【第一章 日常】 第6話 怪鳥羽扇

 かの軍師は、怪鳥かいちょうの羽で作ったおうぎを用いたという。

 戦場の一寸先は闇。

 怪鳥の羽がもたらすひらめきこそが命綱であった。

 

 帝国の官僚で、毎日残業をしているのは私のみではない。

 その日は、同期のそんはくぶんが訪ねてきていた。

 彼は財務関係の役人で、私とは部署も違い、普段、役所のこの辺りには出入りしない。お互い仕事に忙しく、好みの酒場も違うから、実に半年ぶりの再会と相成った。

 久しぶりに会う彼はずいぶんやつれ、まだ若いのにひげには白いものが混じっていた。

 彼と私は白湯を一点点地に飲みながら、近頃の都の様子を語り合った。彼の話す世間の様子は、近頃、仕事で法律ばかり扱う私にとって物珍しく、おもしろいものだった。

 特に、商家の主をしている友人が、電信用の鳩で怪事件を解決した話はよかった。


「ときに、ようえんは元気か?」


 孫伯文はせんで口元を隠すようにして尋ねた。


「ああ、淵季なら毎晩のように会っている」

「要領のいい男なのに、残業をしているのだな」


 伯文はふわりと羽扇を動かし、私へと風を送った。

 急に胸騒ぎがして、私は顔をしかめた。

 確かに、変である。

 楊淵季は人並み外れて優秀な男だ。彼は書籍や宝物を管理する部署にいる。すべての来歴を把握するため、日夜、勉強が欠かせぬとは言っていたが、毎日夜中まで残業というのは、合理的な方法を好む淵季らしくない。


