ミリ単位でズレがないよう丁寧に折り畳んで、これもまた百均の安い封筒に入れる。

 そのまま宛名も書かずにクッキーの缶に入れ、ため息をひとつ。

 もう随分溜まった。

 そろそろ新しい入れ物が必要だと考えつつ気持ちを入れ替えようとまたため息をつく。

 ため息の詰まったクッキー缶を引き出しの奥の方にしまい、スリープモードになっているパソコンをつける。

 DAWソフトが画面に表示される。

 中途半端な状態で放置していた作業が映されているのを無視してメールアプリを開いた。

 1番上に表示されているのは彼女からのメール。

 件名は「音楽ユニット結成の件について」だった。

 彼女らしい形式ばった文章に、僕は思わず笑みをこぼす。

 そのメールを保存し、ずっと消さないでいたのはよく覚えている。


 緊張を体から逃がすように大きく息を吐き、彼女からのメールを開く。

 そこにはとても丁寧で、それ故に少し畏怖の念さえ起こさせるような文で僕の提案を受け入れるという内容がつづられていた。

 彼女の書いた文章は僕の目から入ってただそのまま下に落ちていくだけで、頭でたどり着くことが出来ずに何回も体の中を巡った。

 段々と理解が追いつき、心臓は痛いくらいに鼓動していた。

 何か嘔吐感のようなものも出てきて、背中を異常な汗が伝う。

 震えた深呼吸をして僕はまたメールを読み直した。

 何通か彼女に確認のメールをして、僕は曲を書きながらもユニットのことについて考えるのに精一杯だった。

 気付けば翌日の朝になっていて、僕は慌てて出勤したのだった。

 それからは仕事をしていても、何をしていても僕の体の中を暴れまわる高揚感は収まらなかった。


 数日が経って、僕は彼女をまた同じカフェに誘った。

 その日は元カノと会う予定の日だった。

 僕が何度断ってもしつこく連絡をよこし「もう一度話そう」と僕を説得してきた。

 尊敬すらしてしまうほどの執着に僕は耐えきれず、いっそのこと会ってけりをつけようと考えていたのだ。

 彼女と予定の合う日がその日くらいしかなくて結局僕は元カノに平謝りして日程をずらしてもらったのだが。

 僕の予想に反して、元カノはすんなりと受け入れてくれた。

 そのおかげで僕は心置きなく彼女と会うことができた。

 行きの電車に乗るころにはそんなこともすっかり忘れて、僕の心は遊園地にでも行く子供かのように躍っていた。

 車窓に切り取られたビル群の背景はどこまでも青く澄んでいて僕の高揚感を煽る。

 彼女に見せようとバッグに突っ込んだネタ帳を眺めながら思わず笑みをこぼした。

 周りからしたら随分と気味の悪い人だったと思う。

 だがその時の僕は他人なんて見えてなくて、ただ静かな電車の中で自分の未来を妄想するばかりだった。


 彼女からメールが来て今日までの数日だけでいくつもの歌が彼女の声で頭を駆け巡った。

 こうして喫茶店でコーヒーを飲みながら彼女を待っていても、その音は尽きなかった。

 居ても立っても居られなくなって僕はノートを取り出す。

 雑な五線譜を引いて、僕は気でも狂ったかのように音符を書き続けた。

 書いても書いても、尽きるどころか消費した分の倍の音が頭に浮かぶ。

 こんな感覚は初めてだった。

 真っ白だったノートと頭の中はすぐに音楽で埋め尽くされた。

 彼女が目の前に座って、僕に声をかけてきても気づかないほどに僕はのめり込んでいた。

 左手に何かが触れて、続けて声がして、僕はやっと彼女の存在に気が付いた。

 僕がぱっと顔を上げると彼女はふっと笑って言った。

「やっと気づいた。……すごく集中してましたね、ななさん」

 咄嗟に「ごめん」と言って謝る。

 と、目の前に座る彼女がいつもと何か違うことに気が付いた。

 こちらに笑顔を向ける彼女はいつものギターケースを持っておらず、そして紺色のブレザーに身を包んでいた。

 一切着崩している箇所は見当たらず、制服の見本として見せられても違和感のないほど彼女は綺麗にそれを着こなしていた。

 彼女の格好を見て、僕は突然に犯罪でも犯してるような罪悪感に苛まれた。


「今日は、いろいろ決めないとですね」

 嬉しそうに言う彼女の声で心を薄く覆っていた罪悪感はすぐに消えてしまった。

