第5話 生殺与奪の権利

 先輩が入信した宗教団体、先輩の死には、その宗教団体が関わっていることは誰が見ても明らかだった。

 しかし、その証拠はどこにもない。警察の通り一遍の捜査で解明できるほど、その宗教団体は甘くはなかった。

 純也は、以前電車の中で助けた女性と待ち合わせてから、次第に深い仲になっていった。

彼女の名前は、ななと言う。身体の関係になるまでにはそれほど時間が掛からなかった。ななが言うには、

「私には弟がいて、私が就職してから三年目、弟が大学の三年生になって、いよいよ就職活動を始めようかという時に、急に行方不明になったの」

「ご両親は?」

「田舎にいるわ。私が大学に入学したのを機に、都会に出てきたんだけど、高校生の弟も、大学は私の大学の近くにしたの。私がいるならということで、両親も何とか反対はしなかったんだけど、大学にしっかりと合格すると、やっぱり反対と言いだしたのよ」

「どうしてなんだろうね?」

「私の考えでは、あまりにもうまく行き過ぎたので、不安になったんじゃないかしら? ほら、偶然が重なってとんとん拍子にうまく事が運ぶと、急に不安になることがあるでしょう?いわゆる『好事魔多し』ということわざのようにね」

「でも、大学に入学できたのは本人の力で、偶然なんていうと、弟さんがかわいそうだよね」

「ええ、でも、それが田舎の考え方なのかも知れないわ。今なら分かるんだけど、田舎で暮らしていくというのは、偶然などという言葉は甘いだけだと考えたとしても、それは無理のないことのように思うの」

「確かにそうなんだろうね。でも、弟さんはそれから?」

「ええ、何とか説得して、大学に行かせることになったの。何といっても、事実として大学に合格しているんですからね。それを辞めさせるなんて、さすがにそこまで両親はわからずやの非道な人たちではなかったの」

「親は、子供の幸せだけを望むっていうからね」

「その通りね」

「その頃の私は、自分が就職活動中だったり、就職できても、新入社員として覚えなければいけないこともたくさんあったので、弟に構っている暇はなかったのよ。でも、弟は無事に大学に入学して、大学で仲間もできたようで、大学生活を謳歌していたの。私はそれだけで安心できたわ」

「ななさんの方も、就職してから大変だったんじゃないですか?」

「ええ、でも配属された部署では大切に扱ってくれて、そんなに苦労することもなかったんです。男性は皆さん優しかったし、課長も部長もよく私のことを気にかけてくださっていて、自分は幸せ者だって思っていました」

「それは、よかったですよね」

「でも、あれはいつのことだったかしら? いつもランチに行く喫茶店に、いつものように同僚の女の子と一緒に出かけた時のことなんですけど、そこはいつものように昼休みは満席だったんですね」

「ええ」

「いつもなら、同僚との話に花が咲いて、まわりの声はほとんど遮断されたような気がしていたんですが、その時だけは、なぜかまわりの声も気になっていたんです。同僚との会話もしっかりできていたのに、まわりの声も意識していたって、まるで聖徳太子のようだって思いました」

 たった一人でまわりの十人近くの人の話を一度に聞くことができたという聖徳太子の逸話だったが、いまどきそんなことを口にする人は珍しいと思えた。案外、ななという女性は、古風なところもあるのかも知れない。

「何か気になる話が、耳に飛び込んできたんですか?」

「ええ、でもいつもなら自分に関係のないような話は、耳に入ってきても、右から左に抜けていくはずだったんですが、その時は本当に耳に入ってきたんですよ」

「それは、どんなお話だったんですか?」

「後ろにいた女性二人の話が耳に飛び込んできたんですね。私は同僚と、カウンターに座っていたんですが、ちょうど後ろのテーブル席に座っている女性二人組みです」

「それで?」

「二人の話は、そのうちの一人の友達が、不倫をしているという話だったんです。不倫をしていることに気がついたので、彼女に相談したということを、自分の友達に話していたんですよ」

「相談していたわけですね」

「私も最初はそう思ったんですが、そうでもないようなんです。ただ誰かに話したかったというだけだったようで、相談というほどの込み入ったものではなかったんです。だから、それ以上の詳しい話は途中から聞こえてこなくなったんですよ」

