幕間

ターニャのペンダント

 エマという人間は、ターニャにとってどこまでも心の許せる友人だった。そろそろ三年ほどの付き合いになる。

 ただの雇い主の一人にすぎなかった彼女を、いったいいつからそれほど大切に思うようになったのか。そう考えたときに思い浮かぶのは、出会った日のことだった。




「あなたがターニャさんですか? 本日はよろしくお願いします」


 エマはそう言って微笑み、手を差し出してきた。

 ターニャとは違う、白く細い手。けれどよくわからないたこがあったり、傷痕があったりした。たぶん、何かの職人の手だ。

 意図がわからなくてただ見つめていると、彼女は「握手って……しませんか?」と少し恥ずかしそうに手を引っ込めた。


「すみません、傭兵に護衛をお願いするのは今日が初めてで」

「……するときもある」


 気づいたらそう嘘をついて、エマの手を握っていた。そのやわらかさはやはり、自分とは違うな、と感じた。

 馬車を置いてあるところまで共に向かいながら、エマは今日の目的を話してくれた。今日は特殊な宝石を採りにいくのだという。


「まだ見習いみたいなものなんですけど、一応宝石に関わる仕事をしているんです。ええっと、宝石職人……と言うには、加工ができないのは致命的だし……。ジュエリーデザイナーとか鑑定士だと、範囲が狭すぎるし……」


 別に身分なんてどうでもよかったが、彼女ははっきりさせたかったらしい。少しの間うんうん悩んで、何かを思いついた顔をした。


「――宝石商、が一番いいのかもしれません。ちょっと広い意味で、になりますけど」


 宝石商。耳慣れない職業はやっぱりどうでもよくて、ターニャはただこくりとうなずいた。それでもエマは、なんだか少し満足そうにしていた。

 採りにいくのはキャッツアイという宝石。猫の目のような宝石なのだと、彼女は馬車に乗り込みながら楽しそうに話した。目的地は王都から南東に進んだところにある崖だ。風見猫かざみねこが多く生息している場所で、キャッツアイを採るにはそれが重要らしい。


 馬車に乗ってからはしばらく無言だったが、やがて沈黙に飽きたのか、エマはキャビンから身を乗り出して話しかけてきた。


「ターニャさんは」

「ターニャでいい。敬語もいらない」

「……ターニャは、宝石を見たことある?」


 うなずく。貴族がつけているものを何度か見たことがあった。

 ターニャの答えに、エマは口元を緩めた。


「よかった。それじゃあ……宝石、好き?」


 ――そういえば、あたしは『好き』なものがあるのか?


 問われてから初めて考えた。宝石は好きじゃない。そもそもそんなに知らない。知らないものを好きにはなれない。しかし知っているものなら、好きと思えるものもあるのではないか。

 しばらく考えたが、思いつかなかった。『嫌い』ならわかる。掟だらけの面倒な部族、窮屈な家、道具としか見てこない家族、あと野菜。嫌いなものから逃げ出して独り立ちした今、それなりに穏やかに暮らせている。それでも好きなものはなかった。

 自分の中で結論が出たことに満足して返事を忘れていたら、「宝石、好きじゃない?」と控えめに訊かれた。もうだいぶ時間が経っていたのに、ここまでは何も言わずに待っていたのか、と少し驚いた。


「……宝石なんて、ただのキラキラした石ころだろ」


 きらきらしていて眩しかったが、それだけだ。

 エマは目を見開いて、それからぱくぱくと口を動かした。音も何も出なかった。ターニャの言葉が正しすぎて、何も言い返せないのかもしれない。

 それならそれで静かでいいな、と思っていたら、ようやく声が出てくる。


「ちがっ……ちがわ、ないかも……しれないけど……人によってはそうかもしれないけど」


 うぅ、とうめいて、エマは眉を下げた。


「ただのキラキラした石ころでも、それで救われる人がいるくらい、綺麗なのに」


 綺麗。何を示しているのか一瞬わからなかったが、きらきらして眩しいのが綺麗ということなのか、と納得した。単語も概念も知っていたはずなのに、うまく結びついていなかった。

 あれは、綺麗と言えばよかったのか。


「ごめんなさい、好きって言ってもらえる前提で質問しちゃってたみたい。綺麗とも何とも感じない人だっているのはわかってたのに……」

「綺麗だった」

「……綺麗だった? ええっと、見たことある宝石がってこと?」


 うなずくと、エマの顔がぱっと明るくなった。


「綺麗だと思ったんだ! それならきっと、好きにもなれるよ。好きになりたいって、いつか思ってくれたら嬉しいな」


 なぜエマが嬉しいのかはわからなかったが、なんとなく、悪くない気持ちになった。

 途中で休憩を挟みつつ(彼女の妹が作ったのだという弁当を一緒に食べた)、ほどなくして崖に着いた。風が強くて、目を細める。風見猫がこの崖に多く住み着いているのは、ここで発生する風が好物だからだった。


「ではこれから、その……風見猫の、便を。探します」

「……?」

「キャッツアイは普通の採掘でも採れるんだけど、風見猫の便の中から採れることもあるんだ。しかも、体内でうまいこと研磨されてるのか、綺麗にまんまるな状態でね。イメージの問題で、普通に採ったときよりも宝石としての価値は低いんだけど……経験として、採ってみたいなって思って。便探しは私がやるから、ターニャは哨戒をお願いね」


 何もよくわからなかったが、あとは護衛の役目を果たすだけだ。

 辺りを警戒しながらエマについて回る。なぜか魔物は襲ってこなかった。風見猫は当然見かけるが、のんびりと過ごしている。腹を出して寝ているものまでいた。

 この辺りには前も来たことがあったが、風見猫たちはこれほど呑気にはしていなかった。害があると判断されたら襲いかかってくることもあったくらいなのに、いったいどうしたのだろうか。


