第22話

 お客さんがゆったりと歩んで来る。

 比例してあたしの脈も早くなる。く、来るッ。


 しかし。


 お客さんは、ささっとレジを横切った。

 

 え、来ないの。

 狐につままれた気分で、あたしは遠ざかる真っ黒なワンピースを見る。


 お客さんはそのまま店内を進んでいた。方向は窓際の角。

 あそこは一人席の1番端っこで、エル字になっている。角席って言うんだっけ。椅子に座れば真横に窓、後ろにボックス席があるという造りだ。今みたいなピークタイムを過ぎた時間だと、座る人が多い席でもある。


 

 お客さんは到着すると、ことり。椅子に傘を立てかけた。当然のように腰を下ろし、がさがさと鞄を漁っている。どうしたんだろう。忘れ物でもしたのかな。


 あたしを傾げている間に、お客さんの動きが止まった。進展だ。固唾を呑んでいると、お客さんは長くて薄い四角形を取り出した。スケジュール帳にしては幅が狭いし、遠くから見てもリッチ感がある。お財布みたいだなぁ。


 って、お財布?あ、そっか。

 ぴこーん。頭上で豆電球が光る感覚がした。あたしはふんふん頷く。





 ゆっくり、よりはゆったりと。またしてもあたしのいるレジカウンターへ、お客さんが近づいてくる。今度こそ目の前に、お客さんがやってきた。

 あたしは笑顔を浮かべた。


「いらっしゃいませ。メニューはお決まりですか」

 あたしの言葉にお客さんは短く返事をする。小さかったけど、とても澄んでいた。女の人にしては低めで聞こえやすくて、うっとりしたくなる艶やかな声。


 って、ヤバいヤバい。

 あたしはくわっと目をいっぱいに開いた。


 ついうっとりしてしまった。今はバイト中なんだから、集中しなきゃ。

 ちらとお客さんの様子を見る。メニューをガン見していて、こちらに気づいていないみたいだ。ラッキー。


「Mサイズのアイスコーヒーを」

 ちらり。

 体勢そのままに、お客さんは顔だけあたしに向ける。


「は、はいッ。400円です」

 意図せず声が震えた。やば、恥ずかしい。

 あたしはお会計用のトレー、カルトンを素早く差し出した。


 変に思われちゃったかな。

 怪訝そうな顔をお客さんはしていた。でもすぐにポーカーフェイスに戻る。料金を払うと、ひょいひょいミルクと砂糖を手に取る。そのまま颯爽と客席へ消えていった。


 はぁ、びっくり。

 だって。お客さんが注文を終えたとき、徐に顔を上げたのだ。勿論ずっと見ていたあたしは、ばちりと目が合った。


 目の先には太陽のような右目と海のような左目。作り物みたいな色彩が、黒黒とした睫毛まつげの向こうから垣間見えていた。


 それがやけにくすぐったくて。

 そぞろになっちゃったのだ。


 あたしはグラスを用意して、ソーサーのコーヒーを淹れる。そして銀トレイ、プラッターを出すとグラスを乗せてカウンターから出発した。


 会話ができる距離になったところで、お客さんは顔を上げた。じっ、と異なる色彩があたしを捉える。後退りしたくなるくらいの迫力と、眺めていたい欲望で頭の中がぐるぐるしそう。


 平常心、平常心。

 あたしは営業スマイルを向けた。


「お待たせしました。アイスコーヒーです」

「感謝します。そこへ」

 にこやかに返事をして、あたしは指定の場所へ置く。離れようとしたら、「ところで」とお客さんは予想通りの言葉を告げた。

「見ない顔。其方、もしかして新人か」






 ところで、みなさん。

 クロックヴィクトリアンのシステムは覚えていらっしゃるだろうか。


 クロックヴィクトリアンでは、まず来店するとレジ前の店員にオーダーをする。次に支払い。それから客席を選んで待機という順番だ。所謂前払い制である。

 だから大抵のお客さんがまずはカウンターに直行する。


 ピークタイム以外は。

 ピークであるランチタイムの時間帯になると、クロックヴィクトリアンも例外なく忙しない。というのも、ここの周りはコンビニこそあるけど、ファミレスとかは少ないから。 必然、この時間はお客さんがどっと詰めてくる。