「ヒソヒソ話になったんですか?」

「いえ、そうではないようでした。あまりにも話し声が聞こえなくなってから時間が経った気がしたので後ろを振り返ったんですが、そこには誰もいないんですよ」

「帰ったんじゃないですか?」

「いえ、そんなことはないんですよ。その証拠に、その席にはリザーブの札が置いてあって、予約席になっているようなんです。だから、まだ誰もその席に座っているわけではないんですよ」

「じゃあ、誰もいない席からウワサ話が聞こえてきたというわけですか?」

「そういうことになりますね」

「気味が悪いですね」

「ええ、でもその話がしばらく私の頭の中にずっとあって、そのうちに、その話が自分の身に降りかかってくるんではないかって思うようになったんです」

「自分が不倫をするように感じたとか?」

 純也は悪気はなかったが、少し茶化すような言い方をした。それだけ、ななとの距離は縮まっているように思えたからだ。

「ええ、実はそれから私は不倫をするようになりました」

「えっ?」

「私、実は会社の部長と一時期、不倫をしていたんです」

「どうして、それを私に話してくれたんですか?」

「もし、これから誰かとお付き合いをするようになったら、その相手にはこのお話をどこかでしないといけないと思っていたんです。私のことをすべて知ってもらって、それでも私とお付き合いしてくださる人でなければ、それ以上自分を偽ったままお付き合いをしても、お互いによくないと思ったからです」

「ななさんは、僕のことをそこまで気にかけてくれているというわけですね?」

「ええ、そうです」

 ななは、覚悟を決めているのだろうが、その顔からは、難しい表情が溢れているわけではない。純也にはそれが嬉しかった。

「じゃあ、聞かせてもらおうかな?」

 上から目線ではあるが、なるべく優しい口調で話した。相手が覚悟をしているのであれば、こちらが上から目線で話して上げる方が、却って相手にプレッシャーを与えることはないと考えたのだ。

 さらに純也は、ななと知り合ってから少しして、馴染みの喫茶店で聞かされた、聞きたくもないと思っていた不倫の話を思い出した。ななの話とは少しシチュエーションが違っているようだが、同じ不倫の話、これは偶然なのだろうか?

 もし、ここに偶然が重なったのだとすれば、さらなる偶然もあるかも知れない。

――偶然には力がある――

 と考えている純也には、ななの話を中途半端に聞くことはできなかった。

「私が今の部署でうまく行っているのは、部長が私に目を掛けてくれているからなんだということに、途中から気づくようになったの。それで、忘年会の時、思い切ってずっと部長のそばにいると、部長もその気になったようで、私に誘いかけてきたのね。いつもだったら、セクハラを感じて、何とか逃げようとするんだけど、まるで金縛りに遭ったかのように身体の感覚がマヒしてきたの。気がつけば、部長にエスコートされて、ホテルの部屋で二人きりになっていたの」

 ななは、恥ずかしがることもなく、赤裸々な話をあっけらかんと話していた。こんな話は恥らいながら話せば話すほど、エロく感じるものではないだろうか。

 純也は、

――想像してはいけない――

 と思いながらも、想像してしまった。

――相手が話しているのだから、想像してあげない方が失礼だ――

 という、おかしな理論を展開し、それを言い訳にして想像力をたくましくしていた。

 もうその時にはななの身体を知っていた。白い肌はすぐに汗ばんで薄暗い光の中でも、光沢を帯びている。

 そのきめ細かな肌触りが純也の興奮を高めていくもので、次第に我慢できなくなる自分と、身体の奥から溢れてくる高鳴りを抑えることのできないななとの間で、興奮が最高潮に達した時、

――僕たちの相性が絶妙なんだ――

 と感じるのだった。

――ななは、部長と最初に身体を重ねた時も、同じことを感じたのだろうか?

「その時、最初に部長さんに抱かれたのか?」

 純也の声は震えていた。しかし、それは興奮を煽る震えであり、怒りからではなかった。そのことは、ななにも分かっていたように思う。

 純也は不倫などというのは、自分には関係のないことだと思っていた。人のウワサ話でも、不倫のような話は耳にしたくないという思いから、耳を塞ぎたくなる衝動に駆られ、気が付けば目を閉じていたことが多かった。

 最初こそ、露骨に嫌だという思いを隠しきれず、無意識ではあったが、感情を表に出していたようだ。そのことを人から指摘されることはなかったが、次第に自分の露骨さが分かってくるようになってきた。

――自分の行動に慣れてきた?