 それどころか彼女の楽しそうな笑顔に引き込まれ、僕はまた思考を止めるのであった。

 真向かいに座る彼女は通学用バッグから何やらノートを取り出して僕の前に広げた。

「ななさんとユニット組むって決めた時から、色々考えたんです。ユニット名とか、テーマとか、活動方法とか」

 ノートをぱらぱらとめくりながら話す。

 整っていていつも大人っぽく見える彼女はその時、無邪気な子供のような表情を浮かべていた。

 その様子が新鮮で、何かおかしくて思わずふっと吹き出してしまった。

 彼女はぱっと顔を上げ驚いたように目を開いた。

 そのあとすぐに頬を膨らませ、少し口をとがらせて彼女は言った。

「何笑ってるんですか。私とななさんのことですよ」

「あっ……、ごめん。そんなつもりじゃ、なくて…………」

「ふふっ、焦りすぎですよ。ほら、見てくださいこれ」

 丁寧だがどこか可愛らしさもあるような、綺麗な字で埋め尽くされたノートを僕に見せた。

 左上には大きく「ユニット名」と記されている。

 それから思いがけずコーヒーは熱気を完全に失った。

 それにすら気が付かないまま僕は彼女と、ここで語るにはあまりに長すぎるほど話し合った。


 快晴の日が続いてるにしては珍しく曇天で、もう春だというのに少し肌寒い日だった。

 その日、僕は大学生になった時から使い続けていた、最近ではめっきり使っていないボロボロのクロスバイクを引っ張り出し、よろよろ走りながらとある場所に向かっていた。

 運動不足解消のためと言えば聞こえはいいが、実際こんな程度の運動で僕みたいなおっさんが健康になるわけもない。

 信号待ちをしながら「やっぱりそこそこ疲れるな……」などと考えてため息をつく。

 俯いた状態で自転車のフレームが目に入って、僕の頭にはなぜか彼女のことが浮かんだ。

 なぜだろうかと不思議に思うよりも早く信号は青に変わって、深く思案する暇もなく僕は再び自転車を走らせた。

 元カノの家についても、天気は良くなるどころか余計に青空を覆いつくす雲が分厚くなっているような気がした。

 今にも雨が降りそうな空に舌打ちをひとつして、雨具を持ってこなかった少し前の自分を恨んだ。

 いつもより何故だか重く感じる右手を上げて、インターホンを鳴らす。

 指がボタンの感覚をとらえて押したと思った瞬間、僕は危険を察知して大袈裟に仰け反った。

 脳の処理が追いつく前に、目の前に突如として現れた女が言った。

「あ、ごめん。その、もう来てるかなって、思って……」

 インターホンのチャイムと重なって女の声が耳に入る。

 実際より少し遅れて音がした気がして、僕はやっと状況を飲み込んだ。


 彼女に促されるまま、家の中に入る。

 少し前は何度も通って見ていた景色はどこか受け入れ難く、まるで何年も見ていなかったかのようなそんな気がした。

 彼女がドアに鍵をかける音が聞こえた。

 何もおかしいことではない。

 若い女が1人東京で暮らしているのだから、日中だろうと鍵くらいかける。

 なのに何故か僕はその音に焦りを覚えた。

 理由は分からなかったが、すぐに彼女が身をもって教えてくれた。

 文字通り、身をもって。

 背中に感じる確かな温もりに僕は心を奪われた。

 見慣れた景色、嗅ぎ慣れた匂い、感じ慣れた感触、全てが僕を取り込む沼へと変わる。

 頭では分かっていても中々体は動かないものだ。

 このままでいた方が楽なんだから、別にこのままでいいじゃないか。

 そもそも何で抗わなきゃいけないんだ。

 抵抗しても何もいいことなんてない。

 ただ少し、ほんの少しだけ生活が縛られて、ほんの少しだけ僕の人生に彼女が入り込んでくるだけ。

 僕が売れないボカロPをやっていたことを、彼女は特に何も言わなかったし、むしろ応援してくれた。

 好きなことが出来なくなる訳でもない。

 さくのことも、ちゃんと説明すれば受け入れてくれるはずだ。

 目の前の苦労から逃げるための言い訳ばかりが頭に浮かんで、自分に嫌気がさした。

 それでもやはり体は動かない。


 その時、ズボンのポケットに入れていたスマホが振動した。

 普段なら無視するような小さな小さな刺激が、服を伝って、肌を伝って、脳にまで届いた。