「――あっ、あった!」


 便を見つけるたびに水魔法で洗い流していたエマが、弾んだ声を上げた。

 丁寧に丁寧に水で洗って、ころんとした丸いものを布で包む。気になって覗き込むと、にっこりと笑って見せてきた。


「トルマリン・キャッツアイだよ。光の筋が入ってて、猫の目みたいで可愛いでしょう?」


 くすんだピンク色の中心に、白い筋が入っている。変な輝き方をする石だった。魔力の流れも、なんだか猫っぽい。

 視線を移して、近くにいた風見猫の目を見てみる。確かに似ている。


「体内で魔宝石を作る魔物は他にもいるけど、キャッツアイを作れるのは風見猫だけなんだよね。普通のキャッツアイよりも魔力の容量が大きいから、ジュエリーよりは魔道具向き。これは魔道具職人さんに買ってもらうことになるかなぁ」


 そんな説明をしつつも、それはひとり言のようだった。押しつけるような雰囲気はなく、聞きたかったら聞いてね、というくらいの。

 エマは石についた水気を拭くと、持ってきていたケースにそれをしまった。


「うん、満足した。付き合ってくれてありがとう、ターニャ。暗くなる前に帰りたいし、そろそろ帰ろうか」


 たったこれだけで満足したらしい。もう帰るのか、と思ったが、雇い主には速やかに従う。

 結局王都に帰るまで、魔物に襲われることはなかった。珍しいこともあるものだ。楽でいい。

 町の入口で別れようとしたのだが、エマが「時間があるならついてきてくれる?」と言ってきた。この後は宿屋に戻るだけなので、まあいいかとついていくことにした。


 エマがターニャを連れていったのは、宝石を売っている店だった。きらびやかで、目がつぶれそうだと感じた。

 中に入っていいと言われたが、居心地が悪いので断って、店の外で待つ。少しして、エマが何かを持って出てきた。


「これ、よかったら受け取って。今日のお礼に」


 紐の先に、黄緑色の丸い石がついている。おそらく首から下げるものだ。先ほどの石とは違うが、真ん中に光の筋は入っている。色違いかもしれない。


「風見猫から採ったんじゃなくて、採掘したやつだよ。それ以外にもさっきの石とちょっと違って、クリソベリルキャッツアイって言うの。難しい名前だよね」

「……代金はもうもらってる」

「増える分には問題ないでしょう?」


 値切られることはあっても、その逆は初めてだった。それに、装身具をもらうのも。雇い主がおまけでくれるのは、普通せいぜい食料くらいだ。


「私が首にかけてもいい?」


 迷った末、無言で頭を下げてやると、エマはすぐにターニャの首にそれをかけた。

 胸元で光るなんとかキャッツアイを、思わずまじまじと見つめる。

 なぜこれが、自分の首にかかっているのだろう。エマがかけたところは見ていたはずなのに、不思議な気持ちになった。


「やっぱり似合ってる」

「……似合ってる?」

「うん、とっても」


 訝るターニャに、エマは「本当に似合ってるって」と少し困った顔をした。

 彼女の目に、今の自分はどんなふうに映っているのだろうか。


「……こんなもの。あたしが、なんで」

「もうターニャのものだから、売ってもいいよ。お金にしたいなら買い取ってあげる」


 何を言いたいのか自分でもわからなかったつぶやきに、エマは淡々と告げた。もらいかけたものを返すだけなのに、そうしたらエマが金を支払うというのか。理屈がさっぱりわからなかった。


 ――何したいんだ、こいつ。


 今に至るまでは、それなりにいい雇い主だったと感じていた。今後も護衛依頼があれば受けたい、とも。けれど今は、なぜか少しだけ恐ろしい気がした。

 探るようにじっと見つめる。エマはターニャの視線に怯む様子もなく、言葉を続けた。


「でも、ほんの少しでも綺麗だって思ったら、持っていてほしいな」


 綺麗。確かに、綺麗だ。

 きらきら、というわけではないが、綺麗だった。眩しくて、どうしたらいいのかわからなくなる。


「……だめだ」


 吐き出すように声がこぼれた。

 こんなもの、自分には似合わない。もっと――たとえば、エマのような。そういう人間がつけたほうがいいものだ。

 返そうと紐に手をかけて顔を上げると、優しく微笑むエマと目が合った。


「宝石って、誰が好きになってもいいんだよ」


 なんだそれは、と思った。

 ターニャの言葉への返答になっていない。意味がわからなかった。

 どう反応すべきか悩んで、ターニャは再びキャッツアイに視線を落とした。これは、誰が好きになってもいいもの。


 ――あたしも好きになっていいもの?


 貴族でもないし、可愛らしい女の子というわけでもないのに。


「……キャッツアイは守護の力を持ってる。魔道具にすれば、魔物の攻撃とかも弾けるようになるんだ。実用的で、傭兵業の役に立つかも。ジュエリーじゃなくて、防具って思えば……『だめ』じゃないんじゃないかな」


 そこまで言い切ってから、エマは今更不安そうに謝ってきた。


「よ、余計なお世話だったらごめん」

「……ううん。これ、もらう」


 ぎゅ、と石を片手で握る。

 魔道具への加工は、持ち込む品が魔宝石であればかなり安く済むはずだった。ここ最近の護衛料でまかなえるだろう。


「ありがとう、エマ」


 礼を伝えると、エマは目を丸くした。

 けれどすぐに嬉しそうに笑った。


「どういたしまして、ターニャ」




 あれから、好きなものが増えた。エマ、宝石、猫、あと甘いもの。他にもたくさん。

 今日もターニャの胸元には、美しいクリソベリルキャッツアイが揺れている。



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