 そんな思いを抱いていたが、嫌な話に対して自分が露骨に嫌がるのを他人に気づかれるのが恥ずかしく感じた。それ以降、話が不倫の話に限らずに、自分が聞いていて恥ずかしいと思えるような話に対して、必要以上に反応したり、耳を塞ぎたくなるような感情をいだかないようにしていた。右から入った話を左にやり過ごすくらいの気持ちを持つことが大切だと思うようになった。

 しかし、実際にはそんなに簡単なものではなかった。ウワサ話というのを、相手も露骨に普通の声で話してくれれば何とかやり過ごすことができるのだろうが、人に聞かれたくない話なだけに、ひそひそ声になっている。そんな態度が却って露骨で、自分がウワサ話に対して、露骨に嫌な態度を取りたくないと感じたのも、その反動からなのかも知れない。

 また、自分が露骨に嫌がっていることがまわりに分かってしまうということに気づいたのも、

――ひょっとすると、相手のそんな露骨な態度に対しての苛立ちからなのかも知れない――

 とも感じていた。

 確かにそれはあるだろうと思った。

 自分が嫌だと思うようなことをされると、

――自分も同じようなことをしていたりなんかしていないよな――

 と感じたとしても、無理のないことのように感じる。今まで人のする行動を見て、自分を顧みるなどしたことがなかった。ことわざにある、

「人の振り見て我が振り直せ」

 などというのは、自分には関係のないことだと思っていた。

 そのことわざは、小学生の頃から嫌というほど聞かされた。

 特に中学の頃の担任の先生に、この言葉を教訓のようにしている人がいた。その言葉を言われる時というのは、自分が叱られるようなことをした時がほとんどだったので、先生に苛立ちを覚えるというのは、本当であれば、

「お門違い」

 なのであろうが、中学時代の純也にはそんな理屈は分からなかった。

 ただ、自分が悪いことをしているのだという自覚はあったので、逆らうことができなかった。逆らうことができないだけに、余計に言われることへの憤りと、どうすることもできない自分へのジレンマが交錯し、次第に怒りとなって沸き起こってきた。

 しかし、表には出すことはできない。この思いが、

――露骨を嫌う――

 という感情にも結び付いている。

 一つの感情が、いかに自分の中で他の感情と結びついてくるか、時々思い知らされることがある。それをほとんどの場合、

――偶然ではないか――

 という思いを抱いて、偶然という言葉で片づけようとしている。

 偶然という言葉ほど都合のいい言葉はない。

 まったく関係のないことが結びついて、それが自分にとって他人事であったり、表に出したくないことであれば、それは偶然という言葉片づければ、勝手にまわりは解釈してくれる。

 逆に自分に関係のあることであれば、偶然という言葉を使わずに、自分に都合のいい言葉を選んで、まわりを納得させればいいことだ。

――それくらいのことなら僕にだってできる――

 純也は、いつもそう思っていたのだ。

 中学時代というと、今と違ってモテるやつがハッキリしていた。女の子も照れ臭そうにしながら、その態度を横目に見ていると、明らかにその男の子が好きなのはバレバレだった。隠そうとしても隠しきれるものではない。これもよくいうのではないか、

「頭隠して尻隠さず」

 ということわざがそのままである。

 特に中学時代は純也も思春期だった。ただ、彼の場合は他の男子と違って、少し遅めだった。一年くらい他の男子に比べて遅かったかもしれない。

「一年くらい、大した差ではない」

 と、大人になってから思ったこともあったが、中学時代を思い起こすと、そんなことはなかった。

 成長期の月日というのは、今に比べてものすごく長いものだったということに気づかされるのも、一つの期間を想像しながら思い出す時に感じることだった。

――思い出すというのは、想像しながら思い出すものだ――

 と、感じるのも、中学時代の成長期を思い出そうとするからだ、

 最近では、自分の感じている中学医大の感覚というのは、他の連中に比べても、もっと長いような気がしている。

 それはどういうことなのかというと、

「自分の場合は、思春期が成長期に比べて後ろにずれているからだ」

 と感じるからだ。

 それはもちろん、思春期が他の連中に比べて遅かったというのが分かってるからだ。しかもそれが一年という中学生にとっては、今から考えてもかなり遅かったと感じる期間だったからだ。