 それをきっかけにして僕は大袈裟に元カノを振りほどいた。

「やめて。もう僕達はそういう仲じゃないんだから。分かる、でしょ……」

 元カノの名前を呼びそうになって、咄嗟に飲み込んだ。

 ここで名前を呼べば立場が揺らぐ、そう思った。

 逆に言えば、そんな小さな隙でももう見せてはいけないような相手なのだ。

「……ごめん。嫌だったよね…………。中……、入ろ?」

 玄関とは逆方向の扉を指さしそう言った。

 僕は何も言わずにただ頷き、そして扉を開いた。


 僕の知っているいつもの景色、とは少し、いやかなり違った。

 置いてある家具やらは変わらないものの、ゴミ箱からはゴミが溢れ、部屋の真ん中に置かれているテーブルの上も物で散乱していた。

 ただ一つ。僕が普段から作詞の参考になるものを探し求めているからなのかもしれないが、とあることに気が付いてしまった。

 しまった、と表現したが、ここで気が付いていなければ今の僕はなかったかもしれない。

 それほどまでに重要な事だった。

 溢れ出ていたゴミは丸まったティッシュばかりで、散乱していた物もどれも綺麗な本や、ノート、文房具、メイク道具など、ただ元の場所に戻すだけで綺麗になりそうなものばかりだった。

 本人は僕と別れて精神的にショックを受け、生活すらままならなくなった様子を演出したかったのだろう。

 だが残念なことに、僕の目には全くそうとは思えなかった。

 まるでクイズの答え合わせを待つような気持ちで元カノの言葉を待った。

「ごめんね、散らかってて。その、ななくんと別れてから……、なんか、何するのも、嫌になっちゃって……」

 嘘をつくな。だったら洗濯物とか、洗ってない食器が溜まっていないのは何故だ。

 思わずそうツッコミそうになってすぐに辞めた。

 というか、そもそも人を呼んでおいてこの有様はなんだ。

 片付けをしようとか。少しでも思わなかったのか。

 考えれば考えるほど僕の推理が裏付けられて、思わず笑いそうになってしまった。

 僕は何を話せばいいのか分からずに黙ったままそこに立っていた。


 目の前に置かれたコーヒーの入ったマグカップを睨みつける。

「この前は……あんなこと言ってごめんなさい。……虫がいいのは分かってる。でも本当はななくんと距離を置きたいなんて、ましてや別れたいなんて思ってない」

 俯きながら、時々鼻や目を擦って女は話した。

 僕は依然としてコーヒーを睨みつけていて、何も言わず、ただ存在を消して、そこに座っていた。

 女は続ける。

「この前も言ったけれど、私、ななくんが本当に私のことを好きでいてくれてるのか、分かんないの。ななくんは優しいけど、それは、私だけにじゃないでしょ?」

 語尾を上げて、僕に問いかけるように女は言うが、決して僕の返事を待つことはなくそのまま続けた。

「ななくんの優しさが、特別じゃないから、それは、悪いことじゃないけど。でも本当に、私に対して特別な、ほかの人とは違う感情を持ってくれてるのかなって……、思っちゃって」


 もはや独り言でしかなかった。

 僕はただ女の話を受け止めるだけの木偶の坊で、彼女はただ自分の思いを人形にぶつけて慰めているだけだった。

 女はさらに続ける。女は、自ら僕を人形に仕立てあげたにも関わらず、その人形に人になれと声をかけた。

「ねぇ、ななくん。教えて。分からないの。私にはななくんが分からない。私といても、あなたは空っぽにしか見えなかった」

 人形の中で何かが弾けた。

 詰められた綿は臓器に、それを包む布は肌へと退化した。

 僕はなぜだか彼女の言葉が嬉しかった。

 強がりなのかもしれないし、ただ狂っているだけなのかもしれない。

「…………僕も、分からない……、分からなかった。自分が何をしたいのか、何者なのか。君のことは、確かに愛してた。それは確かだし、間違っていない」

 女は望んだはずの人形の自立に困惑していた。

「でももう分かった。僕は彼女のために生まれてきた。君は空っぽだと言ったけど、それももう違う。彼女が満たしてくれたから。君と、もうやっていけないことも分かった。愛していたよ、心の底から。でも……、ごめん、もう、違うんだ」