「まあ、いろいろあるんだろうよ」


 私は白湯をあおった。

 針の先ほどの不安が、白湯の甘みと共に喉を下った。


「確かに、いろいろあるだろう。自分の仕事が終わっているのに居残りをして、おぬしが一人になるのを待って訪れるというのは」


 伯文は相変わらず、羽扇を揺すっている。

 私は顔をしかめた。

 淵季と伯文は性格が似ている。どちらもきっちり論理的に片付けるのが好きで、感情はあまり見せない。

 同じ塾で学んでいた時代、二人はうまく役割分担をしていた。少なくとも、私はそう感じた。だが、どちらも相手について冷静で、感情をぶつけ合うのを見たことはない。

 淵季と私、伯文と私は、それぞれ感情的なやりとりをしたことがあるにも関わらず、彼らは二人になるといつも、嵐の来ない穏やかで制御された空間にいるようだった。


 もしかして、避けていたのだろうか、などと思う。


「淵季はいいやつだよ」


 私は茶碗に白湯を注いだ。

 伯文は答えなかった。

 代わりに、こんなことを言った。


「賭けをしてみないか。もうすぐ、淵季が来るかどうか」


 伯文が自分から賭けをするのは初めてだった。


「そりゃあ、私が残業をしているのだから来るだろう」


 私は戸惑いながら答える。


「それでは賭けにならん。では、やってきた淵季はなんと言うだろうな」

「伯文がいるなんて珍しいな、とか」

「そのとき、私は帰っている。この羽扇を置いていこう。あとは白湯がある」

「じゃあ、その羽扇は誰のものだ、おまえのじゃないだろう、と言うだろうな」

「さあ?」


 伯文が笑ったような気がした。顔を見るが、口元は羽扇に隠れていてわからない。


「では、先に言っておこう。淵季はおぬしにこう言う。立つな、りくよう。ここにいたのは誰だ。……そして、ひどく慌てる」


 今度こそ、笑い声が聞こえた。私は咳払いをする。


「おい、伯文。淵季になにか文句でもあるのか?」


 立ち上がろうとしたとき、急に蝋燭ろうそくの炎が消え、辺りが闇に飲まれた。

 伯文のいたところから、陰惨な声がした。


「なんで異国の地に骨を埋めようとするのだろうな。王でなければならない者が」


 目の前には、白い髪の若い男が立っていた。伯文と同じ上衣うわぎを着ているが、別人の顔だ。男の周りだけ、ぼうと白く光って、姿がくっきりと見える。

 見開いた目には、銀色を帯びた灰色の瞳が光っていた。


 私は息をのんだ。

 淵季の瞳も灰色である。彼の母の国の者は、皆、目の色が同じだ。

 少年の頃、淵季は一度、かの国で王となった。

 そして、国を滅ぼす役目を果たして、去った。

 少年であった私たちの、最大の冒険であった。


 役所の中に、かの国の人々が入り込んでいるのならば、なぜ気づかなかっただろう。

 かの国の再興を願って、淵季に執着する者は一人や二人ではない。事件を引き起こすこともあった。

 だからこそ、淵季も私も、新しく入った者の瞳の色は注意深く観察していたというのに。


 あの国の中には、別人に化ける技術に長けた者もいる。

 伯文の様子がおかしいと思ったら、中身は別人だったということらしい。


 そのとき、廊下で足音がした。

 とっさに、淵季のことを思う。彼は、私が残業しているといつもやってきて、怪異を解決し、書庫に戻っていく。

 今夜も、この白髪の男を退治しようとするだろう。

 だが、だめだ。


 ――灰色の目の者に、淵季を引き合わせてはいけない。


 男の腕をひねりあげ、床に押し倒す想像をする。背は高いが筋肉は薄い。できるだろう。

 そう考え、腰を浮かせたときだった。


「立つな、陸洋」


 怒鳴り声がして、楊淵季が飛び込んできた。彼は手早く蝋燭に火を点け、男にかざす。男が身をよじり、しゃがみ込んだ。

 次の瞬間、男の姿はなく、一匹の白鼠しろねずみが廊下に走った。

 足の力が抜け、私は椅子にへたりこんだ。


「やれやれ、ここにいたのは誰だ?」


 淵季は舌打ちをした。


「は……伯文の格好をした、灰色の目の者が」

「ああ、さっき逃げた鼠か。誰だ、あんな妖怪にもなっていない動物に下手な術をかけたやつは」

「術、だと?」

「おおかた、俺の過去を知っているやつだろう。まだ、あの国をあきらめていないようだな。もう国土は崩壊しているというのに」


 あっけにとられている私をよそに、淵季は羽扇に手を伸ばした。柄を握り、二、三度顔を仰ぐ。

 途端、不思議そうな顔になる。


「どうした、淵季」

「なるほどな、陸洋」


 それから、淵季はニヤリとした。


「術をかけたやつがわかったよ。ちょっと火をもらおうか」


 彼はくず入れの紙を拾い、蝋燭にかざす。

 紙はすぐ燃え、墨の色が黒々と光った。

 一片の炎と化した紙が、羽扇に乗せられた。羽を束ねたあたりの革紐が燃え、ジジジと音がした。


「知っているぞ、怪しい鳥め。数百年も前にある男に羽を抜かれただろう。魂の宿る大事な尾羽を、だ。大して役に立たない予言を武器に、宝物扱いされてきたな? ほら、戻れ。解放してやる」


 淵季は一人でぶつぶつと羽扇に語りかけているが、羽はじりじりと燃えていくだけだった。羽全体に火が回ろうとしたとき、炎が風を受けたように広がった。

 そのまま、炎は三尺もある鳥の形になり、部屋を一巡りして、窓から出た。


「何だったのだ、今のは」


 私はようやく立ち上がり、炎の鳥を見送っている淵季の横に立った。


「伝説の怪鳥だ。あれが、本来の姿だよ。尾羽を紐で束ねられていたから、逃げることができなかったようだ。しかし、おまえも」


 淵季は、少し困ったような顔をした。


「いいか、陸洋。あの怪鳥は、予言をするのではない。計算をするのだ。たとえば、おまえの記憶を読み取って、俺との関係を計算し、何が起こるか予想する」

「灰色の目の者が、私の記憶から生まれたとでもいうのか?」

「化け物というのはそういうものだ。あの羽扇がどこにあったのかわからないが、誰かがここに持ち込んだ。羽扇はおまえの過去を知った。そして計算した」

「これから、灰色の目の者が現れると予想したのか」


 私は身構えた。

 どういう計算で予想が成り立ったのかはわからない。しかし、灰色の目の者が淵季にとって危険である以上、警戒せずにはいられない。


「だからさ。予想は、おまえの記憶に基づくものだ。つまり、灰色の目の者が現れたということは、おまえが、あの国のことを恐れている証だよ」

「それだけ? 伯文は」

「伯文の格好をしていたのは、おまえの友人だからだ。記憶から拾っただけの姿だよ」

「じゃあ、別に、これから灰色の目の者に襲われるとか」

「ないだろうな。さっき、俺が羽扇を使ったときは、肉包にくまんが脳裏に浮かんだよ。ちょうど食いたいと思っていたんだ。……だからさ、心配しすぎるな。そもそも、おまえのことではないだろう。俺のことだ」


 淵季がそっぽを向いた。

 私はぼんやりと彼を眺め、それから、書類を片付け始めた。

 こんな気分では、とても仕事ができるとは思えない。


「一緒に帰らないか、淵季。まだやっている屋台があるだろうから、肉包をおごるよ」


 私は懐の銭を確かめる。官僚になってから、買い食いはほとんどしていない。少年の頃のように、銭を握りしめて肉包を買うのも久しぶりだ。


「なんだよ」


 淵季はぶつぶつと言い、顔を伏せた。


「おまえはまだ毎日残業しているのかと、久しぶりに尋ねてみたら、相変わらず怪異に好かれてやがって」


 その言葉に、私は手を止めた。


「久しぶり、だって? 昨日も来たじゃないか」

「ばかいえ。夢でも見たんじゃないのか」


 そんなことはない。昨日も、その前も、夜な夜な淵季と話をして……。

 淵季が怪訝そうな顔で、私の目を覗き込んだ。


「おいおい、兎、狸、狐、猫に花……ずいぶんいろいろなものに化かされたようだな」


 彼のあきれ声を聞きながら、私は目の前が真っ白になった。

〈おわり〉

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