――一年というと、他の連中でもかなり長く感じられるかも知れないな――

 と感じる時期だった。

 思春期の始まりというのも、きっと他の連中に比べて特異だったのかも知れない。それは、思春期が遅れたことに理由がある。

――もし、他の連中の思春期を、羨ましく見るという眼がなければ、自分の思春期というのは来なかったかも知れない――

 と感じるほどだった。

 純也は、一人気になる女の子がいた。

 彼女は、クラスの中でもモテる男子と付き合っているというウワサのある女の子だった。最初は、女性への意識などなったくなかった純也だったので、まったく他人事にしか思っていなかったが、ある日の放課後、純也は忘れものをして教室に戻った時、そこに問題の二人がいたのだ。

――何をしているんだろう?

 と思って見ていると、女の子は何かを抗っているかのようだった。

「やめてよ、こんなところで」

 という女の子に対して、

「いいじゃないか。お前だってまんざらでもないくせに」

 と、まるでドラマに出てくる大人の男性のような口のきき方で、純也にはあまり好感の持てるものではなかった。

「ん、もう」

 と、彼女は抗ってはいたが、少し様子が違って感じられた。

「やっぱりな。お前は本当に従順だな」

 という言葉を男は吐いたが、

――従順? 何を言っているんだ――

 と純也は感じた。

 しかし、彼女の顔はほんのりと赤らんでいる。それが照れ臭さからくるということは、それまで分かるはずのない態度だったはずなのに、その時の純也にはハッキリと分かったのだ。

 二人は、抱き合い、唇が重なった。彼女は吐息を吐き、その様子は純也のオトコとしての部分を発揮させた。

――なんだ、このきつさは――

 下半身と胸の重みに、ムズムズしたものと、嘔吐のようなものを感じ、何とも言えない気分の悪さを感じた。それが、快感と嫉妬であることをその時の純也に分かるはずもなかった。

――大変なものを見てしまった――

 その時から、その男を同じ男として認めたくないという思いから、どんどんエスカレートして、人間として認めたくないほどになっていった。

 彼女に対しては、あれほど淫乱とも思える姿を見せつけられたのに、彼女に対して初めて女性を想う気持ちが芽生えたことに気が付いた。

――あんな淫乱女、好きになんかなるわけはない――

 という思いとは裏腹にであった。

 純也にはその時の思いが強く残っていた。

――僕は絶対に女性を不幸にさせることはない――

 あの時のオトコを、

――やつは人間ではない――

 とまで思ったのだ。そこまで思ったのだから、自分が女性に対して高圧的な態度を取るなどありえないと感じたのだ。

 しかし、純也は大学生になってから、少しの間、彼女をほしいとは思わない時期があった。

 高校を卒業するまでは、女性と付き合うこともなかった。当然のごとく童貞である。

 そんな純也を見かねて、

――いや、そんな純也に便乗してなのかも知れないが――

 先輩が、

「よし、じゃあ、童貞喪失させてやる」

 と言って、風俗に連れていってくれたのだ。

 最初は、

「そんないいですよ」

 と言って、丁重(?)にお断りしたつもりだったが、そんな態度が先輩には、

――いやよいやよも好きのうち――

 という言葉に結びついたのだろう。態度がどんどん嬉々としてきて、

「そうかそうか。心配するな」

 と、相手が恥ずかしがっているだけにしか見えなかったのだろう。

 純也は先輩の態度に押し切られた。最後は完全に根負けしていた。

――いや、本当は興味があったのかも知れない――

 覚悟だと自分には言い聞かせて、心の中では言い聞かせた言葉とは反面、ドキドキしながら、先輩について行った。その時、中学時代の教室で見せつけられたあの時のキスシーンが思い出された。

――どうして、あんな不思議な感覚になったんだろう?

