act.17

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 やっと春と言っていい陽気になってきた満月の日だった。

 満月といっても、その夜は突然降り出した雨の為、月を見ることは出来なかったのだが。

「やばいな、傘がない」

 ザインは仕事場から帰ろうとしてはっと気付いた。

 その日は朝方は雲一つない青空だったため雨具の用意などしていなかったのだ。

「さすがにまだこの陽気だと濡れて帰ったら風邪引きそうだな」

 しかし傘を借りようにも親方は会合で外出していた。当然傘も持っていってしまっていた。

「仕方ないな。小降りになるのを待とう」

 ザインはそういって椅子に座ると雨の勢いが収まるのを待った。

 二時(ふたとき)後、まだ雨は降っていたが雲に切れ間が見え始めた。その切れ間から時折月明かりも射していた。

 さすがに腹も減ってきていたザインは、意を決して雨の中を走って帰ることにした。

「おおぅ、濡れる濡れる濡れる」

 そう叫びながら通りを走っていくザイン。その時貴族街の裏手に続く路地から一人の男が飛び出してきた。

 慌てて止まろうとするザインだったが、勢いを殺しきれずその男と衝突してしまった。

 倒れる男。その拍子にマントがはだけ胸元から何かが飛び出した。それは転んでしりもちをついているザインの横の石畳に落ち、澄んだ音を上げた。

「うわあっ、すいません大丈夫ですか」

 ザインはそういいつつ、自分の横に落ちたものを拾った。

 金属の棒が十字に組んであった。大きさは手のひらで包めるほどだった。

 その時突然雲の隙間から満月が顔をのぞかせた。

 月の光を受け、それは銀色に輝いた。

 その輝きを見た瞬間から、どうしたものかザインはそれから目を離すことが出来なくなった。

 何かが呼んでいる。

 その物体の存在自体が心の奥の方に刻印されていく、明らかに魔術的な感覚だった。

 ここでザインの抱えている秘密の内の一つが影響を及ぼした。

『自分を対象にかけられた魔術的影響は「確実」に「最大」の効果を発揮する』という物だ。

 ザインはその感覚の中で少女の姿を幻視していた。何かを必死で語りかけているようだったが声までは届かなかった。

 実際にはほんの数秒だったのかもしれなかったが、主観的にだいぶ長い間ぼーっとしていたザインは、はっと気を取り直すと、自分が衝突してしまった相手を見た。

 二十歳を超えたくらいの青年に見えた。しかし妙にあやふやな雰囲気を感じていた。見た目に反して中身が老人のようにも、逆に年頃の少女のようにも見えるのだ。

「本当にすいません、立てますか」

 ザインは、倒れているその人物に手をさしのべ、立ち上がるのを手助けした。

「……」

 無言で立ち上がる青年。

「これ、落とされましたよ」

 ザインはそう言うと手に持った銀色の物体を目の前の人物に手渡した。その瞬間あやふやだった印象が急にはっきりとしたものになった。

 自分が衝突した程度ではびくともしなさそうな体格の青年だった。マントの下の着衣もきちんとしたものだった。

 もしかすると高級騎士か貴族かもしれないな、ザインは根拠もなくそう思った。

「ああ、済まないな」

 青年は渡されたものを見ると、ニヤリと笑ってこう続けた。

「どうにも不注意だったようだな。お礼といっては何だが君に一つ教えてあげよう。そう、君にはこの後、今の出来事を全て忘れてもらう事になるということをね」

 青年はそこまで言うと、何か呪文のような物を小声で唱え、物体をザインに向けてつきだした。

「十字の主(あるじ)として力を持ちいん。彼のものの、この時より前後一時の記憶を永遠に封じよ」

 その瞬間ザインの目には何も映らなくなった。

 意識の最後に、目の前の人物のものとおぼしき声が残っていた。

「姿を変えているとはいえ、私が十字の主であるということは、まだ隠さねばならぬ事だからな。さて、王都に急がねばな」

 次にザインが気づいたとき、雨はすっかり上がっており、満月は頭上から石畳の道を照らしていた。

 記憶の底に強く刻まれた銀十字の印象以外の一連の出来事は、すでにザインの頭の中に存在しなかった。

 ザインは冷えてしまった体をぶるっと身震いさせ、家路を急いだ。

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