 なのでランチタイムのときは先に席を確保してもらって、それからカウンターへ来てもらうように誘導していた。


 今はピークタイムではない。

 もっと言えば、現在お客さんはこの人しかいない。なのに、この人は先に席を取りに行った。がらがらの店内で脇目も振らずに今の席へ。


 常連さんだ。


 ここのピークタイムの事情も知っていて、定位置らしきものもある。だったら、この人はクロックヴィクトリアンの常連客なのだ。






 お客さんの質問にあたしは元気よく肯定した。

 それからプラッターを抱えて言う。


「あの、お客さんはもしかして常連さんですか」

「肯定します。あれやこれやと、そうね。もう3年はいるか、うむ」


 お客さんは宙を見ながら指折りする。

 あたしは緩みそうな口元を抑えた。やった、やっぱり当たってた。弾む気持ちのまま、あたしは言う。


「そうだったんですね!あたし、先月末から入りました、波須歯はすば澪羅れいらと言いますッ」

「把握した。儂はカヅマと言う」

「カズマさんですね」

「いいや。ヅ、だ。カズマではない、カヅマだ」


 お客さん、いやカヅマさんは首を振る。

 人差し指を立てて、ずいと身を乗り出した。

 つられて、うっかり。あたしもじりっと後ろへ下がる。に、2、3歩くらいだからどうってことないけどねッ。


 押された気持ちが出ないように。

 あたしは営業スマイルを作り直して対面した。


「カヅマさんですね、よろしくお願いします」

「うむ。よしなに」

「よ、よしなに」


 よし、な、に。

 頭にはてなを浮かばせながら、あたしもぺこりと頭を下げた。


 え、よしなにってなんだろう。会話は成立している感じがするし、よろしくってことで良いのかな。

 何となくわかった気がした。でもそれだけだ。合っているかどうか全く自信が無い。


 あとで晃さんにでも聞いてみよう。うんそれが良いよね、そうしよっと。





 決意を新たにしたら視界が開けた。

 そういえばあたし、まだ客席にいたんだった。やば。

 辺りを見てみる。カヅマさんと挨拶したときから状態は変わってなさそうだった。勿論、あきらさんが戻った様子も無い。


 それよりカヅマさんだ。

 ストローをさして、カヅマさんは静かにコーヒーを飲んでいた。持ってきたミルクもシロップも手付かずに。


 すごい。あたしはどっちも使わないと飲めないんだよね。まだあの苦味に慣れていないから。慣れたとしても、まぁ、両方入れるだろうけどさ。


 良いもん良いもん。

 晃さんも水野さんも言っていたから。自分が楽しく、好きなように飲めば良いってねッ。


 ほぅとあたしは溜息を吐く。

 つと、カヅマさんはあたしを見た。


「まだ何か」

 ぴぇ。


「へッ、あ、いいえ何でもないですッ」

 プラッターを持ちながら、ぶんぶんと両手を振る。


 ものすごく真っ当な質問だった。そうだよ、特に何もないんだから帰れば良いじゃん。お客さんが少ないときはちょっと客席に居座ることも、稀によくあるけどさ。あれ、だったらどっちなんだろう。


 と、とりあえず引き上げなきゃ。





 笑顔を浮かべて、帰ろうと足を浮かばせたときだ。これで良いのかなって、心が少しモヤッとした。なんだろうこれ。ちょっと気味が悪い。


 あたしは考えてみる。

 いつからかな。コーヒーを準備してるとき、ではなくて。注文を聞いているときも違うし、カウンターを素通りされたときも違う。


 あ、そっか。わかった。

 あたしは腑に落ちたのを感じた。


 初めてカヅマさんを見たときだ。

 カヅマさんを見て、溜息が出たときだ。


 そりゃあ悪い意味で吐くことだってあるし、大体は悪い意味で吐くものだと思う。けど、あたしは悪い意味では吐いてなかった。

 これだ、吐いた理由が原因だったんだ。


 なら、本当に言わないで帰っちゃって良いのかな。

 ずるずると引きずらないのかな。

 きっと引きずっちゃう。もやもやしたままになる。断言できる。ならもやもやしないようにやるしかない。


 よし、決めた。

 言っちゃおう。

 こちらに向いたままのカヅマさんへ、あたしは口を開く。


「その、えっと、ゴスロリかわいいですねッ」






 途端。

 カヅマさんの綺麗な顔に皺が寄った。

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ここ、カフヱ=クロックヴィクトリアンにて シヲンヌ @siwonnu

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