 相反する二つの感情が交錯していたことを忘れていた。確かにあの時は相反する感情が交錯していたことは分かっていたはずである。

 ソープランドという存在がこの世にあるのは分かっていた。そして、ちゃんとした市民権のある営業であることも知っていた。しかし、自分がまさかソープランドのお世話になろうなどと思ってもいなかった。いや、自分の中で、

――最初の相手は、お付き合いをした人――

 と思い込んでいたからかも知れない。

 大学に入ってからの純也は、

――なるべく何も知らない無垢な少年の気持ちを忘れないようにしていこう――

 と思っていた。

 しかし、実際にはそんな男性が好かれるわけもないことを、大学一年生の秋頃までには自分も分かってきていた。

――思うようにはいかないな――

 と感じ、自分の方向性をどうするか、立ち止まって考えてみることにした。

――やっぱり、純真無垢な少年なんて、自分が見ても気持ち悪いだけだ――

 と感じるようになった。

 しかし、急な方向転換などできるはずもなかった。それまで女性に声を掛けることもできないほどの無垢だった自分が、急に女性に声を掛けたとしても、うまくいくはずがない。ただ、声を掛けることに対して抵抗がなかったのは、実際に自分が無垢だと思っていたのは本当に自分の思い込みであり、それを感じると恥ずかしくなった。

 そのため、いつまでも彼女ができるはずもなく、気が付けば冬になっても、まだまだ童貞から抜けられることはなかった。

 その間にはクリスマスだったりバレンタインなどというモテる男性とモテない男性の差が浮き彫りになってしまう時期を通り越さなければいけない。今であれば、気にしなければ済むことだが、大学一年生の純也には、耐えられる時期ではなかった。

 そんな時、先輩が連れていってくれた風俗では、

――こんなに優しくしてくれるんだ――

 と思うほど、まるで天にも昇る心地よさとはそのことだった。

 彼女に正直に自分が童貞であることを示すと、最初は、

「えぇ~、童貞なんだ」

 と言って、興味本位で見られるかも知れないと思った。

 少し嫌だったが、正直に言わずに、後で看破されることを思うと、最初から白状しておく方がいいと思ったのだ。

 しかし、彼女はそんなそんな純也の思いとは裏腹に、別に童貞であることに対して何ら言わなかった。ただ、優しく接してくれるだけだったのだ。

――人の弱いところを無理に話題にしないというのが、本当の優しさなのかも知れないな――

 と、純也は改めて感じた。改めてというのは、以前にもどこかで感じたことがあると思ったからで、それがいつどこでだったのか思い出そうとは敢えてしなかった。

 純也は自分がななの弟になったような気がしてきた。今から思えば、ななを見て、

――どこかで見たような気がする――

 と感じたが、それが誰だったのか、すぐには分からなかった。しかし、それがあの時の風俗のお姉さんだったのを感じると、まるで自分がななに掌で弄ばれそうな気がした。

 もちろん、なながあの時の「お姉さん」ではないことはハッキリしている。面影があるだけで、顔が似ているというわけではない。

 自分が弟になったつもりでななを見ると、

「不倫なんて、お姉さんには似合わない」

 と思うだろう。

 だが、純也本人とすれば、ななの不倫は無理もないことのように思えた。なぜなら、不倫に陥った理由の一つとして想像できるのが、

――不倫相手である部長に、弟のことを相談したのではないか――

 と思うからだ。

 ななは、部長には相談する前から、尊敬の念というか、憧れのようなものを持っていたのかも知れない。しかし、それを弟としては、面白くなかったのではないだろうか?

 弟が宗教に入信したのも、姉のそんな姿を見て、

――裏切られた――

 と勝手に感じたからではないだろうか?

 姉は裏切ったつもりなどない。ひょっとすると、弟のことも、少しは相談に乗ってもらっていたのかも知れない。

 ななの方も、他人に弟のことを相談しているという後ろめたさがあり、変に気を遣っていたとすれば、弟が何かを感じ取ったとしても無理もないことだろう。お互いに気を遣い合っていることですれ違う感情は、これも一種の「偶然の裏返し」と言えるのではないだろうか。

 弟が宗教団体に入信したのも、ななが不倫をしているのも、「偶然の裏返し」。純也は、喫茶店で聞いた不倫の話を他人事だと思い、それから少ししか経っていないにも関わらず、ウワサ話が作り出す闇の世界を垣間見ることができるような気がしていた。

 最初は、

――ウワサ話の真実に触れているのではないか?