 朝日に誘われて目を覚ました。

 布団に入ったまま小さく伸びをして、ベッドに備え付けられている棚に置いていたスマホを取る。

 休日だと言うのに早く目覚めてしまい、僕は一瞬だけ後悔した。

 しかし、もう布団から出たくないと言うほど寒い訳では無いので、優雅にコーヒーでも飲もうかと思いベッドから身体を出した。

 炊飯器の横に置かれたコーヒーメーカーは元カノに勧められて買ったものの、自分一人の時にはなかなか使わなかった。

 ましてやここ最近は元カノが家に来ることも無く、ずっと眠っていた。

 コンセントを手に、僕はそれに命を吹き込む。


 コーヒーを片手にスマホを開いた。

 今日の日付が刻まれたカレンダーアプリをタップし、疎らに表示された青の印を眺める。

 ずずっと一口だけコーヒーを口に流し込み、アプリをプライベートモードに切り替えた。

 オレンジの印がチラチラと目に入り、今日の日付にもひとつ、予定が入っていることを視認する。

 視線をスマホに落としたまま、僕は今日の予定を頭の中でざっくりと立てた。

 パソコンの方を見て書きかけの曲を思う。

 飲みかけのコーヒーを片手にパソコンを起動して、それから時間が経ち、太陽は真南を超えた。

 パソコンの前に座っていた僕はふと窓の外に目をやり、次に時計を見た。

 時間を確認して「やべ」と独り言を放ち、パジャマにしているジャージから少しは外に出ても問題ないような服へと着替える。

 部屋の隅に置きっぱなしにしていたリュックを背負い、部屋をぐるっと見渡すと忘れ物がないかを頭の中で確認して、そして部屋を飛び出した。


 彼女の歌声が心地よく頭に響く。

 何回レコーディングをしても、やはり1日の最初に聞く彼女の歌声には、仕事を忘れるほど聞き入ってしまう。

 遠い希望の星だった彼女の歌は、今や僕の日常に溶け込もうとしていた。

 宙に浮かぶ星が消えても、僕達はその変化に気付かない。

 遠く微かに見えるだけのそれは、消えたところで大した影響を与えるものじゃない。

 しかし手元にあるものは、そうはいかない。

 あんなにも大きなものが消えて人々は何も想わないのに、日常に溶け込んだものはどれだけ小さくても人々の心を揺るがす。

 全く、厄介なものだ。

 その小さなものは、全て飲み込んでしまうことすらあるのだから。


 体の中を流れる小川は、やがて大河川となる。

 人々に知られぬまま、大きく、大きく、大きく。

 僕だけが、知っている。

 それはまるで、壮麗にそびえる山を駆け巡る、小さな川。

 僕だけが知っている、小さな小さな……。


 ふとギターを奏でる彼女の方を見る。

 鼻歌を歌いながら、自慢のギターを鳴らす彼女は真剣な表情をしていたがどこか楽しそうで、僕は思わず小さな笑みを漏らした。

 僕の笑いに気づいてしまった彼女が、怒ったような、照れたような顔でこっちを見た。

 先程収録した彼女の歌声が流れるヘッドホンを静かに頭から外す。

「なんで笑ってるの」

「いや、ごめん。何でもない。……真剣だなと、思って」

「ななさんだって」

「そう?」

「うん、そうだよ」

「そっか」


 心地よい沈黙が訪れる。

 小さな雫が葉を伝って、大きな湖に波紋をつくった。

 静かな湖畔から、葉の擦れる音がした。

「ねぇ、ななさん」

「なに?」

「やっぱりさ、YouTubeにもあげようよ。私たちの曲」

「…………YouTube、か」

「私は、もっと皆に私たちの曲を聞いたもらいたい。ななさんの曲は、もっとたくさんの人を救えると思う。私も、ななさんの曲に出会って、変われた」

「……さく、でも…………」

「分かってる。分かってるよ。不安、なんでしょ? 自分の曲が、たくさんの人の目に触れるのが。でも、今ななさんはひとりじゃない。私がいる。私と2人で、ザッ……ザザッ――――でしょ?」

