【第一章 日常】 第5話 三千年花
春の初めに咲く花は、明るい季節のさきがけとなり、心にそよ風を送る。
夏の半ばに咲く花は、猛暑を
肌に汗を感じるころになった。
暖かくなると人の動きも活発になる。官僚たちも動きや言葉が素早くなり、昼過ぎに現れて一刻程度で仕事を終わらせる者も出始めた。
一方、私は相変わらず、毎日残業している。
役所は数十年前に建て替えられたものだったが、保管されている書物も宝物も古く、前帝国からあるもの、さらに昔のものも、稀(まれ)に含まれている。
稀とはいえ、書庫を埋め尽くすほどの量だ。得体の知れない物は数えきれず、夜中には年を
ゆえに、私の執務室では怪異が多い。
先ほどまで私は、廊下に出て月を眺めていた。紙面の
夏五月。私は昼間の暑さが残るようになってきた空気を浴びて立っていた。
だが、空を見ていても仕事は片付かない。
あきらめて執務室に戻ると、机に大きな
私が部屋を出るときにはなかった花瓶だ。
花瓶には枝が
――今度は何の怪異か。
私は花を
力強い花である。
「怪異殿。今度は、どんな姿に化けるのかな」
いたずらめいた声でささやきかける。
無意識に、疲れた笑いが唇から漏れた。
夜な夜な怪異にさいなまれると、もはや逃れようという気持ちは消え失せていた。せめて、今日の怪異が穏やかであったらよい。果てしなく続く仕事に救いを求めないのと同じだ。
「怪異とは失礼であるぞ」
背後で子どもの声がした。
振り返ると、左右で髪を結った、身なりのいい子どもが立っていた。
暗紫色の絹に、
「どちらから」
怪異と知りながら、私は丁寧な口調になった。
「わたしは」
子どもは声を張り上げる。
「三千年の時を経て咲きたる
人であれば五歳くらいだろうか。甲高い声は時折裏返るし、呼吸も荒い。緊張しているのがよくわかった。
私はちらりと花瓶を見やる。
優曇華といえば、仏教で
仏教といえば、前の大帝国では重んじられたが、今の帝国では違う。私も、優曇華の名前を教養として知っているにすぎなかった。
優曇華と知って改めて見ると、高貴な色をした花のように感じられた。
「我らの国は先の帝国ほど仏を重んじてはおらぬゆえ。陛下のお出ましも今は」
私は深く礼をする。
優曇華の童子が、ハッハッと短く息を吐くのが聞こえる。
泣いている。
それから、童子は音もなく床に倒れた。
はっとして駆け寄り、助け起こそうとする。その上衣に手を掛けた瞬間、童子の姿が消え、指先に痛みが走った。浅い切り傷ができ、血が《したた》っている。
「わたしに触れるな。略奪者め」
すぐ後ろから、青年の声がした。
立ち上がろうとすると、肩に力を感じた。首をねじって見上げると、先ほどの童子と同じ衣を着た二十歳ほどの青年が
「略奪者、とは」
今までの
「たった今、わかった。そなたらは、わたしを守った王らを滅ぼしたのだな」
青年の頬からは次第に血色が失せ、青白くなっていく。目元には
病状を示す顔に、わずかに見覚えがあった。幼いころに一度だけ会った、亡国の王である。幼少の頃に即位し、一年だけ皇帝だった人だ。我が国の初代皇帝に
その人が病気になったとき、私は詩のうまい子どもだと珍しがられ、見舞いの客として呼ばれたのだ。
花の精が亡国の王の姿になったということは、彼の生涯を理解したからだろう。
私は
この花を守った王は、もうこの世にはいない。
「幼帝ながら密かにわたしに助けを求めたのは、利口なことであったというのに、そなたらが!」
青年が一語発する度に、肩にはビリビリとした痛みが走る。骨まで響いて体中がうずく。
叫び声を上げそうになり、唇に力を入れてこらえる。
亡国の王と、略奪者。
幼帝が治めた国は三代で終わる短い王朝だった。我が国の初代皇帝は、幼帝よりも国を
だが、亡国の王を
――しかし、先の陛下が禅譲を受けたのは、私の祖父たちの時代じゃないか。
私は声を絞り出す。
「優曇華の精よ、いささか、
今の国は、すでに建国数十年。幼帝が助けを求めたのはそれ以前のはずだ。ぜんぜん、間に合っていない。
「いまさら、私に罰をお加えになっても、我らの国は何も変わりません」
我が国に従わぬ国が周辺に残っているが、今の陛下のうちに天下は統一されるだろう。もう、前の王朝を持ち出して我が国を倒そうという者はいない。
――優曇華の精に、わかってもらうしかない。
私は言葉を
前の王朝の最後の帝は亡くなった。もし、あの人が仏教に
口を開こうとしたときだった。
「
友の怒鳴り声が聞こえて、
肩への圧力が消えた。
立ち上がり、振り返ると、
ぐ、という音が花の精の唇から漏れた。そして、淵季の首元に手を伸ばす。淵季が飛び
彼の腕に
このままでは、淵季が蔓に巻き殺されてしまう。
私はとっさに花瓶に飛びかかり、枝を抜き取って
花の燃える甘いにおいが部屋中に広がる。
大きく開いた花の精の口から、炎が立ち上るのが見えた。
「よくやった、陸洋」
楊淵季は蔓を短剣で切って、こちらに走ってきた。
「そっちの蝋燭も持ってこい。一気に焼くぞ」
言われたとおりに蝋燭を渡す。花は、いよいよ激しく燃えた。
隣に並んだ楊淵季の首筋には蔓の痕がついていた。だが、顔色に問題はない。
友人の無事にほっとしたときだった。
「……許さん」
岩を揺するような重い声がした。花の精が体をねじり、楊淵季を指さしていた。切られた首元からは、花弁が
「
楊淵季は無表情だ。
私は、花の精が呼んだ名に驚く。
少年のころ、共に小国に旅をしたときに聞いた淵季の別名だった。てっきり、あの国だけでの呼び名だと思っていたのだが。
淵季は黙って枝を焼いた。花の精がひときわ高く燃え上がり、消えた。
花の香りの残る静寂が漂った。
「優曇華というがな」
楊淵季は
「陸洋も、優曇華が三千年に一度咲き、如来が現れるといった話は知っているだろう。我らには見慣れぬ花だ」
「珍しい花だけに、花の精も生まれるわけだ」
私は
楊淵季は、いや、とつぶやいた。
「とはいえ、南方では良く見る花なのさ。昔、ある者が優曇華をたった一本だけ、南方から持ち帰った。幼帝は花の由来を珍しがり、庭で育て、可愛がった。何十年も経って、
そこまで言うと、淵季は、ふっと笑ってうつむいた。
「滅多に咲かない花というのがあだになったな。しかし、孤独なときに与えられた恩は、覚えている意味がなくなっても忘れられぬものなのか」
彼は
〈おわり〉
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