 と思っていたが、神髄の近くまでは来ているのだろうが、真実や核心に触れていることはないように思えてきた。だが、今度はそのうちに、何が真実なのか分からなくなってくると、真実と事実が違うものだという基本的なことに気づいた。

――基本的なことほど、誰もが分かっているようで、なかなか理解できるものではない――

 と思えるようになった。


 純也は、自分が妄想していることを思い起こしていた。

 まず、馴染みの喫茶店で、不倫の話をしているのを他人事のように聞いている場面。

 電車の中でななと呼ばれる一人の女性を助けたこと。

 仕事の休暇を貰って、以前取材にいった温泉宿に泊まり、そこで昔話や、自殺した話を聞かされたこと。

 温泉宿の近くに宗教団体の総本山があり、そこにななの弟が入信していたということ。

 ななが会社の部長と不倫をしていたということ。

 そして、総本山に入信していた弟が自殺をしてしまったということ。


 それぞれに、いろいろな思いがあり、想像が妄想を膨らませているのだが、よく考えてみると、時系列的には矛盾が明らかであった。

 それは「偶然の裏返し」として片づけられるものではないような気がしたが、どうなのだろうか?

 純也は、今までのことを思い起こしているうちに、自分が正直者であることに気が付いた。

 正直者というのは、相手の気持ちを忖度して、空気を読むことが苦手である。

 いや、苦手というわけではなく、空気を読まなければいけないことは分かっているのだが、自分の中にある

――正直にならなければいけない――

 という気持ちが優先してしまうのだ。

 だが、正直者というのは、相手の捉え方によって、かなり違っている。

「正直者は損をする」

 と言われるが、案外とそうでもなかったりする。

 正直者というのは、危険なことに巻き込まれることは少ない。なぜなら、

「正直者を相手にすると、すべてを暴露されてしまう」

 と思うからで、それは当然のことである。

 後ろめたいことを考えている連中には正直者ほど扱いにくい人間はいない。何でも話をしてしまうからだ。

 しかし、逆も言える。

 自分の意志に関わらず、ヤバいことを知ってしまっても、正直者としての性が、

「知っていることは正直に言わないと自分が許せない」

 と思うからで、ヤバいことをしている連中にとっては、自分たちの知らないところで、勝手に暴露されてしまっていることなので、純也のような男を生かしてはおけないと思うかも知れない。

 そこまではいかなくても、純也のような性格には、相手の立場によって、捉えられ方がまったく違っているのは事実だろう。人それぞれに性格や立場があるのだから、それに合わせて付き合っていくのが人間関係なのに、相手に構わず、皆同じように付き合うのであるから、当然相手の捉え方が違うのは当たり前のことである。

 純也が、急に自分をななの弟になったような気になったのも、そう考えてくると無理もないことのようだった。

 純也は本当に宗教団体に入信したことはない。先輩が体験で入信するのに協力はしたことがあるが、それだけのことだった。

 純也は自分が正直者であるという意識はいつも持っているが、

――だから何だというのだ?

 と改まって考えると、そう思うくらいに正直者だという意識は無意識に近かった。それはまるで「路傍の石」のように、目の前にあっても、それを気にすることはないのと同じである。

 純也は自殺した弟のことを考えていた。

 以前、自分が自殺している場面を妄想したのを思い出していた。自殺をする時、

――どうすれば、簡単に死ぬことができるか?

 という思いを抱いての想像だったが、下手に生き残った時のことが頭に残って、自殺の手段をまともに選べないと感じていた。

 しかし、想像する自殺の場面は、屋上から階下を望んでいる姿だった。

 下には通路があり、その向こうには植え込みがあった。その時に感じたのは、

――どうせ死ぬなら、植え込みの上に落ちたい――

 と感じた。

 しかし、これも矛盾している。

 自分が、

――どうすれば、簡単に死ぬことができるか?

 と意識したのを思い出すと、植え込みの上であれば、下手をすると生き残るかも知れないという普通に考えれば分かることを考えられなかったことである。

――どうして、こんな単純なことを――

 と思ったが、なぜ分からなかったのか、疑問だった。

――これも自分が正直者だからなんだろうか?