 彼女の言葉が頭を流れた。

 暗く濁った部分に、僕が気を止めることはなかった。

 思い出せない。

 何か大切なことが。

 手元にあったはずの小さなものが、今は無くなったそれが、なんだったのか、思い出せない。

 知っているのは、僕だけ。

 思い出せないのは、僕、だけ。


 まるで全身を包まれて、確かに護られているような、そんな安心感があった。

 僕はノートパソコンを立ち上げ、彼女に作りかけの曲を聴かせた。

 中途半端な曲が終わって、数秒間だけ考える。

「……さく」

「なに?」

「この曲、もっと沢山の人に、聞いてもらいたい」

「……うん、分かった」

 青白く光る液晶に映った彼女の穏やかな表情が目に入る。

 その隣に映る僕は、小さく、笑っていた。


 雨を避けようと、窓を閉め小さな部屋に閉じこもっていると、どうにも暑く、嫌な汗が背中を伝うような季節。

 1年の中で1番嫌いだと思える季節は、今年も裏切らず時間通りに僕を襲った。

 横に座っていたさくがおもむろに立ち上がり、窓の方へ向かった。

 カーテンを少しだけ手で避けて、覗き込むようにして外の世界を見る。

「もう少しで、夜が明けるよ。ねぇ、ななさん。今日はどんな日かな」

「もうそんな時間か」

「結構進んだね! 次はいつ投稿できるかな」

「そっちは任せてるから、いつでもいいよ」

「……ななさんって、あんまり私たちの曲の反応とか見ないよね。閉じこもってるみたいに」

 さくはまだ窓から外を覗き込んでいたから、顔は見えなかった。

 だがその言葉は他よりもずっと落ち着いていて、まるで僕を責めるような、そんな気がした。

 彼女の言葉に、僕は無言で返事をする。

 しばらくして彼女は勢いよくカーテンを開け、こちらに振り向いた。

「でも……、すごく、楽しそうだね、ななさん」

 突然部屋に射し込んだ光に驚き僕は彼女の方を見た。

 朝日で後光がさすようだった彼女の表情は読み取れず、だが確かに声は穏やかで、僕の頭には何故か死んだ母親の影が浮かんだ。

 柔らかく微笑む母親の顔が曖昧に映る。

 笑っていると認識できるのに、母親の顔にはモヤがかかっていてしきりに目を擦ってみても、そのモヤは取れなかった。

 2つに縛った長い髪が揺れる。

 日光に透けるその髪は僕の前で静かに振れるたびに、僕の心をくすぐった。

 スピーカーが音楽を奏で始めた。

 機械が何も指示がないのに動くはずがない。

 そんな当たり前のことがその時は何故かすぐに理解できず、僕は何も考えずに音楽を受け入れた。

 ボーカロイドのデモ音声と、彼女の声が重なる。

「この歌も、きっとたくさんの人に聴いてもらえる」

「うん」

「きっと、たくさんの人の心を揺さぶる」

「うん」

「わたし、この曲、ううん、ななさんの曲全部、大好き」

「うん」

「ななさんは、好き?」

「…………どう、かな……、分からない」

 僕が答えを詰まらせ、さくはそれを聞いて少しだけ不安そうな表情を浮かべた気がした。

「……でも、作るのは……、楽しい」

 彼女のその表情が嫌で、僕はすぐに続けた。

「……そっか」

 彼女は、気の所為かと思うほどに小さく、微笑んでいた。


 世界の終焉を飾るような雲ひとつない青空が真っ白な太陽を強調して、僕は水溜まりに反射するその光に目をしかめ、手で遮るようにして目を守った。

 隣を歩く彼女が、いい天気だね、と楽しそうに笑いながら言う。

「もう終わったのかな」

 きっと正しく解釈してくれるだろうと信じて、彼女の方は見ないまま呟いた。

「どうだろう」

 でも明日はまた雨らしいよ、と彼女は思い出したように言った。

 俯いて、またか、とため息をつくように言うがやはりどちらを向いても眩しいのは同じで、思わず舌打ちを打ちたくなるのを我慢した。


 それから何度か電車に揺られ、僕と彼女は都会のど真ん中に聳え立つビルの入口の前に立っていた。