 死にたくないという思いがどこかにあって、それを未練というのだろうが、未練と覚悟の間で交錯する気持ちが、後から思うと理屈としては納得させられることが分かる。

 死のうと考えるのは、覚悟が強いからで、最後まで覚悟の方が強く持てる人間を、純也は、

――大した人間だ――

 と感じる。

 世の中の人は、

「死んで花実は咲かない。死んでしまえばそれまでだ」

 というだろう。

 そして、死んだ人の骸にムチを打つような言葉を、「正義」として正当化するに違いない。

 純也もそれが当然だと思っていた。テレビドラマやニュース、学校の授業でも、

「命は何にも代えられない大切なもの。自分で勝手に死を選んではいけない。人は生まれてくることも選べないけど、死ぬことも選べない」

 という言葉を幾度となく聞かされた。

 それを聞くと、なぜか涙が出てきた。死を選んだ人を、

「悪いことだ」

 とまで考えるくらいだった。

 しかし、言葉の魔力というのはあるもので、一種のプロパガンダだと思うのは、戦争モノの映画や本に興味を持ったからだ。

――人の命は何ものよりも大切といいながら、人殺しを公然とする戦争は、一体何なんだ?

 と思う。

 それも無理のないことだ。誰もがそう感じないのはなぜなのかと思う。

 平和ボケしているからだというのもあるが、実際に戦争に直面している人も、命のことを考える余裕もないほど、必死なのかも知れないと思うと、何が正しいのか分からない。つまりは、

「事実が真実だとは限らないからだ」

 と言えるからではないだろうか。

 純也はななの弟も正直者だったような気がした。正直者だからこそ、自分にウソがつけずに、自殺してしまったように思う。

 ただ、ななの弟と純也とでは同じ正直者でも、その性質が違っているように思う。

 純也の場合は、正直者だということを自分で感じようとしていない。あくまでも無意識にであって、むしろ正直者が嫌いな性格だったのではないだろうか? だから、まわりの人は純也が正直者だと気づかずに、見た目をそのまま信じていた。だから、社会部からも簡単に左遷させたりできたのだろう、

 しかし、ななの弟の場合は、正直者だということを自分で分かっていた。だから、宗教団体への入信に何ら疑いを持つことはなく、自分の思った道を進んだのではないだろうか。

 正直者というのは、他の人に対してというよりも、自分に対して正直な性格のことをいう。だから、自分が自由でなければいけないといつも思っていたのだろう。

 自殺にしても同じことで、まわりの人がどう思おうと、自分がこの世に必要のない人間だと思うと、簡単に死を選ぶのかも知れない。それは宗教団体の影響もあったのかも知れないが、最後の生殺与奪の権利は、自分にしかないと思っていた。

 純也も、生殺与奪の権利は自分にしかないと思っている。ひょっとすると、死を覚悟した時、自分の中に、自分の未来、つまり最後の瞬間が見えたのかも知れない。

 どうしてななの弟が死ぬ気になったのか分からない。だが、それはいずれハッキリするのではないかと思えた。

 その時に見えたのが何だったのか、純也には分かる気がした。

 目の前に見えている景色を見た時、ななの弟は、

「植え込みに落ちればよかったかも知れないな」

 と感じた。

 自分はもうこの世にはいない、だからこそ、植え込みが見えたのだ……。


 三十年後、純也は部長になっていた。この三十年というのが純也にとって何であったのか、いまさら思い出すことはできない。

 三十年前、

「あなたとはお付き合いできません。でも、またいずれ……」

 と言って、純也の前から去ったなな、曖昧な記憶はいずれ完全に消えてしまっていた。

 ただいつも目を瞑ると、目の前に植え込みが見えていた。それがななの弟の意識であることは意識の中にはない。いつも自分の中にななの弟が住んでいた。

 純也は結婚することもなく、ずっと独身を通していた。その思いは、

「またいずれ」

 という言葉を発する女の声が耳鳴りのように響いたからだ。

 まわりから、

「どうして結婚しないんですか?」

 と聞かれると、

「私は不倫をしたくないんだよ」

 と、答えていた。

 聞いた人は誰もが訝しく思ったことだろう。そして、それ以上は誰も結婚を勧めようとしない。

――ななの弟の自殺の原因、このあたりにあるのだろうか?

 純也は、何度か総本山の近くの温泉宿に宿泊していた。温泉に浸かりながら、目を瞑って考えた。

――どうして、目を瞑ると、植え込みしか見えてこないのだろう?

 ななとの出会いが早いのか、それともななの弟に会うのが早いのか、生殺与奪の権利は、その時の純也にはなかったのだ。

「偶然の裏返し」

 ななの弟の存在を思い出すことができるのかどうか? それが、純也の運命を決めるのかも知れない……。


                  (  完  )

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

偶然の裏返し 森本 晃次 @kakku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