 彼女は自動ドアのすぐ横に掲示された案内板をまじまじと見つめている。

「ななさん、あってるよここで。ほら」

 嬉しそうに指さしながら、彼女がそう告げる。

 スマホの画面とビルの名前を見比べていた僕は彼女が示す方を見て、ほんとだ、と呟いた。

「この時代に直接来てくれって、珍しいね」

 彼女が言う。

「だから怖いんだよ……。何されるか分かったもんじゃない」

「私は、いい事だと思うけどな。それに、そう思った方が精神的にもいいよ?」

「…………そっか」

「うん、そうだよ。それに、何もやましいことしてないじゃん。むしろ色んな人に感動を届けてる。表彰されるべき!」

「そんな単純なものじゃないと思うけど……」

 ため息混じりにうだうだと言葉を並べる僕にを遮り彼女は、いいから、と手を引いた。

「大丈夫、ねっ」

 それからビルの中を移動して会議室のような部屋に連れてこられるまで、僕の記憶はない。

 何故かそこだけがすっぽりと抜け落ちていて、今も思い出せないままなのである。

 彼女の言葉は不思議な力を持っていた。

 理由は分からない。

 でもなぜか全てを任せてもいいような、全てを、委ねたくなるような、妙な安心感を与えてくれた。

 彼女に手を引かれたまま、僕はエレベーターに乗り込んだ。

 一人で乗ると得体の知れない不安を駆り立てるこの閉鎖空間も、彼女といると何故だか心はいつもより穏やかで、何があっても大丈夫だと根拠もないのにそう思えた。

 増えていく数字を眺めているうちに、服装のせいもあるだろうか、身と心が引き締まるような気がした。


 僕と彼女の前に現れたにこやかな男の話は、要約すると僕たちの音楽ユニットをデビューさせたいということだった。

 結果、僕達は断った。

 いや、断らざるを得なかった。

 正直に言うと、僕は興味がなかったから、特になんとも思わなかった。

 と言うか、あまり実感がわかなかったから、それも今の心境を作っている原因の1つなんだと思う。

 ただ、彼女は違った。

 隣を見ても、いつものようにコロコロと笑う彼女はいなかった。

 僕の前では感情をよく出すようになったはずの彼女の目は暗く、僕の知らないどこか遠くを見つめているようだった。

 電車の中の静けさが心の中の小さな不安を際立たせる。

 いつもなら何も感じないような地下鉄の暗さも、どこへ向かっているのか分からないような不安と閉塞感を嫌に感じさせる。

 彼女の様子が違うだけで、僕の目に映る景色は全て薄暗かった。

 今までに感じたことの無いような、どうしようもない不安……。


 いや、思い出した。

 感じたことがある。子供の頃、一度だけ。

 頭のなかには一枚の絵だけが浮かび、それ以外の情報なんて出てこなかった。

 暗い電車に、女性と幼い子供がぽつんと座っている。

 車窓の奥には闇が広がり、女性の顔も、同じように闇に包まていた。

 隣に座る幼子は……、僕だった。

 僕は隣に座る母の、気持ちだけが乗り移ったようで、理由もわからないままにただ泣き出してしまいそうになるのを我慢しながら電車に揺られていた。

 どうにか心の不安を取り除こうと母の手を力いっぱいに握りしめるが、彼女は何も言わない。

 僕を置き去りにして、僕の知らない遠くへ行こうとしているような、そんな目をしていた。

 お母さん、と小さく呟く。

 母の目が、ようやくこちらに戻ってきたような気がした。

 彼女はこちらを見て、小さく口角をあげた。

 母からすれば僕を安心させるための必死の演技だったんだろう。

 でも僕の目には彼女の不安は隠せていなかった。

 彼女はすぐにまた遠くに目を向けてしまった。

 もう僕のことは、文字通り目に入っていなかった。


 頭に浮かぶ一枚の絵画の右下には、小さく日付が書かれていた。

 母がいなくなった日の、1ヶ月と半月前だった。


三章 春、つくる 終

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